『多島海』で江口節さんと再会する:呼ばれ、封じられ、再び呼ばれる名前
江口節さんに初めてお会いしたのは2013年春の、ある小さな詩の集まりだった。一応は出演者と聴衆に分かれているのだが、実はほとんどの人が自分でも詩を書いていて、正式なプログラムが終わると、むしろそれを待ち構えていたかのように即興の朗読会が始まる。そうやって自作を読んだうちのひとりが江口さんだった。
そのときの詩が何だったか、もう覚えていない。でも朗読に先立って彼女が物静かな、それでいて朗らかな笑みを含んだような声で喋ったことははっきりと耳に残っている。
たくさん
居間で話し声がする
のぞくと
君が笑顔で話している
白み始めた障子の向こうで さっき
ホトトギスの声を聞いた
これは夢、でも
君は立ち上がって笑いながら近づく
両腕をつかむと、たしかに
あたたかく かたい 肉の手ごたえ
肘の骨も ぐりっと当たった
おとうさん、仁の病気が治っている――
ふりむいた室内の色がみるみる褪せて
やはり夢、それでも触れて
夢だからきっと姿が消える、はずなのに
てのひらに
君の腕の感触が ありありと残った
まなうらに
あかるい笑顔が くっきりと焼きついた
目は わたしの目は
いちにち
パッキンのゆるんだ蛇口になった
ありあわせの布で 次々
ぽたぽた止まらぬ水を押さえた
人と顔を合わさないようにした
夕暮れ
坂道の傾斜をあえぎながら
気づく
わたしの中に こんなにも詰まっている
たくさんの君の笑顔
たくさんの君の
笑い声
詩集『オルガン』2012年収
江口さんはその数年前に息子さんを亡くされていて、そのことを語られたのだった。朗読が終わったあとも、部屋はしーんと静まり返ったままだった。けれどもそれは決して白々とした沈黙ではなく、そこにいた人たち全員の、さまざまな感情の震えや揺らぎに満たされた、懐かしい静けさだったように思う。
それから二年ほどたって、同じ場所で、また別の詩の会があった。江口さんはそこにも足を運んでくださっていた。そのときは参加者の朗読はなかったのだが、代わりに詩集を二冊いただいた。一冊は上に引用した『オルガン』で、もう一冊はその少し前に出たばかりの新詩集だった。
梨
食べごろより少しかたいものを選んで買うが
ときどき
冷蔵庫の中で熟れすぎてしまう
噛んでも しゃりしゃりと音はせず
ひたすら
あまく やわらかく 酸味はなく
しまいこんで熟れすぎたかなしみを
とくとくと人に供した、あのとき
ていねいに皮をむき
ちいさく切り分け
ひかる硝子の皿に
ほそい銀色のフォークまで添えた
『果樹園まで』2015年収
『果樹園まで』というタイトルのとおり、苺、枇杷、無花果、水蜜桃……と果物に材をとった作品が並ぶ。死はいく度か顔を覗かせるが、知り合いの夫であったり、物書き仲間とおぼしき友人だったりで、我が子のものではない。それに最も近接したのがこの「梨」だ。あれから何年もかかって、ようやく果実の実るところ「まで」歩いて来られたのだな、と僕は思った。
詩集の最後にはこんな作品が置かれていた。
あたらしい樹
ふりむくと
あんなところに樹がある
さっき通ってきた家並
見上げていた塔がない
いた人がいなくなり
流れていた歌は途絶え――
日ざかりの道には樹が出現
記憶を
わたしたちは そのように所有する
動いて止まぬ「今」は指をすりぬけ
待ち受ける「今」はついに見えず
通ってきた「今」は見るたびにあたらしい
樹は 亭々と立つ
きょうのわたしは あたらしい
あたらしい樹だ、と
軒の奥から子供を呼んで
そうして今年の春、最初にお会いしたのと同じ会が開かれ、僕は江口節さんに三度お会いすることになる。今度はちゃんと朗読も聞くことができた。会の後、江口さんは『多島海』という薄い詩誌を下さった。年に二回、江口さんのほか彼末れい子さん、森原直子さん、そして松本衆司さんという四人の同人で出されていて、戴いたのはその29号と30号だった。シンプルな無地の表紙の裏に、彼末さんの手による素描が載っていて、とても趣味のいい造本だ。ちょっと自分でも作ってみたくなる。
