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森山至貴 x 四元康祐 往復書簡「詩と音楽と社会的現実と」:第五回

vol. 9 from Y to M:

ご返事遅くなってごめんなさい。森山さんからのお便りをいただいた直後、中国・成都の詩祭に出かけていたんです。中国を訪れるのはなんと三十年ぶり。当然ながら以前とは大きく変化しているところも多々ありましたが、その一方で忘れていた当時の思い出が生々しく蘇ってくるような懐かしさもしばしばでした。国家というものも、ひとりの人と同じで、変化と継続が同居しているのですね。

今回改めて印象に残ったこと、ふたつ。ひとつは活字のパワーでした。成都と言えば三国志で有名だそうですが(恥ずかしながら初めて知りました)、それを記念する武候祠や、杜甫の草堂にあった碑文から、町中の壁を覆う共産党のスローガンまで、中国の人々がいかに思いを文字に託すということに取り憑かれているかということ。とりわけ碑や書は、鋭利な直線で構成される楷書が整然と升目状に並んでいて、いかにも個人的な不定形の「思い」が公共のものに変換され固定されたという印象。流れを流れのままに表した日本の書とは似ても似つかぬものだと思いました。

たまたま成都に行く直前、日本の友人から『中世の文学伝統』(風巻景次郎著・岩波文庫)という本を貰って、現地で読み始めたのですが、その中に、古代中国では「詩」とはこころざしを言い表すものだった、というくだりがありました。

今少し精しくいうと、『詩経』の国風関雎(かんしょ)の序に、心にある間を志となし、言に発したのを詩となすというのや、『漢書』の芸文志に言を誦(じゅ)するを詩というとあるなどがそれである。要するに日本語でいう所の「うたう」のでなくて、思っていること、胸の裡にあることを言葉に発表したものを指すのであるらしい。

これに対して、古代の日本には、何よりもまず「うた」があった(と景次郎先生は説いています)。だからこそ「からうた」に対して「やまとうた」、「漢詩」に対して「和歌」と呼んだのであり、万葉の時代の和歌は、実際楽器伴奏で、節をつけて歌われていたのであると。さらに、今日私たちが575・77として上句下句で捉えている三十一文字も、当時は歌謡の一番、二番を反歌で締めくくる57・57・7であったとか、平安後期の歌人達が中国的な「個人の志を文字で表明する」という精神を獲得した時、和歌は「書かれた言語による詩 written language poem」となり、そこから中世の日本文学が始まったなど、目から鱗の論考が続くのですが、日本の詩の伝統における歌(声)と文字のダイナミックなぶつかり合いを、その震源地たる中国で読むのは、感慨深いものがありました。

もうひとつの印象的な体験は、詩祭において中国の詩が朗読される際の、その朗々たる詠いぶりなのでした。現代の詩人が自作を朗読するときも、俳優や高校生が古い時代の詩を読むときも、非常に演技的というか、エンタメ性に富んでいるというか、中国語の四声の抑揚に乗って、身振り手振り表情豊かに、時には音楽の演奏に合わせて朗読するのです。そこには完成されたスタイルがあって、ほとんど即興や変奏の入る余地はなく、何回やっても寸分変わらないだろうと思わせる迫力がありました。

これって、奇妙な逆転現象ですよね。歌から始まったはずの日本の詩の方が、朗読と言えば大抵単調なボソボソですからね。萩原朔太郎はそれに対して「韻律美のかけらもない」と愛想をつかして文語定型に回帰してしまったわけですが、現代に至っても事情は同じ。逆に文字から始まったはずの中国の詩の方が、歌の要素をしっかりと組み込んでいる。

それにつけても、彼の地で景次郎先生の日本中世文学論を読み、いたるところに遍在する漢字の行列と、迫力満点の朗読を吟ずる中国の詩人たちを目の当たりにすると、明治以来いまだに「個人の志を文字で表明する」という課題に試行錯誤を繰り返している日本の口語自由詩の身上に思いが行きます。そしてそこには僕自身の右往左往も、「詩」を「歌」にすることに取り憑かれた森山さんの姿も、海の向こうの三笠の山の彼方に見えるのでした。

