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多様性とシスター・アニマー続・私が女装する理由

 前回「ゆる性自認」と言って、別に男性だから男性らしくなくたっていいじゃないか!という話をしましたが、これを更に推し進めると、「男性か女性か」という二分法で人間の心も区別しようとするからいけないんだ! ということです。
 生物的にはハッキリ違う機能があるので、二分法でも無理は生じないでしょうが、人の心はアナログなものです。それを二つに分かとうというのはちょっと乱暴すぎるんじゃないのかな、というのが最近の私のスタンスです。
 そこで「アニマ」という言葉が出てきます。男性の心の中にある『内なる異性』。ちなみに女性の場合だと『アニムス』という言葉になります。
 これはユングの心理学なのでフロイトとかアドラーが好きな人には「なんだ、そんなもの」と言われると思いますが、それならそれでよろしい。ユング自身が「フロイトがいいならフロイトの方に行けばいい」って言っているので、私もそういうことにします。私はユング心理学が一番しっくり来るから、私のなかの女性らしさを「アニマ」という容器に入れて認識することにしています。
 そのアニマの中でも、特に河合隼雄先生が著書の中で定義していたのが「シスター・アニマ」というものです。
 自分自身の心を何とか理解しようと思って読んだのが河合隼雄氏の『ユング心理学入門』であり、そこから芋づる式にユングの本を読んで「私の心はこういう感じ」と組み立てて来たのですが、私は決して専門家ではありません。もしかしたら間違っているかもしれません。でもいいんです。私も門外漢の気安さで自分の心のことを話します。思い切って引用します。せーの、ドン!

……あるいは、内的に考えると男性にとってのシスター・アニマというものが、いかにアニマへの導き手になっているかを示すものとも考えられる。男性のアニマ像ははじめ母親像をベースとしてつくられ、次に姉のイメージが強くなる。つまり、母親から分離するのだが、すぐに異性の他人に接するのは困難なので、姉がその中間役をするわけである。血のつながっていない年上の女性に対して、恋人としてよりむしろ姉のイメージをもったりするのもこの類である。シスター・アニマは日本の物語にはよく登場する。安寿とずし王の物語の安寿などはその典型である。

(河合隼雄『とりかへばや、男と女』 第6章「物語の構造」より)

 母親から分離してを除き私の身内で一番近しい異性というのは5つ以上離れた2人の従姉となります。
 そこそこ歳も離れているし、盛岡と仙台で住んでいる場所も離れていたので、たまに会うけど一緒に遊んだ記憶というのはあまりない……という関係性なのですが、昨年帰天した叔母の葬儀で久々に会った時、私の中にあるアニマ……つまり自分が理想と思い描いていた女性像は2人の従姉を足したものだと気づいたのです。
 上の従姉は思ったことをなんでもハッキリと言う超積極的なタイプであり、下の従姉は反対に普段から物静かでほとんど口を開かない極内向的タイプである……と、すごく簡単にいうとそんな感じなんですが、それはほぼそのまま私の理想の女性であり、また私自身です。口下手で、「こういう時は何て言えばいいのかな」「こんなこと言ったら、変に思われるんじゃないかな」とかって考えてばかりでなかなか自分の気持ちを出せない一方、いったん気持ちが切り替わると人前でも堂々と話し振る舞うことができる……と。
 そして、決めました。
 「私は私の理想を生きよう」
 と。
 男性である私自身を受け入れつつ、私のアニマも私の一部なのだからそれを認め、手を取り合ってこの世界で生きられるだけ生きてみよう、と。

   *

 世の中、流行り文句みたいに「多様性、多様性」と言っていますが、果たしてどうでしょうか。私は結構、疑ってかかっています。
 初めて女装して街に出た頃は、ある部分ではそういう疑いに真正面からぶつかってやれ! みたいな気持ちもありました。
 「多様性の世の中だって言うなら、こんな私を受け入れてごらんなさいよ」
 果たしてどうだったか。
 意外と、いけそうです。私みたいなのを受け入れてくれる方、好意的に見てくれる方はこの世にたくさんいることを知りました。
 だから私は大丈夫なんです。そして、私と同じように、もし踏み出す勇気が出なくてツラい思いをしている人がいるなら、
 「大丈夫だよ」
 って言ってあげたいです。
 必ず、あなたのことをわかってくれる人は、いますから。

 ……なんてね。別にそこまで難しく考えているわけではありません。ただ、いつもSNSとかでは見えない(見せていない)ところを一度まとめておきたかったのです。「そういう考え方もあるんだな」って。本当にかる~く受け止めてもらえれば幸いです。

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