ミュンヘンに戻ってから、ページを開いた。
覚え書き 2
赤ん坊を膝にのせて
のぞき込む三男を見ると
同じ光景を思い出す
亡き次男が膝上の猫をのぞき込むしぐさに
ふっと思ったのだ
ああ いいお父さんになりそうだな
赤ん坊は来るたびにめざましい
喋りそうな声から伝い歩き
この前は ファーストシューズ
犬も追い回されておたおた
帰った後 じいじがつぶやいた
仁がいたら何て言うかな――
ゆっくり 上を向いて
『多島海』Vol.30収
どうやらお孫さんが生まれたようだった。「あたらしい樹」の最後に出てくる「子供」はその先駆けだったのだろうか。その子に「追い回されておたおた」している「犬」は、詩集『オルガン』のなかで、不意にいなくなった主人を求めて「時間になると/犬は階段を上がる/前足で部屋のドアをカリカリこする/ドアが開くまでクゥーンと鳴いている」と描かれていたあの犬だろうか。あの詩集では「お父さん」だった夫が、今では「じいじ」と呼ばれている。そして『果樹園まで』では封じられていた死者が、再び今名前で呼ばれる……
江口節さんは1986年に第一詩集を出されて以来、もう何冊も詩集を出し続けたきたベテランである。だからこの世で最も親しい者の死を悼むために詩を書き始めたわけではなく、むしろ詩を書き続けるなかにある日突然死が舞い込んできた、にも関わらず書き続けたというべきだろう。
けれどもこうして時を経て振り返ってみると、詩の力が死の受容を助け、同時に死が詩に深みと強度を与えてきたという印象を禁じえない。
僕が興味を惹かれるのは、その場合の詩が、口語自由詩であったということだ。江口さんが住んでいる神戸の大地震のときも、そのあとの東日本大震災のあとでも、人々は悲痛な体験を言葉にすることで乗り越えようとしたが、その多くが伝統的な短歌という形をとった。でなければ手記という形の散文か。行訳の自由詩を選んだ人は少数派ではなかったか。
自由詩は文字通りどう書こうと自由であって、予め与えられた形がない。書き手は書く過程のなかから、書くべき内容と同時に形を作り上げていかなければならない。欧米だとそこには中世以来のさまざまな詩形式があるから、たとえ自由詩と呼ばれるものであっても、日本人が短歌を詠んだり俳句を捻ったりするような感覚がある程度残っているだろう。けれども日本ではたかだか一世紀ほどの、それも右往左往の試行錯誤の轍があるばかりだ。溢れ出し、理性の手に負えない感情を盛り込む器としては、まだ短歌・俳句のほうが使い勝手がよいに違いない。
にも関わらずあえて「詩」を選ぶ人たちがいる。江口さんはそのひとりだし、多分僕もそうだろう。なにが彼らを(僕らを)して、人生の危機において定型ではなく自由詩へと向かわせるのだろう。自由を求める心だろうか?外国語や外国文化の受容だろうか(江口さんはフランスのカトリック詩人マリー・ノエルを訳し続け、フランクルからオクタビオ・バス、タゴール等を読み進んでいるらしい)。それとももっと端的に「長さ」だろうか。だがもしもそうだとすれば、「長さ」を通して僕らは何を掴もうとしているのか。意味か、思想か。ある種の絶対性か。
考えても分からない。けれども江口節さんのここ数年の詩の軌跡を、ちょうど気球の上から多島海を見下ろすように追いながら、その理由について考えを巡らせるのは、悪いものではない。むしろわくわくするものがある。なぜか、「希望」という言葉が胸に浮かぶのだ。
江口節詩集『オルガン』(編集工房ノア)https://www.amazon.co.jp/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%B3%E2%80%95%E6%B1%9F%E5%8F%A3%E7%AF%80%E8%A9%A9%E9%9B%86-%E6%B1%9F%E5%8F%A3%E7%AF%80/dp/4892717444