劇場版スタァライト「この映画の全ては愛城華恋の物語である」
・新しい視点を得るたびに全く違く見える物語
劇場版スタァライトは何度見ても面白いです、それは映像や音楽が魅力的ということだけではなく、見るたびに新しい気付きがあることが大きいと思います。例えばTV版の7話で大場ななによるループ構造が発覚した後に本編を見返すと大場ななの行動一つ一つが以前と違うように見えたように、新しい情報(新しい視点)に気付くことでキャラクターたちの見えてなかった側面が見えてより魅力的に何度でも新鮮に楽しめるそんな映画だと思います。これは単一のコンテンツだけでなくスタァライト全体でも言えることで、もし劇場版を見てからTV版を見返していないという人がいたら是非もう一度見てみて欲しいです
スタァライト全体という話をしましたがこれは舞台版にも当てはまります。社会情勢の影響などで公開順が前後した舞台3Growth、この順番の入れ替わりによって起こった視点の欠けによって劇場版スタァライトは一種の集団幻覚のような現象が起こりました、舞台3から得た視点で見ることで劇場版はそれ以前とは全く違う物語に見えてきます
・迷う姿を見せてはいけない
舞台3では3年生になった直後の99期生の物語です。聖翔の最高学年として後輩たちの憧れの対象として見られるので、卒業後の進路などの不安や悩みを抱えていてもそれを表に出してはいけないと指導されます。この不安を真っ先に噴出させたのが天堂真矢でそれを見た自分はあれ?天堂真矢ってそんなキャラじゃないでしょという違和感、そして同時に見たくない姿だと思いました。この舞台やアニメ円盤特典の2話のように素の天堂真矢って結構情けないところがあるんです、でも本編ではいつでもカッコいい姿を見せてくれます。それは皆殺しのレヴューの中で語った「舞台と観客が望むなら私はもう舞台の上」という台詞から読み取れるよう彼女が演じているからです。このありのままの自分と望まれているから演じるという視点が重要になってきます
・皆殺しのレヴュー
この後の決起集会のシーンでまだ決まっていない未来に進むことを未完成の脚本と重ねて人生とは舞台であることを想起させていますが、劇場版の舞台はそのまま舞台少女たちの人生を舞台としています。この皆殺しのレヴューはかつて大場ななが優勝したオーディションの再演の舞台です
大場ななが繰り返し言う「変わらぬものは朽ちて死んでいく」ここでいう変わらぬものとは大場なな自身を含む舞台少女たちのことです。彼女たちの何がいつから変わっていないのかというと、そのきらめきがキリンのオーディションの時からそのままであるということです。変わっていないからこそ過去に何度も繰り返し大場なながオーディションで優勝した時のように舞台少女たちは切り捨てられていきます。では天堂真矢が最後まで立ち続けられた理由は彼女のきらめきが過去から変化していたからです
変わっていない例でわかりやすく描写されているのは香子です。寮での会話であのオーディションがまた開かれるのを待っていたと話していましたが、これはトップスタァになんとしても立ちたいという意志ではなく優勝していれば双葉は自分から離れることはなかったという考えでしかありません。他のメンバーについてもそれぞれのオーディションでの目的を振り返ってみましょう
香子 ずっと双葉と一緒にいたい
双葉 香子に認められたい
クロ 真矢に認められたい
真矢 トップスタァであり続けたい
まひ 自分に自信がない
純那 トップスタァになりたい
こうして羅列してみると純粋にトップスタァになりたいと思っているのが純那だけしかいないというのもすごいですね
まひるに関してはTV版で解決しているように思えますが、その本質は華恋ちゃんにきらめきを認められた、地元の人たちにもすごく応援されているという他者に依存した自信でしかなく、それは目指している進路を香子に否定されたときの反応からも読み取れます
真矢に関してはレヴューデュエットの時点では私は負けていないと敗北を認めていなかった(他の舞台少女たちと同様にきらめきが変化していなかった)のですが、円盤特典の2話で階段の踊り場でのひかりとの会話でフローラ役としての敗北を認めています、ここでトップスタァであり続けるという目的を果たせなかったことを認めて先に進んだことがきらめきの変化で過去のオーディションの再演である皆殺しのレヴューで倒れなかった理由です
では大場ななという舞台少女は一体なんなのか?
