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森山至貴 x 四元康祐 往復書簡 「詩と音楽と社会的現実と」:第九回

Vol 16 from M to Y

今年のミュンヘンは暖冬だったのですね。日本の今年の冬は例年以上に寒かったと、気象予報士がラジオで語っていました。ここ数日で急激に寒さがほころび、ぐっと過ごしやすくなったように思います。あと一週間くらいしたら冬物をクリーニングに出してもよいかもしれません。

すべての受け持ち学生の卒業論文も無事提出され、採点や成績登録も終わり、胃の痛い入試業務も片付きました。3月は作曲に没頭して、新曲をお待たせしている委嘱者のところに早く届けなければと思っています。

と言っても、どちらかというと怠惰な私がそこまで集中して作曲に取り組めるはずもなく、気分転換はしたいところです。かといって、外出や自宅のテレビでの映画鑑賞はと考えると、委嘱者の顔が頭をよぎり、罪悪感が頭をもたげます(この往復書簡をおまたせしている四元さんの顔も思い浮かびます…)。そこで、作業の合間のちょっとした気分転換に、数学の教科書を少しずつ読むことにしました。勉強では気分転換にならないだろう、と四元さんはおっしゃるかもしれませんね。でも私の感覚ではこれは勉強ではありません。読んでいてつまずいたらその本を放り投げて、他の本を読み始めればいいのですから、気楽なものです。「理解できた」という小さな感覚だけご褒美としてもらって、苦しいところも面倒なところも避けているわけですから、私にとってこれはこれで立派な気分転換です。

学者の友人とよく話し、共感しあうところなのですが、学者はやはり他の人にくらべて「知的な快楽」みたいなものを欲するけれども、自分の専門分野の文献はどうしても仕事の一環として読んでしまう。だから、自分の専門分野ではない学術書を読むのが、一番楽しい。こういう感覚って、四元さんにもあるのでしょうか? 例えば、他の詩人の書いた詩は「同業者の仕事」として読んでしまうからつらいけれど、小説なら気楽に読めるとか。角度を変えて質問しなおしてみると、和泉式部を「勉強」として読んでいるのか、それとも単に面白くて読んでいるのか、となるかもしれません。

勝手に読み漁っていて思うのは、読みやすく分かりやすい数学の教科書って、数式とその説明の分量のバランスが適切なんですよね。数学は圧縮の学問だと思うので(一般化と言ってもよいですが)、圧縮されたものを具体例や証明で膨らませてくれるとわかりやすい。ただ、膨らみすぎてもう一度圧縮すべき道筋がわからなくなると、「理解した気はするが何を理解したのかが分からない」なんてことになりかねない。私はここで、旅の荷物を詰め込むだけ詰め込んだはものの、一度取り出したらもうどうやってもしまえなくしまったスーツケースを想起します。荷物が過不足なく収納され、取り出しやすくしまいやすいのがよいスーツケース=数学の教科書なのかもしれません。

この比喩をそのまま流用しつつ音楽について考えてみると、演奏体験が「旅の荷物を実際に使うこと」で、スーツケースは「楽譜」ということになるでしょうか。確かに、取り出した荷物は確かに使いやすい=耳には心地よいが、スーツケースの中はぐちゃぐちゃ、という状態の楽曲はありそうです。「譜ヅラが美しくない」なんて言ったりしますね。

他方、詩は、収納されたスーツケースそのものを提示する表現芸術なのかな、とも私には思えたりします。圧縮されていることこそが詩の魅力なのであり、それを膨らませてしまったら(=長々とした日常語に翻訳してしまったら)詩である意味がないのかも、と。スーツケースに入って旅という非日常に連れて行かれるのを待っているあれもこれも、洗面所に戻されればただの生活用品、クローゼットに戻されればただの衣類。などと言ったら、あまりにも比喩が上滑りしているでしょうか?

