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フランク・オハラを飯野友幸さんと読む

飯野友幸さんから待望のオハラ論が届いた。『フランク・オハラ 冷戦初期の詩人の芸術』(水声社)だ。

フランク・オハラは以前から気になる詩人だった。彼の書く詩が自分の好みだということははっきりと分かるのだが、その理由を言い当てることができない。そもそもほとんどの作品が、読んでいて心地よいのだけれど、何を言っているのか分からない、実にもどかしい存在だった。そのもどかしさを解きほぐしてくれる導き手の到来をずっと待っていたのだ。

読み始めてすぐ新鮮な発見があった。オハラが「即興」という手法を用いながらも、「意識的な詩人」であったという指摘だ。

重要なことは、即興性を保ちながらもあくまで意識的に書く、ということ。まとまった意味の解読がほとんど不能なシュルレアリスム的自動記述との違いは程度の問題かもしれないが、こちらは少なくとも数行の間は意味が形を成すことは間違いない。(p 39)

そうか、オハラって人は意識的に詩を書いた人だったんだ。言われてみれば納得がいく。彼の詩はだらだらと脈絡のない事物を羅列してゆくのが特徴だけれど、そこにあるのは無意識即とは違って、むしろ研ぎ澄まされた意識によって統制されたテキストなのだ。

一般的に、詩を書く上で、意識的であることはよしとされない。技巧に走って、器用貧乏、頭でっかち、と悪口を叩かれるのがおちである。詩人は集合的な無意識に口寄せして、宇宙や民族の声を伝えるのが本来の姿である――というイメージが浸透しているからだろう。

だがすべての詩人が無意識的であるわけではなく、なかには意識の限りを尽くして詩を書くものもいるはずだ。かく言う僕自身そうなのだ。僕は気質的には論理よりも感情が先行するタイプだが、詩を書くときの精神状態は明らかに「意識的」で、さらに言うなら、その意識から逃れるためにこそ詩を書いているふしがある。

なるほど、だからオハラに親しみを感じてたってわけか。

オハラが予測不可能性とさかんに言うことの裏には、詩人が見ていなくても言語ができるすべてのことにオープンであるということだ。これは、自己の自律性が実現されること、無意識のエネルギーがどこか抑制をはずされること、などから来る自由なのではない。この自由とは、言語を司る自己の限度を認識することではあるが、詩作における「意図」がそっと統制する手触りへの執着を放棄することではない。 (p124 Mongomery)

考えてみれば連歌や歌合のような「即興」も、決して無意識だけで成り立っているわけではなく、むしろ「意識」による「統制」の方が重要な役割を担っているのではないか。

自分が詩を書くときを振り返ってみると、そういう「意識の統制」は、何よりも「ナマの自分が露呈することへの警戒」に向けられている気がする。つまり詩を組み立てようとする「意図」よりも、ともすれば詩のテキストに入り込んで来てしまう「私性」の排除に努めている、という感じだな。オハラの詩も、自分がやったことや思ったことばかり書いている割には、彼自身の私性は希薄だ。私性の抜け落ちた無人格的なテキストだけが、現代美術館のアート作品のように置かれているという印象である。

(オハラの)即興には自由の謳歌と国家システムからの逃走、という二重の意味合いがある。(p91)

本書にはこんな一節もあって、当時のCIAが(オハラの勤務先だった)MoMAの協力を取り付けて、抽象主義絵画を冷戦下におけるプロパガンダ政策に利用したことなど、びっくり仰天の指摘もあるのだが、僕が気になるのは「自由」の方だな。オハラが謳歌しようとした「自由」には、自分自身からの「逃走」ということもあったんじゃないか、とこれまた自分に引き寄せて思うのだ。もっとも彼の場合は、当時はまだ犯罪扱いされていた同性愛の問題があってもっと複雑だっただろうが。

詩の引用とその翻訳もふんだんに載っているので、手元の詩集と合わせて読んでゆくと、飯野先生の個人授業を受けているような贅沢な気持ちになる。いや、それにもまして詩が書きたくなってきた。こういう本は稀である。早く次の授業を受けたいものだ。次回はビジョップなんかいかがでしょう? 

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