よくラスボス、無限にループさせるやべーやつとか言われていますが、知っておかなければいけない大事なことは、大場ななは愛城華恋と同様に夢を叶えた舞台少女であるということです。中学時代にたった一人の演劇部でみんなで舞台を作ることを夢見ていて聖翔音楽学院に入り99回聖翔祭でそれを叶えた舞台少女、これが大場ななです
この劇場版が夢を叶えたあとの愛城華恋の物語だとするならば、TV版はは夢を叶えたあとの大場ななの物語でもありました。進級時に自首退学した仲間がいたこと等をきっかけに自分にとってのみんなで作る夢の舞台がこの後も続くわけではないことに気付いてしまい先に進むことを拒絶した結果があの無限ループであり、その結末は皆が知る通りです。変わらないものは朽ちて死ぬ、私たちもう死んでるよ、これらの台詞は変わらない皆に向けたものであると同時に何より自分自身へ向けた台詞でもありました
そこから敗北し仲間たちの自分の見たことない魅力など未来にカラフルなことが待っている期待を持っていたのに変わっていない見たくもないみんなの姿、観客(通常キリンは黄色にシュガースポットの斑点というカラーリングから大場ななのメタファーでもある)の視点から見たくもない姿を晒している者は舞台少女として許されないのです。香子が特にひどく死んでいたのも特に見たくなかった姿だったからで、あのタイミングで星見が死んだのもクッソおもんないことを言った(あんな返しは見たくなかった)からです
・ワイルドスクリーンバロック
ここからのレヴュー全般の話になりますが、トマトを齧ってからの舞台は皆殺しのレヴューのときと違って舞台に立っているという意識を持っています。ここでいうその意識とは天堂真矢がいっていたような観客が望むなら~というのが中心であり、この舞台そのものが観客が望んでいるから行われる舞台でもあります。つまり天堂真矢が本当は自信とかそんなにないけどサラブレットとして生まれ皆に望まれているから人生の舞台を演じているのと同じように、この舞台の本質は望まれていることを演じることで舞台少女の本音をぶつけ合うレヴューなんかじゃないということをハッキリと認識しなければなりません
通常のキリンが大場ななのメタファーであると少し触れましたが、野菜のキリンは大場なな単体ではなく数多の舞台少女などの集合体です。キリンが野菜に変化するのは大場ななの物語が終わり舞台少女たちの群像劇への変化を表現していると思います。そしてトマトのカラーリングから考えてトマトが愛情華恋のメタファーであることは疑いようがありません
きらめきの奪い合いというテーマ、何を奪い合っているのか?という疑問がありましたが、個性豊かにみえる舞台少女たちも彼女たちのことを知っていくと実はものすごくよく似ていることに気付くと思います。例えばTV版の嫉妬のレヴューなんかはTV版ではまひる→華恋の感情でしたが、華恋→ひかりの感情としてもピッタリ当てはまります。また渇望のレヴューで勉強ばかりだった私が~と語る星見の台詞も好き?と聞かれてもわかんないとしか答えられなかった何もない華恋が何もなかった私が~としても当てはまります。このオーディションにおけるきらめきの奪い合いとはどちらの個性が相応しいかのぶつけ合いなのです。この視点からTV版のオーディションの結果を振り返ってみるのも面白いかもしれません(例えば華恋が真矢に負けた必然性がそこに存在している)
話が少し脱線しましたが、この後のレヴューはトマトを喰らうことで愛城華恋の人生の役を喰らって舞台少女たちは舞台に立ちます、なので劇場版のレヴューの舞台は愛城華恋の人生の舞台なのです、故に他の歩合少女たちが演じるレヴューからも愛情華恋の物語を読み取ることができるのでこの劇場版は全て愛城華恋の物語なのである
・恨みのレヴュー
このレヴューの舞台は幼少時の愛城華恋と神楽ひかりの別れの舞台です、このレヴューだけ始まり方が独特(実際には戦わないクロと香子が対峙している状態から始まる)ですが、これは舞台3の話を意識してみるとちょっと面白いです、アニメでは香子が京都に帰ろうとして双葉が止めに行く、舞台2Transitionでは青嵐にうつった双葉を香子が引き戻す、そして舞台3では京都に帰った香子を双葉は迎えにいかないという流れがありました。そこで双葉が来るかの賭けをするところから始まり、実際に双葉はやってくる――最新のキャラの真理でいえば双葉は迎えにはこないはずですが我々観客は双葉がくるところをすごく見たい、ここに劇場版の観客が望むから自分の本音とは別に舞台に立つという流れがあります
このレヴューは話の筋は非常にわかりやすい方で別の道を見つけた双葉と香子の別れの話です。わかりやすい故にこの二人の関係性については今更特別に語らなければいけないこともないのですが、これは愛城華恋の人生の舞台でもあるのでこの二人から華恋とひかりの関係性について色々と読み取ることができます。役としては香子=華恋、双葉=ひかりになります。双葉は香子のためなんだよと色々と語り掛けますが、香子はこれを「鬱陶しくなったんやろ?」と一刀にふせます。この関係性が華恋とひかりにも言えるわけです