顔の見える他者に対して「社会」はのっぺらぼうであるという四元さんのご指摘、おっしゃる通りだと思います。トリッキーな表現にはなりますが、のっぺらぼうであることこそ「社会」という言葉の本質的な意味だから、とも言えるからです。

社会学の中に「社会的事実」という用語があります(デュルケームという社会学者が言ったものです)。人々のふるまいや感情が一定の暗黙のルールにしたがっている事態を指す言葉です。デュルケームによれば、「社会的事実」は、拘束性と外在性という二つの特徴を持っています。日本社会には、エスカレーターに止まって乗る人は片側に寄っていて(しかも地域によって右と左のどちらに止まるか決まっていて)、もう片方の側はエスカレーターの上を歩く人のために空ける、という不思議な慣習があります。この例を使って説明してみます。

拘束性とは、エスカレーターに乗った人が「歩かないなら右(左)側に寄るべき」と思いそうふるまうよう強制されてしまう、その性質のことを指します。文字通り人々の感情や行為が拘束されているわけです。他方、外在性とは、「片側に乗るというルールは自分(たち)が自身に課しているものとは思われない」と人々が思ってしまう、その性質のことを指します。ルールの出どころが人々に外在しているように感じられているわけです。もちろん、実際には人々の実践が積み重なってルールができているので、このルールを作っているのは人々自身です。にもかかわらず、個人個人の感覚ではルールは外からやってくる。これが「社会」というものの本質なのだ、とデュルケームは言ったのです。

このことが正しいとすると、「社会」はそもそものっぺらぼうなのです。そのあり方に寄与する者の顔が見えないことこそ「社会」の本質的性質なのですから。他にも社会学の中には「一般化された他者」といった言葉もあります。強引にまとめてしまうと、社会学は「人間がかかわっている、しかし具体的な個人へと還元されない現象」を社会と名指して研究しているのです。

ここで厄介になってくるのが、「公」と「社会」の異同です。どちらも個別性を超えた普遍性を持っているのですが、ここではあえて議論をクリアにするために両者を次のように差別化してみましょう。つまり、個別性を意識的に保持し続けているのが「公」であり、個別性が消去されているのが「社会」なのだ、と(日常的な用法とも、あるいは社会学や公共哲学の用法とも違いますが、そこは目をつぶっていただけるとありがたいです)。

「公」というと、例えば話し合いでルールを決めるといったように、現実の他者との相互行為を通じて共通の何かを生み出す、というニュアンスがありますよね。だから、「公」は個別性を通じて普遍性に通じる動きを指すものである。他方、「社会」は個別性の忘却の上に立っている。四元さんが(そして私も)日本社会に対して持つ息の詰まるような感じ、たとえば匿名性を帯びつつじわじわと浸透する復古的なナショナリズムや外国人排斥のありようは、まさに日本「社会」のあり方を指し示している、そんな気がしませんか?

大鉈を振るって強引にまとめてみましょう。個別性があって普遍性がないのが「孤」、個別性があって普遍性もあるのが「公」(あるいは「うたげ」?)、個別性がなくて普遍性があるのが「社会」。和泉式部は「孤」の人で、ゴッホは「公」の人。

この無手勝流の整理に即して私自身の作曲家としての仕事に立ち戻ってみると、私は歌(合唱)を「社会」から「公」へと引き戻したいのだな、と自分で腑に落ちました。なんとなくみなが心地よく、でもその共同体の内なる差別には目を背け、他者への知識不足を恥じることもなく、誰も責任をとらない…そういう、悪しき社会の縮図のような楽曲(あるんです、そういうふんわりした合唱曲が、たくさん)は書きたくない。他方で、このような作曲家としての執着を単に「好き嫌いの問題」として片づけられないためには、社会のありようを冷徹に(「価値自由」に)かつ正しく見る社会学者としての視点が欠かせない。その意味では、むしろ、社会学者としての経験を最大限利用しながら作曲している、というのが私のスタイルなのだと思います。

そして、この整理に基づくと、四元さんは「詩が『孤』を手放さないものであるならば、それは『公』になりこそすれ『社会』になんぞなりようがないではないか」といつも実作において示していらっしゃる気がしてきます。四元さんが繰り返し言及している『うたげと孤心』は、「公と孤」の別名ではないでしょうか。

(ここまでの記述で、私は「社会」という言葉をかなり否定的なニュアンスで使っていますね。もちろん、実際には拘束性と外在性を持つ社会的事実がいつもよからぬものであるわけではありません。あくまでの私の定義は強引な差別化に基づくものだ、ということは付け加えておきます)

