今日も世界を救う「ハチミツとクローバー」

私の最も好きな漫画、羽海野チカ先生の「ハチミツとクローバー」の話をしようと思う。完全に個人的意見として書く。ネタバレ注意。

美大を舞台に、主人公の平凡(っぽい)男の子竹本くんと、圧倒的芸術の才能を持つ女の子はぐちゃん、彼らの周辺人物を中心とした物語だ。

私は小学生の頃にハマり、以来何度も何度も繰り返し読み返している。昔から漫画やアニメが大好きだったが、当時この作品に出会った時、「一見主人公が誰かわからない」物語が初めてで混乱し、心を掴まれた。上京する際、唯一実家から握りしめて来た漫画だ。

この作品は、甘酸っぱい恋模様の描き方がまず素晴らしい。(言わずと知れ過ぎている)

まだ恋など知らない小学生ながら、あゆが真山におんぶをされながら泣くあのシーンにぐっと心を掴まれてハマった。

真山が思わずリカさんと寝台特急に乗って一緒に小樽に行ってしまい、翌朝に防犯ブザーで繋いだリカさんに半裸で叫ぶシーンでは真山と全く同じタイミングで涙を流した。

オレに関わったのが間違いだったな 
どこまででもつきまとってやる
カンタンに死ねると思うなよ!?

本当にここのシーンは良い。ストーカーで技巧の巧だなんて言われてるけど、真山はれっきとした私の初恋だし、やっぱり全体的にリカさんに対して重いところが良いし、ここのシーンの真山に関しては完全に惚れ直した。何回読んでも、ああもう…。となる。この後ギリギリまで仕事の引き継ぎの話をするコマの絵も大好き。私もリカさんとギリギリまで仕事の引き継ぎの話をしたい。 (これはストーカーを肯定する文章ではない。)

そして成人後に完全に理解ができた、野宮さんの良さ。
本当に、切実に、本気で、死ぬ気で、野宮さんみたいな人が私のもとへ鳥取から飛んできてくれないか、朝から横浜の観覧車に乗ろうと言ってくれないかと思わない日はない。(上京して来てやたら観覧車に乗りたがる癖がついたのは完全にハチクロの影響だ。)

この恋模様の描き方は、小学生から社会に出た今までのどの自分の心もギュンギュン惹きつける。自分の置かれた状況や気持ち次第で、ハチクロはいつも違う色をして輝いている。涙を流すポイントもその時々によって違う。
そしてこの作品にサブキャラなどいない。それぞれの物語が大切に丁寧に描かれる。特にあゆに共感した女子は多いだろう。苦しいのに諦められない真山への気持ちや、野宮さんへの複雑な感情を見ると、ああ、私もこれでいいんだ、と思わせてくれるのだ。


ハチクロの魅力はそれだけではないところが凄い。
「才能とは何か」という大きな問いがある。

ヒロインのはぐちゃんには美術の才能がある。それ意外にも森田、リカさん等、桁違いの才能を持った人達が登場する。彼女らはそれ故に遠ざけられたり、才能の行き場に迷って苦しんだり、周りの人も一緒に悩んだりする。

はぐちゃんの保護者、花本修二の台詞を引用する。

美術史に名前の残ってる 女性の作家がどんだけいる?
その中で幸せな人生を送れた人間がどんだけいる?
どんだけ描いても何も残らんかもしらん
それでも手を休めるコトはできん一生心が休まるコトがなくなるかもしれん
それを果たして 幸せって呼べるんだろうか

幸田先生ははぐに海外行きを強く勧める。
多くの場合芸術に少しでも関わっている人は、幸田先生のように、余りある才能はなるべく大きな形で世界に披露しなければならないと思っている。

訳がわからないわ なんで?!
やれば全てがかなえられるだけの力を持ってるくせに
あなた ずるいわよ

たしかにそうだ。私もそう思う。
しかし、「のだめカンタービレ」ののだめとはぐちゃんは、自分の才能には気付いているがそれを披露することを責任と感じ、その責任を取ることに多大な苦しみを感じ、自らの身の振り方を抑えている。と私は思っている。

