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I owe you



ちょうど真南を向いたベランダのおかげでアツシは今日も日の出に起床を促された。大きな伸びを一つ、それからテレビのリモコンをごそごそと探しニュース番組をつける。次は珈琲だ。ミル挽の機械を手に入れてからというもの、朝のこの時間が楽しみで仕方がない。テレビからはどうでも良いような世間の流行と、たっぷり広告代理店のスパイスが効いた芸能ニュース、それから政治。珈琲の香りが部屋を占領し、昨日買っておいたドーナツと一緒に朝食。
あぁ、何と幸せなことかとアツシは窓の外に目をやった。鳥が鳴き、季節の移り変わりを知らせる風の音は草木の隙間を縫って耳をくすぐる。
あぁ、何と幸せなことかと次は着替えるためにクローゼットを開ける。すると昨日の自分に感謝したくなるような周到さで今日一日分の服が整頓されている。

空からは大きな光が部屋中を温めてくれている。

今日は休日なのでかねてから決めていたお寺を訪ねてみることにしていた。アツシはバックパックに残りの珈琲をいれた水筒、おやつにグラノーラバー、それから小さなメモと着替えのTシャツを入れた。
跨ったロードバイクはオレンジ色で、先日買ってきた白のグリップもあいまって駐輪場に一際輝いていた。
大通りをひたすら東へ。風は充分に温かかったので春先の今日はダウンベストを羽織って家を出た。なだらかだが少し長めの坂道。息を切らして頂上につくと後は下り。Googleマップの教えてくれる通り、4つ目の信号を左折し、申し訳程度に存在しているお土産屋さんを越えれば目的地だ。
アツシは境内に入るとジワリと滲んできた汗を拭い、水筒の蓋を開けた。漂う珈琲の香りにひとつ幸せを感じ、手水舎に向かう。火照った身体には丁度いい冷たさが一層身を清めてくれそうだ。常香炉で一通りの儀礼を経て待望の本殿に向かう。
金銅釈迦如来像の前に立ち、恭しく手を合わせ拝見する。アツシは特別仏教徒というわけではないが、信仰の対象になることが頷ける美しさがあった。世間の下世話な言葉では表せないだけの美しさを目に焼き付け、心の中で一言お礼を伝えた。
『今日も幸せです。ありがとうございます。』

雨が降り、闇は朝日に流され、寄せては返すようにまた闇は海に夕陽を沈めていく。離れ離れになってしまったサトミのことを思い出していた。早朝のルーティンに付き合いながら、朝に弱いサトミはアツシの腕にもたれて二度寝を始めるのが常だった。改めて布団をかけてやり小さな声で『いってくるよ』と声をかけると、小さく布団から出した手を振ってくれた。遅れること一時間ほどでサトミは仕事に向かったらしい。らしい、というところまでしかアツシは知らぬまま、サトミの両親からの電話を受けた。
職場でも話題に上がることがあったおかげか、事情を説明すると気が動転しているかもしれないからと先輩が病院まで送り届けてくれた。受付でサトミの名前を伝えると、近くにいた看護師が案内してくれたのは霊安室だった。
『久しぶりね』と声をかけてくれたサトミの母の顔を見ると、アツシは『ごめんなさい』と繰り返しながら涙を流した。誰のせいでもないことはその場の全員が承知していたが、暫くの間アツシの謝罪だけが部屋にこだましていた。両親に促され顔を上げると、サトミの母はほんの数十分の間に更にやつれた表情になっていた。

心筋梗塞が起きたのはサトミの務める事務所の中でだったようだが、偶然その時間は人が出払っていて、遅れて出勤してきた社長が倒れているサトミに気がついたそうだった。救急車の到着時には既に心停止状態。病院へ着いた後、いくらかの救命措置はとられたもののサトミは逝ってしまった。

『サトミの分まで幸せに生きてね。』
両親からそう伝えられたのは数日後の葬式だった。サトミとも顔見知りだった職場の人間も何人かで葬式に参列し、同じように声をかけてくれた。それ以来、アツシは幸せだった。

サトミの嫌っていた朝日も、二人で買いに行ったコーヒーメーカーも、うとうとしながら自分にもたれてきたサトミのいないニュース番組を見る時間も、もう彼女が聞くことのできない鳥のさえずりも、朝食のドーナツも、心から幸せであった。翌日、自分が幸せだと思えるように、せめて今日の自分が背中を押してやろうと決めて毎晩綺麗にしまっておくことにした服。センスのないアツシの服はサトミが選んだものばかりだった。

幸せ。幸せ。幸せ。そう思える。

アツシはサトミが今も幸せでいてくれると信じたくなる時、天国にいるとされている仏様を見に行っていた。その美しさを眺めていると、きっとサトミが今いるところは美しいんだと信じることができたから。

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