残ったのが天皇制の問題です。天皇制を専門としていない私にとって、これは頭を抱えてしまう厄介な問題なのですが、素人なりに以下で少し考えてみようと思います。

せっかくですので、さっきまで使っていた言葉を再利用しつつ考えてみましょう。すなわち、天皇制は「公」的なものなのか「社会」的なものなのか。天皇は具体的な顔を持った個人ですから、「公」の存在と言えそうな気もします。しかし、天皇はまさに日本という国の「象徴」として、他者の生き方に影響を及ぼすようなルールを決める話し合いの場からは徹底的に排除されているはずです。したがって、日本に生きる人にとって天皇が生身の「他者」であるというリアリティはあまり感じられていない。「一般化された他者」(もちろんここでもこの語の元々の意味を大きく逸脱していることを書き添えておきます)とも言えるような存在である天皇を、だからロラン・バルトは「空虚な中心」と形容したわけです(正確にはバルトは皇居について語っているわけですが)。日本社会を基礎づける社会的事実の偶像としての天皇、といったら天皇制研究者にも社会学者にも石を投げられそうですが、天皇が人々にとっての外在性と拘束性を持つ存在であることは、疑いようのない事実にも思われます。

クィア・スタディーズの文脈では、意外かもしれませんが同性婚に関する議論の中で天皇制を扱うことが多いです。今では世界中の多くの国で同性婚が法制化されていますが、もともとは1970年代くらいまで、同性愛者の社会運動は同性婚の実現を目標に掲げていませんでした。なぜなら、結婚は異性愛を中心とした社会制度の典型例であって、同性婚の実現は異性愛を中心とした社会制度への同化になってしまうので正しくないと思われていたからです。

したがって、クィア・スタディーズの研究者の中には、同性婚は本当に目指すべきゴールなのか、と懐疑的に考える人が少なくありません。そして、日本の場合にはそこに戸籍制度を通じて天皇制の問題がかかわってくるのです。

結婚することを「入籍」と言ったりするように、結婚は戸籍制度と分かちがたく結びついています(実際には、妻が夫の家の戸籍に入るといったことは今はなく、夫と妻がそれぞれの家の戸籍から出て二人で新しく家を作る「創籍」とでも言ったほうが正確ですが)。したがって、戸籍制度に反対なので同性婚にも反対、というロジックがありうることになります。

詳しくは専門家の論考に譲りますが、戸籍制度は天皇の「臣民」として人々を「日本人」として登録する、という性格を持ちます(それゆえ今でも天皇には戸籍法が適用されません)、あるいは少なくともかつては持っていました。ということは、国民主権の立場、「公」を人々の「身分」の上での平等から支えようとする立場の人間からすれば、戸籍制度は撤廃すべきものとなります。であるならば、撤廃すべき制度に支えられた婚姻制度もまた、批判の対象となるのです。

現在の天皇が「象徴」としての立場をはみ出さないように「リベラル」な発言をする存在のように見えることの是非、あるいは「天皇の政治利用」といった論点に関して、私は正しい答えを出すだけの知識を持っていません。しかし、「公」を分厚く確保していきましょう、という考え方が正しいのであれば(私は正しいと思っていますが)、天皇制は何らかの形で再考されねばならないものであるのは確かだと思います。

素人なりに考えてみました。ぜひ四元さんの天皇制に対する考え方もお聞かせ願えれば幸いです。特に、「内なる天皇制」ということは、四元さん自身も天皇制に関する何らかの規範を内面化しているのか、といった点に関して。

ない知恵を絞ったら気分転換がしたくなりました。これから写像の全単射についての項目を読んで、また作曲に戻りたいと思います。

2018年3月5日 「春の嵐」の吹き荒れる東京より

Vol 17 from Y to M

森山さん、第16便ありがとうございました。

「社会的事実」を特徴付ける「拘束性」と「外在性」ということ。「一般化された他者」としての、個々の顔の見えない「のっぺらぼう」な「社会」。そしてまさにそのように拘束的で、外在的で、一般化された他者の究極(象徴?)としての「天皇」。どれも刺激的で的をついていて、社会学というものは凄いなあと感心しました。数学の教科書じゃないけれど、『単ぼた』でぐずぐず書いていたことも、学問の力を借りれば、あっさりと片付いてしまうのかもしれませんね。森山さんは、詩というのは「収納されたスーツケースそのものを提示する表現形式」と書かれていましたが、僕の詩はごちゃごちゃ散らかった中身に近いから。

