見出し画像

ポルトガル紆余曲折

ポルトガル王室って、ブラジルにもあるんですか?

はい、ポルトガル王室はかつてブラジルにも存在していました。

19世紀初頭、ナポレオン戦争の最中に、ポルトガル王室はナポレオン軍の侵攻を避けるためにポルトガルからブラジルに移りました。1807年、ジョアン6世王子(後のジョアン6世王)を筆頭に、王室一行はリスボンからブラジルのリオデジャネイロに逃れたのです。

ブラジルに移ったポルトガル王室は、1815年にブラジルをポルトガル領から「ブラジル王国」に格上げし、「ポルトガル・ブラジル連合王国」を樹立しました。ジョアン6世はリオデジャネイロを拠点にポルトガルとブラジルを統治したのです。

その後1821年にジョアン6世がポルトガルに戻ると、息子のペドロ1世がブラジルに残り統治を続けました。そして1822年、ペドロ1世はブラジルのポルトガルからの独立を宣言し、「ブラジル帝国」初代皇帝に即位したのです。

このように、ポルトガル王室は19世紀前半にブラジルを直接統治していた時期があり、ブラジルの独立にも深く関わっていました。ブラジル帝国の王室は、もともとポルトガル王室の一部だったといえるでしょう。

ブラジルには、まだポルトガル王室の権威は残っていますか?

現在のブラジルには、ポルトガル王室の権威は残っていません。

ブラジル帝国は1889年の共和制革命によって崩壊し、ブラジルは共和制国家となりました。最後の皇帝ペドロ2世は退位を迫られ、家族とともにヨーロッパに亡命しました。この革命により、ブラジルにおけるポルトガル王室の統治は完全に終わりを告げたのです。

現在のブラジルは連邦共和国であり、大統領が国家元首を務めています。ポルトガル王室やブラジル帝国の王室は、もはや政治的な権威を持っていません。

ただし、ブラジル帝国時代の王室の子孫は現在でもブラジルやポルトガルに住んでおり、一部の人々は歴史的な遺産としてかつての王室に敬意を払っているようです。しかし、それはあくまで象徴的なものであり、実質的な権力はありません。

現代のブラジルにとって、ポルトガル王室は歴史の一部であり、現在の政治や社会に直接の影響力を持つものではないといえるでしょう。

ジャングル宮殿

では、一時期、ポルトガル王室は2系統あったのでしょうか?

はい、その通りです。19世紀前半のある時期、ポルトガル王室は2つの系統に分かれていました。

1807年にポルトガル王室がブラジルに移った後、ジョアン6世はブラジルを統治していましたが、1821年に政情不安定などを理由にポルトガルに戻りました。その際、長男のペドロ(後のブラジル帝国初代皇帝ペドロ1世)をブラジルに残し、摂政に任命しました。

1822年、ペドロはブラジルのポルトガルからの独立を宣言し、ブラジル帝国の初代皇帝に即位しました。一方、ジョアン6世はポルトガルで統治を続けました。

つまり、1822年から1826年(ジョアン6世が死去し、ペドロ1世が一時的にポルトガル王を兼ねるまで)の間、ポルトガル王室は以下の2つの系統に分かれていたのです:

  1. ポルトガルを統治するジョアン6世を中心とする系統

  2. ブラジルを統治するペドロ1世(ジョアン6世の長男)を中心とする系統

その後、ペドロ1世は1831年にブラジル帝国の皇帝を退位し、弟のミゲルに対抗するためポルトガルに戻りました。結果的に、ポルトガル王室の2つの系統は再統合されることになりました。

このように、ポルトガル王室は一時的にポルトガルとブラジルに分かれて統治していた時期があったのです。

ポルトガルのカーネーション革命について教えて下さい。

カーネーション革命は、1974年4月25日にポルトガルで起きた非暴力的な軍事クーデターです。この革命によって、ポルトガルでは48年間続いた独裁政権が崩壊し、民主化への道が開かれました。

主な経緯は以下の通りです:

