見出し画像

平出隆『私のティーアガルテン行』を読む(その3)

若い頃から詩人の書いた散文が好きだった。散文詩はむしろ苦手なのである。詩人の書いたれっきとした散文を読むのが好きなのだ。

高校生の頃は田村隆一の『詩人のノート』を(授業中にこっそり)読んでいた。リルケの『マルテの手記』を読んだのはいつだっただろう。辻邦生の初期の小説(たとえば『回廊にて』)にも、同じような匂いがあった。金関寿夫さんが訳したヨシフ・ブロツキーの『ヴェネツィア 水の迷宮の夢』は、散文のふりをした詩という形式の可能性に気付かされた最初の作品だったかもしれない。金子光晴の一連のエッセイはいまでもすぐ手の届くところにある。

紀貫之の『土佐日記』や『和泉式部日記』は大好きだが、芭蕉の『奥の細道』は実はそれほど好みではない。俳文という形式が、すでに散文詩に近づいているからか。逆に『枕草紙』は、読んでいて面白いのだがそれはあくまでもエッセイとしての魅力である。かと思えば、外国の小説家の硬質な文章に、詩の匂いを嗅ぎつけることもある。

平出隆の本書は、それらのどれよりも、詩と散文の融合ということに関して意識的、戦略的だ。いわゆる歌日記や歌物語は(僕自身の『前立腺歌日記』も含めて)、詩と散文が交互に登場するわけだが、本書では散文の行のなかに詩の繊維が織り込まれている。その上で写真や造本や郵便といったコンセプトを駆使した詩的な企みが何重にも張り巡らされているのだが、根底には文そのものがキマイラのような複雑に屈折した輝きを放っているのだ。

というのも、私には、自分の読みえた同時代の詩の多くが、どうしても詩だとは思えなかったからである。このことは別に語らなければならないが、もうすでに語りはじめているともいえる。(P56)
それでももう、これしか思いつくものはない、と私は私で切羽詰まっていたのだろう。耳癈(みみし)いた子猿になった気持ちで、必死に批難を受け流しながら、私なりの野球盤をこしらえたものである。(P89)
これが私の獣苑(ティーアガルテン)だった。(中略)ただグローブを持ってボールを追う者たちの間に立てば、すでにして一匹の幼い獣たりえたのである。(P90)
一枚の写真が私の目を、その時代の酷薄な音色の宙にさまよわせる。(P112)
二学年の国語の先生は、女の先生だった。(中略)才女であり、また才女であろうとしてしていた。そういえば、生花をされていた、と思い出した。書道もできれば、走り高跳びも得意だったらしい。すらりとして華奢な姿で、速度と透明感のある、鋭い、隙のない、美しい文字を、黒板にも謄写版にも書かれた。(P132)
最後の授業が終わって、教室の出口へ向おうとすると、出入り口の角に全身を凭れるようにして、鳥山晴代先生が立っていた。投げやりに水に挿された花のような姿勢に私はただならぬものを感じたが、それはどかどかと出て行く生徒たちのあいだでとられた姿勢が、あまりに不動だったからである。(P257)

不意を突かれ思わず立ち止まった箇所を抜き出していけばきりがない。それはいわゆる詩的な感動ではない。かと言って小説の、物語の波に攫われ現実を忘れ去るような陶酔でもない。小説の一場面が、その前後の脈絡から切り出されて、現在只今の宙空に吊り下げられているのを垣間見た時の驚きとでも言えようか。そこには確かに物語の気配が満ちているのだが、私達にはその全貌を知ることができない。ただそこへ至り、そこから始まるドラマに想像を掻き立てられるばかりだ。その想像に、私達自らの物語が否応なく重なってゆく。

投げやりに水に挿された花のような鳥山先生は、構わず出て行こうとする平出少年に白い封筒を差し出すと、一睨みするように微笑んでから、くるりと背を向けて教員室の方に行ってしまう。少年は友人たちに気づかれない場所で、どきどきしながら封を切り、便箋を取り出す。「薄いオニオンスキンの紙に切れ味のいい筆跡で書かれた、こわれもののような美しい手紙だった。」

 心優しきひらいでくん
 所用があって今日は稽古を見ることができません。友尾くんと田中くんをよろしくお願いします。ちょっと目を離すと、すぐにやんちゃするんだから。

それが文面だった。彼らは文化祭で演ずるルナールの『にんじん』の稽古をしていたのだった。「郵便とともに」と題されたこの章は、次の文で断ち切られている。

「ただこれだけの用事に、もってまわったことを」と、私は上気しながら、怒りのような喜びのような、えも言われぬ感情にとらわれた。

その一瞬から何十年も後に書かれた文章を読みながら、私達もまたその烈しく切ない感情を味わうのだが、小説と違って受け身のまま事の顛末を辿るわけにはいかない。少年とともに立ち竦み、我と我が身で引き受けるしかないのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?