さて、どこからお応えしてゆきましょうか。やっぱり僕にとっての「内なる天皇制」についてでしょうか。

あくまでも実感に過ぎないのですが、長年ヨーロッパ、とりわけ頑固で理屈っぽく自我の強固なドイツに住んでいると、つくづく自分が日本人だなあと実感させられることがあります。普遍的な真理よりもその場の合意を重んじ、対立を避けて和をもって尊しとなし、自己主張よりも集団の利益を優先させてしまう自分に気づく時です。空気を読むなんて発想ははなから持ち合わせず、落とし所などという概念からも無縁で、ひたすら自らの信ずるところを述べ立てる西欧人を前にすると、その勢いにたじろぎつつ、だから一神教の世界では争いと流血が絶えないんだよなどと憎まれ口を叩いてしまいます。そんな時、僕は思うのです。表面的には西欧的な自我を纏ったようでいながら、精神構造の根っこにおいて、自分はやっぱり聖徳太子様の臣民なのだなあと。「拘束性」と「外在性」を、我知らず自らの行動原理の基底に埋め込んでいることよなあ。

この場合の「拘束性」とは、自分の属する集団への帰属意識の強さから、言い換えれば個の意識の希薄さから生ずるものでしょうし、「外在性」はその裏返しとして、本来は自分もその成員の一人であるはずの集団を、隷従すべき外なる権威として感じてしまうということなのでしょう。そのような心理メカニズムを「内面化」してしまっている自分……。

彼ゆえに私たちは私たちである/彼の前で私たちは我という孤独な皮衣を脱ぎ捨てて/一人称複数の大いなる腕に抱かれる/もはや主語は要らない/空と雲とオスプレイを映す水田に立ち並ぶ稲穂のごとく/私たちは均一性の空洞に根を下ろし/一斉に風に靡くその見えない風が彼である

 これは『単ぼた』に収めた「彼」という詩の一節です。

つまり僕のいう「内なる天皇制」は政治機構ではなく、あくまでも心理機構としての民族的な傾向に過ぎないのですが、日常生活のみならず、詩を書いているときにもそれを自覚することがあります。

そういう時の僕の気持ちはアンビバレントです。一方では、僕も森山さんと同じように「詩を社会から公に引き戻したい」と願っています。詩を書くということは、他者の存在を受け入れ、他者との間に地底の回路を切り結ぶことでもあると思うのですが、その場合の他者は「のっぺらぼう」な均一性を免れた、いわば「血肉の通った普遍」であって欲しい。現代詩の中にも、「悪しき社会の縮図」のような作品は(しばしば難解さという陳腐なコスプレを纏って)ありますし、自らそういう作品を書いてしまう危険も常にあるからこそ、自戒をこめてそう思います。

でもその一方で、「内なる天皇制」的な要素がまったくなかったなら、詩は書けないんじゃないかとも思うのです。大岡信は日本の古典詩歌の基本原理を「写し(移し・映し)」という概念で捉えましたが、それもまた僕が「内なる天皇制」と呼んでいる心理機構に基づくものではないか。個を関係性の中に溶解させて、最近はやりの言葉を使えば、能動でも受動でもない中動態の中に、無人称的に解き放つこと。早い話が我を張らず、相手に合わせること。歌合せや本歌取りなど、共同作業を前提とした共感と憑依の詩学。

このような詩の在り方は、古典のみならず、近代詩をへて現代にも綿々と繋がっているはずです。そしてそれは日本に限ったわけではなく、世界のどこでも、およそ詩的言語と呼ばれるものは、多かれ少なかれこのような性格を、それぞれの地層の深いところに秘めているのではないかと思うのです。

ところでこの手紙を書いている今、日本では森友学園問題が再び話題を集めています。財務省による決済文書改ざん。そこに忖度のありやなしや?この「忖度」も、詩の基本原理の一つでしょう。平安朝の詩人たちは、言語を介して他者の内部に入り込んでゆくための感受性と想像力を追求しましたが、それこそ究極の忖度だと言えるのではないか。

やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける 世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり 花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり・・・    (『古今集』「序」より)

森友学園問題は、このような詩的感受性が、現実世界に氾濫してしまったがゆえの悲劇とも言えるでしょう。公平さと透明性を求められる政治の場においては、詩的言語の曖昧で多義的な波動性ではなく、論理言語の分節的で明晰な粒子性こそが求められるべきであるのに。我々の言葉で言えば、本来個々の顔が見えるべき公の場が、のっぺらぼうな「社会」の集団性に呑みこまれてしまった……。

野党は首相夫人の証人喚問を求めているようですが、彼女は財務省に対して明確な指示を出したわけでも、露骨な圧力をかけたわけでもないでしょう。「良い土地ですね、進めてください」とは言ったのかもしれません。「どうぞよろしくお願いしますね」とかも。