  1. 1926年以降、ポルトガルでは独裁政権が続いていました。1968年からはマルセロ・カエターノが首相を務めていましたが、政治的自由は制限されたままでした。

  2. ポルトガルは当時、アフリカの植民地(アンゴラ、モザンビークなど)での独立戦争に悩まされていました。これらの戦争は国家財政を圧迫し、多くの若者の命を奪っていました。

  3. 1974年4月25日未明、反体制派の青年将校らが首都リスボンの主要施設を占拠し、クーデターを開始しました。

  4. 市民たちはこの動きを支持し、街頭に繰り出して兵士たちにカーネーション(赤い康乃馨)を手渡しました。これが「カーネーション革命」という名前の由来です。

  5. クーデターは成功し、カエターノ首相は退陣に追い込まれました。

  6. 新たに設立された「国家救済評議会」が政権を担い、政治犯の釈放、検閲の廃止、結社の自由の回復など、民主化に向けた改革を進めました。

  7. 1975年、ポルトガルはアフリカの植民地の独立を認め、長年の植民地戦争に終止符を打ちました。

カーネーション革命は、独裁政権を打倒し、民主主義を回復させた点で、ポルトガル現代史の大きな転換点となった出来事でした。また、アフリカ植民地の独立を促し、ポルトガルの非植民地化にも大きな影響を与えました。

ポルトガルは、海外の植民地に依存していたのに、よく手放しましたね。

ポルトガルが海外植民地を手放した背景には、複数の要因が絡み合っています。

  1. 植民地戦争の長期化と国家財政の悪化:アフリカの植民地では1960年代から独立戦争が続いており、ポルトガル政府はこれに多大な軍事費を投じていました。長引く戦争は国家財政を圧迫し、国内の社会不安を招いていました。

  2. 国際的な非植民地化の潮流:第二次世界大戦後、世界的に植民地の独立が進む中、ポルトガルは植民地の保持を続けていました。しかし、国際社会からの孤立を深め、国際連合からも非難を受けるようになっていました。

  3. 国内の民主化運動の高まり:独裁政権下で政治的自由が制限される中、国内では民主化を求める運動が高まりを見せていました。これらの運動は、植民地戦争の終結と民主化を求めていました。

  4. カーネーション革命の影響:1974年のカーネーション革命によって独裁政権が崩壊し、民主化への道が開かれました。新政権は植民地問題の解決を重要な課題と位置づけ、アフリカ植民地の独立を認める方針を取りました。

  5. 国力の限界:長年の植民地戦争と国内の政治的混乱で疲弊していたポルトガルには、もはや広大な海外植民地を維持する国力が残されていませんでした。

これらの要因が重なり、ポルトガルは比較的短期間のうちに海外植民地の独立を認め、非植民地化を進めることになったのです。植民地の手放しは、ポルトガルにとって不可避の選択肢だったといえるでしょう。

ポルトガルはアジア地域のどこに植民地がありましたか?

ポルトガルは、15世紀から16世紀にかけて、アジア地域にも多くの植民地を持っていました。主な植民地は以下の通りです:

  1. インド:

    • ゴア:1510年に占領され、1961年までポルトガルの植民地でした。

    • ダマン:1559年に占領され、1961年までポルトガルの植民地でした。

    • ディウ:1535年に占領され、1961年までポルトガルの植民地でした。

  2. 中国:

    • マカオ:1557年にポルトガルの管理下に置かれ、1999年まで続きました。

  3. マレー半島:

    • マラッカ:1511年に占領されましたが、1641年にオランダに奪われました。

  4. インドネシア:

    • モルッカ諸島(現在のマルク諸島):1512年からおよそ1世紀にわたってポルトガルが支配していました。

    • 東ティモール:16世紀から1975年までポルトガルの植民地でした。インドネシアに占領された後、2002年に独立しました。

  5. スリランカ:

    • セイロン島(現在のスリランカ)の一部を16世紀に占領しましたが、17世紀にオランダに奪われました。

ポルトガルは、こうしたアジアの拠点を通じて、東南アジアの香辛料貿易を支配し、莫大な富を蓄積しました。しかし、17世紀以降、オランダやイギリスなどの他のヨーロッパ勢力との競争に敗れ、アジアにおける影響力を徐々に失っていきました。

ポルトガルが弱体化した理由は何だったのでしょう?

