三つの石原吉郎像:細見和之、野村喜和夫、三宅勇介(その1)
2015年後半、相次いでふたつの石原吉郎論が出された。まず8月に細見和之の『石原吉郎――シベリア抑留詩人の生と詩』、そして11月には野村喜和夫の『証言と抒情――詩人石原吉郎と私たち』だ。いずれも300ページを超える大作である。そしてどちらも実際に現代詩を書き続けている実作者の手による評論である。そこからはおのずと共通した姿勢が浮かび上がる。細見も野村も、冷静で客観的な研究者ではあり得ないのだ。むしろふたりは詩人として己れの全存在を賭けるかのようにして石原吉郎を論じている。石原吉郎の詩に肉薄し、その謎を解き明かすことによって、自分自身の詩の未来に血路を切り開こうとするかのように。
だがそれは諸刃の剣の、危険な行為だ。一歩間違えば、彼らは石原吉郎という特異な宿命と才能を持ち合わせた詩人の重力に押し潰されるか、さもなくばその模倣者と成り下がるか、いずれにせよ自分の詩が書けなくなるかもしれないからだ。なぜそんなギャンブルに手を出すのか。もくもくとわが道を歩み、人の詩を研究する暇があったら一篇でも自分の詩を書けばよいではないか?
先ごろ亡くなった大岡信が1963年に書いた「割れない卵」(『超現実と抒情』収)という文章に、そのような問いに答える一節がある。「日本の近代詩が、繁茂すればするほどその根の細さが不安をさそう一本の樹のごとき感を与えるとすれば、それはたぶん、詩を作る(傍点)詩人のみ多くて、詩を見る(傍点)詩人があまりに少なく、あるいは不当に無視されてきたからではないだろうか。なぜなら、詩を見る(したがって詩を作ることに背理を見る)にいたった詩人は、つねに最も根源的な問題、すなわち詩における言葉の問題と衝突してしまった詩人だからである」
細見和之も野村喜和夫も、本質的に「詩を見る」タイプの詩人なのだ。彼らは詩を書きたいから「詩を作る」のではなく、ひとりの人間として生きてゆくうえで書かずにはいられないからそうするのである。そしてふたりがそれぞれの評論のなかで口を揃えて言うことは、石原吉郎こそ誰よりも生き延びるために詩を書いた男であったということだ。だからこそふたりとも、自分が詩を書けなくなる恐れを冒してでも、石原の「詩を見る」ことに取りつかれてしまうのだろう。
とは言え、細見と野村の「見方」はそれぞれに独特だ。まずはふたりの石原論の目次を比べてみよう。細見和之の『石原吉郎――シベリア抑留詩人の生と詩』の方はこんな構成だ。
1.記憶としての言葉――体験と作品の関係をめぐって
2.昭和10年前後の青春――誕生から応召まで
3.鹿野武一との出会いと戦争体験――応召からシベリア抑留まで
4.シベリアの日々――抑留から帰国まで
5.失語から詩作へ――帰国、そして『ロシナンテ』という楽園
6.詩集『サンチョ・パンサの帰郷』の世界――その三つの層をめぐって
7.強制された日常から――語り出されたシベリア
8.早すぎる晩年の日々――旺盛な詩作と突然の詩
対して野村喜和夫の『証言と抒情――詩人石原吉郎と私たち』は、
I 主題 石原吉郎へのアプローチ
II 変奏 六つの旋律:存在 言語 パウル・ツェラン 現代詩 他者 信仰
III コーダ 石原吉郎と私たち
全体としては細見版石原論が石原吉郎の生涯を丹念に辿りながら、たとえばそのキリスト教体験やエスペラント語の習得に深く切り込み、その痕跡を石原詩のテキストに追い求めるようなアプローチであるのに対して、野村版石原論はレヴィナスやアガンペンといった哲学者の理論を援用しながら、まっすぐ石原詩学の原理と機構に切り込んでゆくという印象である。
もっともその一方で、むしろ細見の方が石原吉郎の詩と彼のシベリア抑留体験を切り離してみるべきだと注意を促しているし、野村も細見に劣らず石原の実生活における足跡を丹念に辿り、とりわけそのキリスト教体験が石原詩に及ぼした影響についてはカール・バルトの神学を中心に据えて鮮やかな分析を行っている。より本質的な違いとしては、石原吉郎の捉え方というよりも、ふたりが「詩を見る」ときの「詩」そのものの捉え方にあるというべきだろう。
細見和之にとっての「詩」とは「投壜通信」だ。石原論のまえがきを彼はこう結んでいる。「ツェランは私たちが読むことのできる彼の少ない詩論のなかで、詩をあくまで『対話』と見なしつづけた。あるいは自分の詩を、壜に詰めてあて所なく放たれた投壜通信とも呼んだ。石原の詩とエッセイ、さらにはその生涯もまた、二〇世紀という『戦争と革命の時代』のただなかから二一世紀の私たちに託された投壜通信と呼べるのではないか。本書では、その固い栓を抜き、折り畳まれた紙を開き、ところどころ滲んだその文字を、私なりに読み解くことを試みたい」
野村喜和夫にとっての「詩」は、その石原論の題名に示されている。すなわち「証言と抒情」だ。「詩とは証言ではない。詩人はすべからく、経験をいったん内的に沈めて、そこからふたたび浮かび上がってくる言葉をこそ書き取らねばならないのである。詩はいわば、もっとも深められた証言としての抒情であり、もっともなまなましく開かれた抒情としての証言なのだ」と彼は言う。これをもう少し分かりやすく言うと、ひとりの人間の実存的な体験というものは絶対に他者へ伝えることができないという前提がある。その不可能性を踏まえたうえで、なおそれを言語によって伝えようと試みる行為こそが、野村にとっての詩なのである。
(この項続く)
細見和之『石原吉郎――シベリア抑留詩人の生と詩』
http://www.chuko.co.jp/tanko/2015/08/004750.html
野村喜和夫『証言と抒情――詩人石原吉郎と私たち』
http://www.hakusuisha.co.jp/book/b210720.html
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