ところで森山さんの前回のお便りには「翻訳」に関するご質問がありましたね。僕にとって「翻訳」という要素はどんな意味を持つのかと。

これはもういろんな人が言っていることだけど、僕も全ての表現は本質的に翻訳なのだろうと思っています。井筒俊彦先生の絶対根源的無分節の概念や、中也の「手という名辞を口にする前に感じている手」理論にあるように、意識って最初は言葉じゃないですからね。それを言語化した時点ですでに翻訳なんです、たとえその言語が母国語であったとしても。母国語から外国語に翻訳するのは、だから二次的な翻訳に過ぎないと言えるんじゃないかな。

この辺りのことを一番切れ味鋭く言い表したのは、僕が知る限りでは翻訳家の鴻巣友季子さんですね。

よい文章、よい言葉は詩を内包し、あらゆる表現は翻訳行為とも言える。そして翻訳とは批評である。よい小説家のなかには詩人が住んでおり、すべての詩人のなかには鋭い批評家が、すべての批評家のなかには翻訳者が住んでいるのだろう」(現代詩手帖2017年5月号「小説家と詩人と批評家と翻訳者の関係」より)

「あらゆる表現は翻訳である」は今やクリシェの感もあるけれど、「そして翻訳とは批評である」は凄いですよね。只者じゃない。でもこれはやっぱり言葉で表現している人ならではの発言なのかな。音楽はどうですか?作曲していて、自分が本来非音楽的な何かを音楽に翻訳していると感じることはありますか?そこに創造者ではなく批評家としての自分を感じることは?

マックス・ウェーバーの「価値自由」を巡る社会学とクィア・スタディーの相克、面白いですねー。僕の住んでいる街のすぐ近くがマックス・ウェーバー広場と名付けてられていて、毎日のように通っているのですが、彼が亡くなったのは1920年ですよね。もしもあと30年ほど長生きして、ナチスの時代を生き延びていたら、それでも「価値自由」を主張したのかしら。

学問にどこまで価値基準を持ち込むかという問題は、詩の世界にも当てはまる気がします。ある種の詩人は、詩はあくまでも美的な基準によってのみ書かれるべきだと信じています。そもそもまともな詩人なら誰だって、詩がイデオロギー(右であれ左であれ)の宣伝道具になることには耐えられない。

けれども詩に美だけでなく、真を、そして善を求めるという考え方も根強くあります。その場合の真や善を、政治的あるいは宗教的なイデオロギーではなく、もっと広い「生き方」とか「世界観」といった意味で捉えるなら、僕もそっち派でしょうね。言葉の美しさよりも、その詩を読むことによって、世界がガラリと変わって見えたり、自分の生き方そのものが影響されるような、そんな力を詩に求めている。広い意味での価値観であり、思想。別の言い方をすると自分とは異質な個のなかにある「志」との出会い。

明治になってそれまでの文語定型の箍から抜け出し、のびのびと口語自由詩を書いてみたいと当時の詩人たちが願った時、彼らの求めていたのも、そういう志の表明であり、交換ではなかったか。そう考えるとこの手紙の冒頭に戻って来ますね。日本の「歌」に対する中国の「詩」。心にある間を志となし、言に発したのを詩となす、という考え方。僕が『単ぼた』を書くことで追い求めたのも、つまるところそのような詩の在り方が、現代詩において有り得るかどうかということだったと思うのです。

あくまでも直観的な話ですが、詩って、言語的なクィアなんじゃないでしょうか。個々の人間の意識の根底にありながらも、人間の暮らしが社会性や機能性を持つに連れて、辺縁に追いやられ、非日常性の中に抑圧されてきた、というような意味合いで。もしかしたらとんでもなく的外れなことを言っているのかもしれませんね。でも詩とクィアという言葉を並べて見ると、僕にはその間から「自由」という概念が溢れ出してくるように感じるのです。社会学的に見るならば、詩はこの社会のどんな場所に位置付けられるのでしょうか?

2017年10月7日 
オクトーバーフェストの熱狂の過ぎ去ったミュンヘンにて。

(注:今回は四元から森山至貴氏への書簡のみを掲載します。次回よりM→YとY→Mのセットで掲載する予定です)


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