ポルトガルが大国の地位から次第に弱体化した理由は、複数の要因が絡み合っています。

  1. 国土と人口の限界:ポルトガルは国土が小さく、人口も少ないため、大国との競争で不利でした。広大な海外植民地を維持するには、十分な人的・物的資源が必要でしたが、ポルトガルにはその余力がありませんでした。

  2. スペインとの同君連合(1580年-1640年):1580年から1640年まで、ポルトガルはスペイン・ハプスブルク家の支配下に置かれました。この期間、ポルトガルはスペインの政策に巻き込まれ、他国との紛争に巻き込まれました。また、スペインに富の多くを収奪されたため、国力が低下しました。

  3. 他のヨーロッパ勢力との競争:17世紀以降、オランダ、イギリス、フランスなどの新興勢力が台頭し、海外貿易や植民地獲得の競争が激化しました。これらの国々と比べ、ポルトガルの国力は相対的に低下していきました。

  4. ブラジルへの依存:18世紀以降、ポルトガルはブラジルから大量の金や砂糖を輸入し、経済的にブラジルに依存するようになりました。しかし、これは国内産業の発展を阻害し、ポルトガル経済の脆弱性を高めることにもなりました。

  5. ナポレオン戦争と英国への依存:19世紀初頭、ポルトガルはナポレオン戦争に巻き込まれ、国土を占領されました。ポルトガル王室はブラジルに逃れ、英国の助けを借りて独立を回復しましたが、その過程で英国への経済的・政治的依存を深めました。

  6. 19世紀の政情不安と経済の停滞:19世紀のポルトガルは、内戦や政変が相次ぎ、政治的に不安定でした。また、産業革命への対応が遅れ、経済的にも停滞が続きました。

これらの要因が重なり、ポルトガルは次第に国際的な影響力を失い、二流国の地位に甘んじるようになったのです。

イベリア半島は、全部スペインが吸収しても不思議ではないのですが?

イベリア半島全体をスペインが吸収しなかった理由は、歴史的・文化的背景が大きく影響しています。

  1. 独立の歴史:ポルトガルは、12世紀に独立を達成し、それ以来、独自の言語、文化、アイデンティティを発展させてきました。一方、スペインは15世紀末にカスティーリャ王国とアラゴン王国の統一によって形成されました。両国は並立して発展し、互いの独立性を尊重してきた歴史があります。

  2. 言語と文化の違い:ポルトガル語とスペイン語は、ともにラテン語から派生した言語ですが、互いに異なる特徴を持っています。また、両国の文化、習慣、国民性にも違いがあります。こうした差異が、両国の独自性を維持する要因となってきました。

  3. 外交関係:ポルトガルは、イングランド(後の英国)と長年にわたって同盟関係を維持してきました。この関係は、スペインに対するポルトガルの独立を守る上で重要な役割を果たしました。

  4. 地理的障壁:イベリア半島は、山脈や河川によって分断されており、国土の一体化が難しい地形です。こうした地理的障壁も、ポルトガルの独立性を維持する一因となりました。

  5. ナショナリズムの高まり:19世紀以降、ヨーロッパ各地でナショナリズムが高まり、民族自決の理念が広まりました。こうした潮流の中で、ポルトガル人の独立意識も強まり、スペインへの吸収に抵抗する機運が高まりました。

もちろん、歴史的にスペインとポルトガルの関係は常に平和的だったわけではありません。スペインは何度かポルトガルを支配下に置こうと試みましたが、長期的な吸収には至りませんでした。両国が併存し続けてきたのは、こうした歴史的・文化的背景が大きく作用しているのです。

ポルトガルは、レコンキスタ運動とは関わらなかったのでしょうか?