神楽ひかりについては実はあまり本編で語られていない(例えば劇場版のアバンはひかりが自主退学する際の物語だったと思われるがキリンが間に合わないと走っていたように我々は見ることができなかった)のでが、イギリスにいる彼女は実は九九組でいうと星見に近い舞台少女だったと個人的には考えている。情熱のレヴューでの対戦相手であり、舞台版でも戦ったり横に並んだりと実は絡みが多い。きらめきの奪い合いをするには似ていないといけないのだ。そんな神楽ひかりが華恋との約束をどう思っていたのかというとイギリスのオーディションに負けてもそのきらめきが残ったことから考えてもう別の道を見つけたから約束は果たす気はないと考えていたと言わざるを得ない
神楽ひかりが華恋から離れた理由として眩しかったから、ファンになってしまいそうだったからと語るが、これが双葉にも当てはまる。香子は鬱陶しくなったんやろ?と問うが、双葉の気持ちは香子のファンのままじゃ嫌なんだよと叫んでいた裏で今でもハッキリ香子の眩しさを感じている。そこに二人の関係性の深さがハッキリと感じられるから離れ離れになってもエモさが残るのである
・共演のレヴュー
このレヴューは中学時代の華恋とひかりのレヴューです、まひるがひかりにライバル!ライバル!と言葉をぶつけるのにひかりは全然違う目的のことを考えていて全く相手にされていないところが分かれてからの二人の関係性を表しています
そして恨みのレヴューの組み合わせ自体はアニメ版でもあった組み合わせですが、ここからはアニメでは描写されていない組み合わせになります。そういう意味でも観客が望んでいた舞台であり、望まれたからこそ彼女は舞台に立ちます。そこには望まれているものを演じるという前提があるので「私本当は大嫌いだった」というまひるの台詞はレヴューの終わりで本人が語ったように演じていたものです。我々が華恋との仲を引き裂いたひかりにマジ切れするまひるを見たいと望んでいたから生まれたものです。本音をぶつけ合うレヴューという視点からだとこれに気付けなくてかなり混乱します。ちなみに私はかなり悩みました、本当に大嫌いなのか?と。安心してください、まひるはひかりに嫉妬こそしていましたが大嫌いなんかじゃありません
・狩りのレヴュー
このレヴューは愛城華恋の舞台とはいえないかもしれません。というのも舞台になっているのが明らかに孤独のレヴュー(ひかりvsなな)だからです、そうであることはレヴューの途中で武器が変化したりするあたりが非常にわかりやすい類似点となっていますね。何故これが愛城華恋の舞台といえないかというと、大場が舞台1のときから今に至るまでずっと奪えない舞台少女として存在してきたからです。彼女は華恋から奪うことができないので彼女の人生の舞台に役として立つことができないのです。とはいえ舞台の上での大場の立ち位置は愛城華恋のものです。なのでこのレヴューからも華恋とひかりの関係性を見出すことはできます
開幕の自決させられそうになってる星見ですが、これはTV版オーディションでの神楽ひかりです。彼女は孤独のレヴューにおいてきらめきの再生産をして大場に打ち勝ちましたがその再生産がなんだったのかというと話の結末をみれば明らかなように優勝はするがきらめきは奪わないという失った自分の夢を諦める自決の決意でした。しかしここで星見は自決をせずに舞台は違う方向へと進んでいきます
ここでの大場は星見とずっと舞台を作りたいと願っています。でも星見は自分の進路を進学としていてしかもそれでいてトップスタァになるのを諦めたわけではないと語る、そんな姿は大場にとって耐えがたいものでした。舞台創造科としての私ならあなたを輝かせてあげられる、だから私と一緒にいこうという想いと、それが叶わぬならトップスタァになるなんて見苦しいことを言わずに舞台少女として潔く死ねという想いの二つが重なっている状態です。ものすごい上から目線で見下していますね。これに対して星見があなたに与えられた夢なんかいらない(ひかりが華恋との約束に逃げなかったように)自分の夢は自分で掴み取ると拒絶して打ち倒す姿がすごく美しいです。そのきらめきは自分ががむしゃらにやっているだけでは持てなかった大場から奪ったきらめきというのがまたいいですよね
また星見の人生の舞台が親のいう勉強というレールを外れて聖翔にきたというものでしたが、そこから再び大学進学という元の道に戻るという流れがまた舞台への道(大場ななと共に立つ舞台)へと戻ってくることを予期させてくれてくれるのがとても良いです。この未来が見えているからEDでの星見は大学にいくのを辞めたわけではなく大学に進んだうえで舞台の勉強のために留学しているというのが確信できるのが偉いですね
・魂のレヴュー
このレヴューはオーディション終了後に華恋がひかりを迎えにいったときの舞台です。これは上掛けを落としたのに誰も見たことがないレヴューといって舞台が続くことからなどわかりやすいですね
