中原中也「朝鮮女」を読む
朝鮮女
朝鮮女の服の紐
秋の風にや縒れたらん
街道を往くをりをりは
子供の手をば無理に引き
額顰めし汝が面ぞ
肌赤銅の乾物にて
なにを思へるその顔ぞ ―― まことやわれもうらぶれし
こころに呆け見ゐたりけむ
われを打見ていぶかりて
子供うながし去りゆけり……
軽く立ちたる埃かも
何をかわれに思へとや
軽く立ちたる埃かも
何をかわれに思へとや……
……………………………
(『在りし日の歌』収)
この詩には「世間」が描かれている。そしてそれは最初の詩集『山羊の歌』のなかには見られなかったものだ。
『山羊の歌』のなかの中也は、野生児(あるいは神の子)として世間と対立している。その詩の多くは、対立の構図や関係性を描いている。世間はいつも彼の外部に在って、彼を苦しめたり、悩ませたりするものであり、中也は詩を書くことによって世間から我が身を護ろうとしているかにみえる。その裏側には、外交官試験に受かって洋行したいといったような、まさしく世間並みの「出世」願望もあったことだろう。
ところが『在りし日の歌』になると、世間が中也の詩のなかに入ってくる。もっともその世間とは、大所高所から見下ろした天下国家でも、観念的な世界でもなく、平凡で、通俗小説的な、どこか哀れな「人の世」だ。それを見ている中也自身も限りなく非力で、もはやそれと戦ったり、導いたり、変革したりする意志はない。ただ茫然と眺めているだけ。だがその非力ゆえに、『在りし日の歌』の「世間」は対象化されていない。かと言って世間と一体化しているわけでもない。細い川一本隔てた岸辺から眺めている感じとでも云おうか・・・。
洋行帰りのその洒落者は、齢をとつても髪に緑の油をつけてた。//夜毎喫茶店にあらはれて、/其処の主人と話してゐる様はあはれげであつた。//死んだと聞いてはいつそうあはれであつた。 (或る男の肖像 1)
二十八歳のその処女(むすめ)は、/肺病やみで、腓は細かった。/ポプラのやうに、人も通らぬ/歩道に沿って、立つてゐた。 (米子)
いわゆる「早大ノート」に記された未発表詩篇のうち、「(秋の夜に)」や「(支那といふのは、吊鐘の中に這入つてゐる蛇のやうなもの)」のような作品になると、その「世間」が地球全体、人類そのものに拡大されて、文明批評的な趣きを示す。
秋の夜に、/僕は僕が破裂する夢を見て目が醒めた//人類の背後には、はや暗雲が密集してゐる/多くの人はまだそのことに気が付かぬ (中略) 世界は、呻き、躊躇し、萎み、/牛肉のやうな色をしてゐる。//然るに、今病的である者こそは、/現実を知っているやうに私には思へる。
支那といふのは、吊鐘の中に這入つてゐる蛇のやうなもの。/日本といふのは、竹馬に乗つた漢文口調、/いや、舌ッ足らずの英国さ。(中略)あゝ、僕は運を天に任す。/僕は外交官になぞならうとは思はない。//個人のことさへけりがつかぬのだから、/公のことなぞ御免である。
「運を天に任す」「公のことなぞ御免である」と嘯きながらも、晩年の中也が人類の未来を憂い、日本軍による中国侵略に冷ややかな目を向けていたことは覚えておきたい。そのまなざしは、2020年の現在に直接繋がってくるからだ。
「朝鮮女」という詩では、そんな中也自身の姿が、路上ですれ違ったひとりの被差別在日外国人の眼に映っている。いわばこの詩のおいては、世間が中也のなかへ入っていったと同時に、中也もまた世間のなかに身を置いている。そのとき中也と「朝鮮女」はまったく同じ地平に立っている。限りなく「公」から遠ざけられ、「世間」の一番端っこの、マージナル(境界線上)な空白地帯で、「運を天に任す」ようにして生きている。
朝鮮女の服の紐
秋の風にや縒れたらん
街道を往くをりをりは
子供の手をば無理に引き
額顰めし汝が面ぞ
肌赤銅の乾物にて
なにを思へるその顔ぞ ―― まことやわれもうらぶれし
こころに呆け見ゐたりけむ
われを打見ていぶかりて
子供うながし去りゆけり……
軽く立ちたる埃かも
何をかわれに思へとや
軽く立ちたる埃かも
何をかわれに思へとや……
ここに描かれた「世間」は、『山羊の歌』に出てくる戦うべき相手としての世間とも、風俗画や文明批評としての世間とも違って、人間があらゆる虚栄や矜持を脱ぎ捨て、裸で立ち尽くす場所としての世間だ。仏教で言うところの「縁起」の網の目のような場所。そこで中也が出会った「朝鮮女」とその子供は、国境や人種や階層の壁を越えた、実存的な次元における「隣人」だ。同じ在日外国人を描くにしても、プロレタリアート運動の文脈の中で政治的な連帯を表明してみせた「雨の降る品川駅」と比べるなら、両者の立ち位置の違いは歴然だろう。
「出世」の夢を絶たれて、今ここにいる自分のありのまま、その絶対的な非力を受け入れたとき、中也は初めて縁起としての世間に入っていった。
中也をして世間との和解に導いたものは、「死」に他ならぬだろう。弟の死、我が子の死、そして無意識のうちに予感していただろう、迫りくる自らの死。その前に立って、自らとこの世の儚さを肚の底で受け止めたとき、彼は絶対的な他者と出会い、対立ではなく融和を果たした。
『山羊の歌』から『在りし日の歌』へと至る中也の精神的な変化は、詩の表現手法にも反映されている。前者には、さまざまなスタイルの断片から構成された組詩が目立つ。「盲目の秋」「無題(こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、)」「秋」「修羅街挽歌」「羊の歌」「憔悴」「いのちの声」などなど。
これらの組詩は、歌と思想、理性と感覚、叙事と抒情など、相反する要素を複合的に提示してみせる器として機能している。あたかもそれは光を様々なスペクトラムに分解してみせるプリズムのようだ。若き中也は現実と言うヤマタノオロチを、言葉の剣で切断し、腑分けする。彼はまだ生きていて、野心に燃え、戦いを厭わない。
これに比べて『在りし日の歌』では組詩が鳴りを潜め、比較的短い詩がほとんどを占める。死の谷を潜り抜け、他力の導きに目覚めた中也には、もうその必要がなかったからだろう。平明な言葉で記された一篇のなかに、対立するあらゆる要素が溶かし込まれている。分断ではなく統合の証としての詩。
中也の時代と同様に、私たちの生きる現代も、分断と対立に彩られている。20世紀末には東西冷戦が終わってかつての共産圏が民族ごとに解体され、21世になると自国第一主義を掲げるポピュリスト達が同時多発的に世界各地で擡頭して対立を煽りたてる。そういう時代において、詩に何ができるのか、詩人はどうあるべきか、と自問するとき、「朝鮮女」の非力のエネルギーに満ちた歌声が、促し、励ますように蘇るのだ。
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