才能 才能 才能
そーやってみんなヒトを勝手に 好いたり憎んだり恨んだり……
 あげくに黙って離れてゆく

これは作中のモノローグである。竹本くんと常人外れの才能を持つ森田が喧嘩するシーンにて、ハチクロにおける才能というテーマをよく表している台詞で、私はいつも、バレエ教室の発表会で一際目立っている小さなバレリーナを見るたびに、音楽でも絵画でも文学でもスポーツでも、そういう瞬間に立ち会うたびに、この台詞を思い出す。
ああ、どうかこのこたちが幸せと思う人生を送れますように。才能ゆえの苦悩に狂わされて、ボロボロになりませんように。と願う。

しかし、はぐちゃんは、決意する。
それまで絶対に言えなかった一言を、最終巻で口にする。

あのね お願いがあるの
修ちゃんの人生を私にください
ごめんね 返せるかもわかんないのに こんな事 言って
でもでも… 私 描きたいのずっと
だから 一緒にいて 最後の最後まで

また、森田へ言い放ったこの台詞も大好きだ。

見てて 治すから 絶対に治すから
ううん 治らなくても 何も残せなかったとしても
いいの わかったの 描きたいの
これ以外の人生は 私には ないの

ああ、良かった。自分の才能との向き合い方という点において、はぐちゃんは大きな変化を遂げる。素晴らしく明るい、感動の結末だ。本当に良かった。

物語はこのような結末になるが、しかし。私は、現実ではどれだけの天才たちの物語がこういう結末で終わっていないだろうと思う。はぐちゃんのように才能を発揮する責任を取ることに対して苦悩を持つ人間たちは結局諦めたかもしれない。はぐちゃんのような変化を遂げず終わるかもしれない。しかし、それは他人がとやかく言えることではないのだ。個人は個人として、何者にも踏みにじられてはならない。という大原則が人間にはある。才能の所在をどうしようが、結局個人の自由なのだ。はぐちゃんのような決断をしても良いし、しなくても良いよ。そう思う。本人がどう決断するかが全てで、他人は才能を発揮することを諦めた天才の心を踏み躙る権利はない。これは当たり前のことだが、好きなことに打ち込むことで周囲が協力してくれ、幼い頃から期待されて来た多くの天才たち本人もこの事実に気付けない場合が多いのだ。しかしハチクロが凄いのは、そこまで教えてくれる所だ。

いいよ もう描くな  描かなくていい
何かを残さなきゃ生きてるイミがないなんて そんなバカな話あるもんか
生きててくれればいい一緒にいられればいい
オレはもう それだけでいい

これは「何もかも投げ出そうとした」森田がはぐに言う台詞である。結果はぐちゃんは描く道を選ぶが、この森田の台詞だけで 心がラクになる人間がどれだけいるだろうか?

ハチクロではそれぞれがそれぞれの道を見つけ、歩みを進めるが、羽海野先生の描く柔らかい輪郭や、まるっとした目、特定の個人やあるいはその場の空を見つめるぼんやりとした美しい瞳、キラキラ輝く世界のまなざし方、作品が醸し出すその全てに、個人を尊重しようとするとてつもない優しさを感じずにはいられない。それは、現在羽海野先生が連載中の「3月のライオン」でも同じことが言える。(「3月のライオン」の話までし始めるともっと長くなるので辞めるが、最新刊での12年越しの伏線回収はシンプルに泣いた。興奮して色んな人に説明した)私は、個人を尊重しようとする気概が知性だと思う。羽海野先生の作品からは、そういう知性が溢れ出す。

羽海野先生の優しさが、今日も誰かの世界を救う。

兎に角、ハチクロには上記のことも含めまだまだ語り切れない無限の魅力がある。きっとこれから歩む人生の中でまた何度も読み返す。その度違ったシーンに心を打たれる。

この作品を生み出してくれた羽海野先生に感謝しています。今は「3月のライオン」の新刊が生きがいです。



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