プラネタリウムの感想

先日プラネタリウムを鑑賞してひどく感動したので、今日はそれについての考察を書く。具体的な内容は書かないが構成等は言及しているので、コニカミノルタプラネタリウムを見に行く予定のある人は注意してください。

内容

そのプラネタリウムはただ単に天文学を扱っているわけでなく、星にまつわる映像作品を上映しており、天球型のスクリーンを用いた映画館と言った方が正しい。僕が鑑賞した作品は、ラジオか何かでお便りとともに曲を紹介するという形式で、星にまつわる3つのエピソードが紹介される。エピソードは互いに関連していることが、時間とともに少しづつ明かされる。また、音楽の流れる中では映像で天文学的な内容も紹介され、エピソードに対する考察や感覚を促すように非常にうまく構成されていた。

まず感想

 色々考える前に、「自分が何に感動したのか結局分からない」という感想を述べる。
 3つのエピソードはそれぞれ日常に根差して共感できるそれらしい総括で閉じられるが、その一つ一つはそこまで感動的な事は言っていないのだ。また、3つのエピソードの登場人物には接点があり、それぞれのエピソードの核は全て一人の登場人物に端を発していたことが明らかとなる。この謎解き的カタルシスや、善意や救済の連鎖が呼ぶ感動はあったが、それだけであんなに感動したとは思えない。最も解せないのは、月に関する曲のシーンで「月と地球はお互いに影響しあっている」という傍から見れば至極当然のことが紹介されるシーンで自分が酷く感動したことだ。

先に、構成について

 一つ面白いと思ったのは、物語中での類似した出来事の対応と観客から見た共感の再現が必ずしも同じところに無かったことだ。だが、どうしてもネタバレになるのでここでは詳しくは書かない。

自分が感動したことについての現時点での考察

 色々考えた結果、まず「音楽」が、それ自体で何かしらの感動を呼ぶ性質を持っているのではないかという結論に至った。同じ言葉を知っていてもそれが音楽を介したものであるだけで詩的な繋がりに感じられる。音楽は、その概念自体がおそらく感情に近い所に存在している(正確に言えば「理性から遠い所に存在することの社会的同意を得ている」)のだと思う。
 そしておそらく星もそうなのだ。これはいわゆる情景描写の逆を考えていることになると思う。そして、星や音楽のタチの悪いところは、その感情が本質的にある程度ポジティブなものであればそれが喜びでも悲しみでも適合しそうな所だ。と考えると、いろんな概念を「どのような感情に似つかわしいか」と「どの程度感情的であるか」の2軸で考えられそうに思う。

そうだとして

 僕は言葉に対する感覚があまり鋭くない為、今の所ここまでしか考えは進んでいない。
 それはそうと、僕は音楽を作ろうとする人なので、作ろうとしているものが音楽であるということの意味(変な言い方をすれば、作ろうとしているものが音楽であるということの特権を何に生かすか)は考えてゆく必要があるなと思った。

注)基本的に、自分の感じたことはある程度一般的なものだという前提に立っているので、もしかすると普通はそんなことはないのかもしれない。


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