ポルトガルは、レコンキスタ運動に深く関わっていました。レコンキスタとは、イベリア半島のキリスト教徒が、イスラム勢力(ムーア人)から半島を奪回する運動のことです。

ポルトガルの歴史は、レコンキスタの過程で独立を達成したことから始まります。

  1. ポルトガル独立の起源:11世紀、カスティーリャ王国のアルフォンソ6世は、ブルゴーニュ伯アンリ(フランス人)にポルトガル伯領を与えました。アンリの息子アフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世)は、ムーア人との戦いで功績を上げ、1139年にポルトガル王を宣言しました。

  2. レコンキスタへの参加:ポルトガルは、12世紀から13世紀にかけて、レコンキスタに積極的に参加しました。アフォンソ1世とその後継者たちは、南部のムーア人支配地域を征服し、国土を拡大していきました。

  3. 主要な戦い:ポルトガル軍は、1139年のウリケの戦い、1147年のリスボン征服、1217年のアルカセル・ド・サルの戦いなど、レコンキスタの重要な戦いで勝利を収めました。

  4. レコンキスタの完了:ポルトガルは、1249年にアルガルヴェ地方を征服し、現在のポルトガル国土を確定しました。これによって、ポルトガルにおけるレコンキスタは完了しました。一方、スペインでは、1492年のグラナダ陥落まで、レコンキスタが続きました。

このように、ポルトガルはレコンキスタ運動に深く関わり、その過程で国土を拡大し、独立を確立していったのです。レコンキスタは、ポルトガルのナショナル・アイデンティティの形成にも大きな影響を与えました。ムーア人との戦いの経験は、後にポルトガルが海外進出を進める際の原動力となったのです。

スペインはかなりローマ法王に固執していましたが、ポルトガルはどうでしたか?

ポルトガルは、スペインほどではありませんが、カトリック教会と法王庁との関係を重視していました。

  1. カトリック国家としてのアイデンティティ:ポルトガルは、レコンキスタを通じてカトリック国家としてのアイデンティティを確立しました。国教はローマ・カトリックであり、国民の大多数がカトリック信者でした。

  2. 法王庁との関係:ポルトガルは、法王庁から独立を認められることで、国家としての正統性を確保しようとしました。1179年、法王アレクサンデル3世は、ポルトガルの独立を承認し、アフォンソ1世に王の称号を与えました。

  3. パドロアード制度:ポルトガルは、15世紀以降、法王庁からパドロアード(教会保護権)を与えられました。これにより、ポルトガル王は、新たに発見した地域における教会の設立や宣教活動を管理する権利を得ました。

  4. イエズス会との関係:16世紀以降、ポルトガルは、イエズス会と密接な関係を築きました。イエズス会士は、ポルトガルの海外進出に同行し、アジアやブラジルでの宣教活動を展開しました。

  5. 宗教裁判所の設置:ポルトガルは、スペインと同様に、ユダヤ人やムーア人を追放し、宗教裁判所を設置しました。ただし、その規模や影響力は、スペインほど大きくありませんでした。

  6. 啓蒙思想の影響:18世紀以降、ポルトガルでは啓蒙思想の影響が広まり、教会の権威に対する批判が高まりました。ポンバル侯爵は、イエズス会を追放し、教会の特権を制限する改革を行いました。

このように、ポルトガルはカトリック国家としてのアイデンティティを持ちながらも、法王庁との関係は時代によって変化しました。総じて、ポルトガルはスペインほど法王庁に固執することはなく、世俗権力と教会権力のバランスを取ろうとしたといえるでしょう。

イエズス会の発祥地はどこですか?