それはいかにも曖昧な、日本的な物言いです。主語を欠き、誰にともなく、一人空に向かって呟くような。それこそ歌のような、祝詞のような、本来は無邪気で非力な言葉。ところがそこに関係性に基づく権威が宿った途端、周囲はにわかに、そして過剰に反応してしまう。悪いのはどっち?無邪気に呟いた権威の方、それとも勝手に忖度した従者の方?もちろん両者は一つの精神構造を支え合う共犯関係にあるわけです。

それもまた我らが「内なる天皇制」。

一部には財務省を被害者呼ばわりして、首相夫人を「立場を弁えない」と非難し、自分の無責任な言動のせいで自殺者まで出したことをどう考えているのかと糾弾する向きもあるようです。でもそういう言い方は、過剰に「空気を読んで」「忖度」しまう我々の「内なる天皇制」を無条件に肯定することに繋がるんじゃないか。世論という匿名性の陰に隠れつつ、みんなで一人をやり玉に揚げる時、その声はどこか日の丸の旗を振る「臣民」の歓声に近づいてゆく。そんな気がしています。

ちょっと話が逸れてしまいましたね。僕らは創作行為をめぐって、孤と公と社会の関係、個別性と普遍性の話をしていたのでした。

スーツケースと数学の教科書に戻りましょう。

森山さんのおっしゃる通り、詩は収納されたスーツケースのようなものですね。中には下世話な日常の細部が詰め込まれているのに、蓋をしてロックしてしまえば、つるんとした卵の殻みたいになってしまう。そこには確かに数式のような圧縮と省略の美が備わってはいるけれど、時にその美は豊かな多義性ではなく陳腐な曖昧さへと振れ、孤を失った集団の情念に呑みこまれてゆく。あるいはそのような情念を醸し出す一因と化す。太平洋戦争中に競って書かれた勇ましい愛国詩のように。

前便で僕は和泉式部をゴッホと比べて、彼女の歌には関係性ばかりがあって普遍性がないと書きました。関係性を地上性とか水平性、そして普遍性を絶対性とか垂直性と言い換えてもいいでしょう。でもだからと言って、彼女の歌を『辻詩集』と同一視しているわけではもちろんないのです。

ゴッホとは全く違うやり方で、和泉は和泉の孤を突き抜けて、彼女の公に達している。それはまったく確かです。でなければ千年の時を隔て、これほど僕を夢中にさせるわけがない。でもその孤と公のあり方が、僕にはゴッホの場合ほどよく見えないんです。だからなおさら、和泉の詩は僕を魅了しつつ慄かせ、慄かせつつ魅了します。

彼女は『和泉式部日記』という作品を残しています。日記とは言いながら、自らの恋物語をフィクションめかして、和歌と散文で語ってゆく歌物語。数式そのものとその証明や解説を交互に提示するような、まさに「教科書」の手法です。スーツケースの例に即せば、蓋を開けて中の下着をちらりと見せたり、パッとまた隠したり。このような手法が、詩(とりわけ日本の伝統的な抒情詩)の孕む精神的な脆弱さに対して、どう働きかけ、どんな効果を齎すのか、まだ手探りなのですが。

実は僕も散文に詩を散りばめた作品を書いてみたんです。今年に入ってからその一部を雑誌「群像」に発表しているところです。森山さんのご質問に答えるならば、だから僕が和泉を読んでいるのは、単なる楽しみとか気晴らしというわけではありません。でも「勉強」というのもちょっと違う。師事、ってほど真面目でもないし。

何でしょうね?これも一種の本歌取り、あるいは時を隔てた相聞歌でしょうか。

2018.3.19 
また雪景色のミュンヘンより

PS 日本の忖度ニュースの後を追いかけて、今度はロシアからプーティン圧勝再選の報せが入ってきました。トランプのアメリカ、イタリアの「五つ星」やら「ドイツのための選択肢」やらの移民排斥ポピュリズムが躍進するヨーロッパ、復古的ナショナリズムに走るトルコ・・・・・・。世界中で「のっぺらぼう」がのさばりまわっているようですね。『単ぼた』を書きながら、もしも自分が『辻詩集』の編まれた頃の日本に生きていたなら、どんな詩を書いただろうかと考えたものですが、すでにそういう時代に入ってしまっているのかもしれません。「中原よ。地球は冬で寒くて暗い」(草野心平 一九三七年)


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