華恋がひかりと約束の舞台に立ちたくて迎えに行ったのと違い、クロディーヌはレヴューが始まる前の動物将棋雑談の時点で真矢とのレヴューデュエットに満足していたことを恥じてそれじゃ舞台少女として死ぬだけなんだと認識していたことを語り、これをようこそ舞台へと迎え入れます。夢を叶えてもそこで立ち止まってしまう――夢を叶えた舞台少女でありそこで立ち止まろうとした華恋や大場とは違う、その先の未来へと進むレヴューが始まるであろうことにこの時点でもう胸が高まりますよね。なにより本編で描写が全カットされてしまった真矢vsクロディーヌは誰もが見たいと望んでいた舞台ですから
このレヴューの天堂真矢が最高に良いんです。クロディーヌも一番かわいいわって言ってますしね。というのも今まで望まれたから演じるという話を何度かしてきましたが真矢はそれをずっと続けてきた舞台少女です。俳優の両親から生まれたサラブレットとして常にスタァであることを望まれてそれを演じてきたという人生があります。故に観客に見られていないところで見せてきた素の自分(舞台3の弱気な自分、円盤特典の我慢しきれない自分、香子から貰ったお菓子の箱をわくわくしながら開ける自分)なんかを望まれていない自分と考えている節があって、だからこそクロディーヌにそのトップスタァの仮面を引きはがされた自分を醜いこんな姿と自虐気味に語るんですね。でもそんな彼女がクロが言うように最高に可愛いというところが視聴者も全く同様に感じてこの寸簡が求められる役を演じる舞台少女という立場とキャラクター個人がもつ個性や魅力が完全に両立する瞬間なんですね
そしてライバルという関係性を確立することで変化しつつもお互いを高めあいずっと続く新たな関係性が構築されます。これまでのレヴューはどこか歪な関係性でのレヴューだったのでずっと続くライバルという関係は提示されなかったのですがここにきて舞台少女同士の関係性の一つの終着点が示されるわけですね。そしてこの終着点が視聴者が華恋とひかりにも求める望まれた役割としての役目も果たしている訳です
・スーパースタァスペクタクル
ここから先は誰も見たことのない舞台、まだ続きが書かれていないこれからの華恋が選択する人生の舞台です
ここまで散々言ってきた望まれた役を演じること――それは華恋にとってひかりとの約束そのものでもありました。もしかしたらこの役はもう望まされいないのかもしれない、そんな脳裏にある不安を現実にしないためにも、見ない、聞かない、調べない、そうして目を閉じていましたがついに確かめたい気持ちに負けて調べてしまいます。そこにはもう別の道に進んでいる神楽ひかりの姿、人生の役を失った華恋はぐうたらでだらしない朝も自分で起きられないそんな姿になってしまいます。夢を持ってない一般人の姿…といってしまうと流石にあれかもしれませんが、そんな彼女は神楽ひかりと再開します。夢、覚えていてくれた、彼女は再びかつての夢を取り戻した舞台少女として再生産されます。そして夢を叶えました
しかしそれは華恋とひかりの二人の世界でしかありません。華恋が望まれていたと思っていたのはひかりから見た自分であって観客からみた自分ではありません。そしてここがひかりのことしか見えてなかった華恋にもここが舞台であり観客から見られていることに気付きます。今までの全部がひかりとの約束のためだけに生きてた、他には何もない、ひかりちゃんとの舞台だけが私の舞台だと言い何も変わらない華恋に対して大場が提示した変わらないものはやがて朽ちて死んでいくというルールの元に舞台少女としての死を迎えます
そしてTになって線路を爆走する華恋、線路は自分がこれまで進んできた道、人生の舞台、だからそこには過去の自分がいて、そしてその過去とはこの劇場版で舞台少女たちが演じてきた舞台です、故にそこには彼女たちがこの映画で演じた全てが存在しているのです。それらを燃料として愛城華恋は再び再生産されます
そして最後の台詞、ひかりちゃんが眩しくて、本当はひかりちゃんとの約束のことだけ考えていたくて、でも真に舞台少女として再生産された華恋は前とは違います。もう何度いったかわかりませんが望まれた役を演じるのが舞台女優の本質です、「言わなきゃ、最後の台詞を」「わたし、ひかりに負けたくない」この台詞の重さたるや、素の人間としての愛城華恋はこれ本当は絶対言いたくない台詞なんです、でも自由気ままに誰からの目線も気にせず進んできた華恋が舞台女優として生きていく続けていくために求められる望まれた役を演じる、その決意の全てがつまった台詞がこれなんです。
華恋の武器 Possibility of Puberty(思春期の可能性)が砕け散りますがこれはまだ何物にもなれる(白紙の進路表)華恋の可能性が舞台女優として完全に固定されたってことだと私は思っています
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