イエズス会は、スペインのバスク地方で発祥しました。

  1. イエズス会の創設者:イエズス会は、1534年にバスク出身の貴族イグナチオ・デ・ロヨラ(聖イグナチウス・ロヨラ)によって創設されました。ロヨラは、もともと軍人でしたが、負傷をきっかけに回心し、司祭となることを決意しました。

  2. パリでの誓い:ロヨラは、パリ大学で学んだ際、フランシスコ・ザビエルやピエール・ファーブルなどの仲間とともに、カトリック教会の改革と異教徒の改宗に尽力することを誓いました。これが、イエズス会の原点となりました。

  3. 法王庁からの承認:1540年、ロヨラは仲間とともにローマに赴き、法王パウルス3世にイエズス会の設立を申請しました。法王は、イエズス会を正式に承認し、カトリック教会の中に位置づけました。

  4. スペインとの関係:イエズス会は、創設者がスペイン人であったこともあり、当初はスペインと密接な関係を持っていました。多くのスペイン人がイエズス会に参加し、スペイン王室もイエズス会を支援しました。

  5. 世界への展開:イエズス会は、スペインやポルトガルの海外進出に伴って、世界各地に宣教師を派遣しました。フランシスコ・ザビエルは、インド、東南アジア、日本での宣教活動で知られています。また、イエズス会士は、中国やラテンアメリカでも活動しました。

このように、イエズス会はスペインのバスク地方で生まれ、スペインとの関係を保ちながら、世界的な宣教活動を展開した宗教組織でした。イエズス会の活動は、スペインやポルトガルの海外進出と深く結びついていたのです。

ザビエルは、高い地位の宣教師だったのでしょうか?

フランシスコ・ザビエルは、イエズス会の中で非常に重要な役割を果たした宣教師でした。

  1. イエズス会の共同創設者:ザビエルは、イグナチオ・デ・ロヨラとともにイエズス会の創設に関わり、初期の中心メンバーの一人でした。ロヨラとザビエルは、パリ大学で出会い、生涯にわたる友情で結ばれていました。

  2. 東洋での宣教活動:ザビエルは、1541年にポルトガル王ジョアン3世の要請により、ポルトガル領インドのゴアに派遣されました。その後、東南アジアや日本での宣教活動を展開し、カトリック信仰を広めました。

  3. イエズス会のアジア管区長:ザビエルは、1549年にイエズス会のアジア管区長に任命されました。この役職は、イエズス会の東洋での活動を統括する重要な地位でした。

  4. 宣教師としての功績:ザビエルは、インド、マラッカ、モルッカ諸島、日本などで多くの人々をキリスト教に改宗させました。特に、日本での宣教活動は、キリスト教の初期伝来として知られています。

  5. 聖人への列聖:ザビエルは、1552年に中国での宣教を目指して旅立ちましたが、中国沿岸の島で病死しました。没後、その功績が認められ、1622年に列聖されました。現在、ザビエルは宣教師の守護聖人として崇敬されています。

このように、フランシスコ・ザビエルは、イエズス会の創設から東洋での宣教活動まで、極めて重要な役割を果たした宣教師でした。イエズス会の発展と世界各地への展開に大きく貢献し、カトリック教会の歴史に大きな足跡を残したのです。

彼が日本に来たのは、ついでと言うか、ちょっと日本に興味があったと聞いています。

ザビエルが日本に興味を持ったきっかけは、偶然の出会いからでした。

  1. ヤジロウとの出会い:1547年、ザビエルがマラッカ(現在のマレーシア)で宣教活動をしていた際、日本人のヤジロウ(アンジロー)と出会いました。ヤジロウは、日本の文化や習慣について話し、ザビエルの興味を引きました。

  2. 日本宣教への関心:ヤジロウの話を聞いたザビエルは、日本人が知的で学問を好む国民であると知り、日本での宣教活動に強い関心を抱くようになりました。ザビエルは、日本人がキリスト教を受け入れやすいのではないかと考えました。

  3. ヤジロウの洗礼:ザビエルは、ヤジロウにキリスト教の教えを説き、洗礼を授けました。ヤジロウは、パウロ・オブ・サンタ・フェ(聖信のパウロ)と名付けられ、ザビエルの通訳として日本宣教に同行することになりました。

