遅ればせながら、「びーぐる」41号 (その2): 海外現代詩紹介 Marie de Quatrebarbes
こちらも創刊以来続けているコーナー。「PIW通信」は日本の現代詩人を英訳を通じて海外に紹介している活動の報告だが、こちらはその逆で、海外の現代詩人を日本語訳とともに紹介する。僕が海外の現代詩にふれる機会はもっぱら詩祭であり、その中でもPIW の母体であるRotterdam のPoetry Internationalは最大規模の詩祭のひとつだから、いきおいそこで知り合った詩人を紹介することも多くなる。詩祭に参加した詩人の作品は、朗読の音声ファイルやビデオとともにPIWでアーカイブ可されているので、なにかと便利もいい。つまりPIWと「びーぐる」は姉妹都市というか、相互貿易協定を結んでいるようなものなのだ。
「びーぐる」41号で紹介した Marie de Quatrebarbes (直訳すれば「四本木のマリー」である)もそのひとりだ。今年の6月、詩祭の壇上で朗読を聞き、その迫力に圧倒された。決して派手なパフォーマンスではなく、淡々と、そして丁寧に読んでゆくのだが、次第に彼女を中心とする強力な磁場がたちこめ、詩的エネルギーの渦が巻き始めるという印象なのだ。
英訳を読んでみると、彼女が朗読していたのはすべて「クリント・イーストウッド」という長編詩の断片なのだった。でも内容はよく分からない。まるで誰かが見ている夢のなかへ紛れ込んだかのようだ。それはいわゆる現代詩特有の難解さとは明らか違う種類の「分からなさ」だった。語り口は平明な日常の言葉なのに、ところどころが欠けている。まるで作品のなかに登場する「おばあちゃんから貰った日本の陶器」のように。いくつもの映像がブレるように重なり合っている。「薔薇の中に薔薇がある、蜂の中に蜂が」あるかのように。
食事の席(会場の奥の部屋で、学校の給食みたいに並んで食べる。でも味はインドネシア風でなかなかいける)で話してみると、気取ったところのまったくない、気さくな人柄だった。クリント・イーストウッドよりもデイビッド・リンチの映画が好きだという。ラディカルな実験性と繊細な感受性、そして乾いたユーモアが同居している。
「この作品は一種のAutoficitonですよね」と言うと、「そう」と頷いてから「ある失われた女性の物語」と答えた。ちょうどその頃僕も自分の実体験をフィクション化した作品を書いていたところで、しかもそれは小説と詩を一緒にしたような形式だった。フランスの女性詩人の間で、そういうタイプの作品が流行り始めていることに、僕は昨年あたりから気づいていた。イギリスでは最近「ハイク」に代わって「ハイブン(俳文)」が人気だと言うが、それともどこかで繋がっていそうな気がする。そのうち日本の「私小説」がヨーロッパの詩人たちの間でブームになるのかもしれない。
ぜひ訳してみたかったのだが、とうてい自分の手には余ると思っていた。それを無謀にも実行したのは、詩祭が終わってからもマリーとメッセージのやり取りが続き、「クリント・イーストウッド」という作品に関するさまざまな疑問に、丁寧に答えてくれたからに他ならない。フランス語の原文と英訳と彼女のコメントを行ったり来たりしながら何度も読み返しているうちに、いったん途切れた文章がどこでまた繋がっているかとか、「私」と「彼女」との関係だとかが朧げに見えてきた。テキストのなかからまるで魚影のように物語が浮かび上がり、一瞬姿を晒したかと思えばもう水底に消えてしまう、その生成と消滅のダイナミズムこそがこの作品の魅力なのだった。こういう書き方を僕はまだしたことがない。
マリーはビデオも作っている。詩祭のクロージングセレモニーで上映されたときには、会場が笑いの渦に包まれた。
ビデオのなかのお道化たマリーもまた、それを観たあとで「クリント・イーストウッド」を読み直すと、作品のなかに忍び込んでくるようだ。あわせ鏡の無限反射のなかに浮かび上がる「私」のホログラフ。「びーぐる」の日本語訳も(歪みやひび割れのあるのは承知の上で)その鏡のひとつになればと願っている。
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