  4. 日本への渡航:1549年、ザビエルはヤジロウとともに鹿児島に上陸し、日本での宣教活動を開始しました。ザビエルは、日本での布教に大きな期待を寄せていました。

  5. 日本宣教の成果:ザビエルは、鹿児島、平戸、山口などで宣教活動を行い、多くの日本人をキリスト教に改宗させました。特に、大村純忠や大友宗麟などの有力者の支援を得たことが、宣教活動の成功につながりました。

このように、ザビエルの日本宣教は、ヤジロウとの出会いがきっかけで始まりました。日本人の知的好奇心に惹かれたザビエルは、日本での宣教活動に情熱を注ぎ、キリスト教の初期伝来の基礎を築いたのです。ザビエルの日本宣教は、彼の東洋での活動の中でも特に重要な意味を持っています。

ザビエルは、スペイン人なんですね。

いいえ、それは少し誤解があるようです。フランシスコ・ザビエルは、スペイン人ではなく、バスク人でした。

  1. バスクの出身:ザビエルは、1506年にスペインとフランスの国境に近いバスク地方のサビエル城で生まれました。バスク地方は、スペインとフランスにまたがる独自の文化と言語を持つ地域です。

  2. ナバラ王国の貴族:ザビエルは、ナバラ王国の貴族の家系に生まれました。当時、ナバラ王国はスペインとは独立した王国でした。

  3. スペイン王国との関係:しかし、1512年にスペイン王フェルナンド2世がナバラ王国を征服し、スペインに組み入れました。このため、ザビエルの生まれた地域は、彼の生涯の大部分でスペインの支配下にありました。

  4. スペイン文化の影響:ザビエルは、スペイン文化の影響を受けて育ちました。彼はスペイン語を話し、スペインの大学で学びました。また、イエズス会の創設者イグナチオ・デ・ロヨラもバスク人でしたが、スペイン文化の中で活動しました。

  5. ポルトガルとの関係:ザビエルは、イエズス会の宣教師としてポルトガル王室の支援を受け、ポルトガル領インドやアジアで活動しました。このため、ポルトガルとも深い関係を持っていました。

このように、フランシスコ・ザビエルはバスク人でしたが、当時のバスク地方がスペインの支配下にあったため、スペイン文化の影響を強く受けていました。また、イエズス会の宣教師として、スペインやポルトガルと密接に関わりながら活動したのです。

日本ではザビエルとポルトガルの関係が強いと考える人は多いと思います。

おっしゃる通り、日本ではフランシスコ・ザビエルとポルトガルの関係が強調されることが多いですね。その理由は以下のようなことが考えられます。

  1. ポルトガル王室の支援:ザビエルは、ポルトガル王ジョアン3世の要請により、東洋での宣教活動を始めました。ポルトガル王室は、ザビエルの宣教活動を財政的に支援し、また、ポルトガル船による航海や交易の拠点を提供しました。

  2. ポルトガル領インドからの来日:ザビエルは、ポルトガル領インドのゴアを拠点に活動し、そこから日本へ渡航しました。当時、ポルトガルは東アジアとの交易を独占しており、日本へのルートもポルトガルが開拓したものでした。

  3. 南蛮貿易とキリスト教:ザビエル以降、ポルトガル商人が日本に来航し、南蛮貿易が始まりました。ポルトガル商人は、貿易とともにキリスト教の布教も行いました。このため、日本では、キリスト教とポルトガルが強く結びついたイメージがあります。

  4. 歴史教育での扱い:日本の歴史教育では、ザビエルの来日はポルトガル人によるものとして説明されることが多く、ザビエルのバスク人としての背景や、スペインとの関係は詳しく触れられないことがあります。

  5. ザビエルの日本宣教の重要性:ザビエルの日本宣教は、彼の東洋での活動の中で特に重要な意味を持っています。日本では、ザビエルはキリスト教伝来の象徴的な存在として認識されており、その活動はポルトガルとの関係で語られることが多いのです。

このように、日本では歴史的な経緯からザビエルとポルトガルの関係が強調される傾向にありますが、実際にはザビエルはバスク人であり、スペインやイエズス会とも深く関わっていたことを理解することが重要ですね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?