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グレアム・ハーマン 『関係性後のアート』 翻訳

Graham Harman: Art Without Relations

https://artreview.com/september-2014-graham-harman-relations/


まず、「非関係性の美学」という概念をここに提示したい。これは、今も影響力のある『関係性の美学』(1998年)を著したニコラ・ブーリオへの批判を意図したものではない。ブーリオが「関係性」と言う時それは、普段匿名的にすれ違っていた人間同士がレトルトスープを一緒に料理するなどして交流するように演出したもの、という意味を持つ。一方、私が対立しているのは、広義の関係性であり、それもアート史においては既に十分馴染み深いものに対してであるため、まるでとっくに終わった議論の中に私が迷い込んでいるように見えるかもしれない。私の立場はこうだ。アート作品は、社会的・政治的環境や物理的環境、あるいは商業的な交換価値から独立しているのみならず、その他のいかなるオブジェクトからも独立している。

関係性は、芸術の分野に限らず古くから論じられてきた。殺風景な物質ではなくダイナミックな関係性への共感、という構図は私たちの時代における知の一般的なムードをよく示している。近年の大陸哲学で言えば、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、イザベル・ステンガー、ブリュノ・ラトゥール、ジェーン・ベネットらが、静止した自治的なオブジェクトよりもプロセスと関係性を支持する熱心な擁護者として挙げられるだろう。しかし、私が提唱しているオブジェクト指向哲学の主張とは、オブジェクトに対する関係性の優位という概念はもはや何ら解放的ではない(オブジェクトを人間同士のプラグマティックな効果にのみ還元してしまうから)というものだ。

そこで、最も普遍的な主題を扱うことが天命であるとされる哲学から始めることにする。本論ではその主題を「オブジェクト(対象物)」、つまり銅線、気象システム、架空の人物、爬虫類、アート作品、陽子、一過性の出来事、数字など、人間を含む広い意味での「オブジェクト」と呼ぶ。他の様々な専門分野とは異なり、これらのうちのいくつかだけを扱って他のものを無視する、といったことを哲学はできない。

「オブジェクト」とは、統合された実在──つまり、それが物理的なものであれそうでないものであれ、断片に向かって完全に還元することも、効果に向かって完全に還元することもできないもの──を意味する。人間や無生物はそれを構成する小さな物理的部品なしには存在できない、ということを自明として私たちは理解しているが、しかし私たちは同時に、オブジェクトがその構成要素の変容に耐えうる、ある程度まで強固な実在性を持っているのだということも理解している。オブジェクトは、構成要素の次元を超えて現出しているのであり、その断片のみによって説明し尽くすことなどできないのだ。

しかし、芸術にとって(社会科学の場合と同様に)大きな危機とは、オブジェクトを、その断片よりも効果の観点から「言い換えて」しまう上方還元だ。あるオブジェクトに関する、それが「コンテクストによって完全に定義されており、そこには表現されていないプライベートな(私的な・非公式的な)余剰などない」という主張は当然疑わしいものになるだろう。この見解を擁護するということは、全てが既に存在の限界にある世界に身を投じることを意味するからだ。このメロンも、あの都市も、また私自身も皆、それ以外のあらゆる「全てのもの」に対する一時的な関係そのものでしかないのだとすれば──そこにはどんな変容も存在しない。

何でできているかについて説明するのか、何をもたらすかについて説明するのか

この2つの還元は、オブジェクトを破壊する方向性においてのみ異なっている。すなわち、オブジェクトが粉々になるまで粉砕するか、あるいは異常食欲を持つコンテクストに向けて引き上げるか。確かにこれらは、「それ」が何であるかという問いに関するベーシックな2種類の知識に違いない──それが何でできているかについて説明するのか、何をもたらすかについて説明するのか。しかし、哲学は知識そのものを指向するものではなかった。ギリシャ語のphilosophiaは知識そのものではなく「叡知を愛する」という意味であって、語源から見ても哲学には根本的な無知が前提として組み込まれている。

しかし、哲学が知識そのものでないとしたら、同様のことがアートにおいては遥かに明確だと言える。鑑賞した若者たちが大量のノーベル賞を受賞するような教育学的作品よりも、科学的な虚偽を満載した作品の方がアートとして優れていた、などということは当然にあり得る。同様に、アート作品それ自体は社会的、政治的な説明による知識を殆ど提供しない。例え政治的に挑発的な作品であっても──例えばピカソの『ゲルニカ』(1937年)のような作品は、それを否定する聴衆の間ですらアートとして成立するだろう。ゲルニカにおいては、主題に対する特異な美的処理が持つ何らかの力が、作品自体の表層的な政治的メッセージに対して超過する(もしくは未達である)ことによって、ピカソ自身が困惑するような読み取りさえ可能になっているのだ。また、アート作品を個人史的ないし史学的背景と置き換えることはできない。アートのオブジェクトとは、そのように容易に移動可能で恒久的にあろうとする主体には決して限定されない広義のオブジェクトであり、それは哲学におけるオブジェクトと同様に、知識に対する耐久力を持っているのだ。

オブジェクト(対象物)の理論に静かなブレイクスルーをもたらしたのは、エドムンド・フッサールとマルティン・ハイデガーの現象学だ。当時の経験主義的な哲学者たちが採っていた主流な戦略の一つは、オブジェクトの存在そのものを否定し、それらを「質の束」に置き換えることだった。厳密に言えば、「月」というものは存在せず、「白い」「丸い」「光っている」などの性質(クオリティ)だけが存在し、それらがあまりに頻繁に現れるので、このような性質のラフな集合を「月」というアダ名で俗称しているのだ、と。現象学の特異さは、このような先入観を反転したことにある。フッサールは、「月」として統合された現象的オブジェクトが、それが示すであろうあらゆる性質に先立っているとする。まず経験のオブジェクトが先にあって、その明らかな諸性質は継続的にかなり変化しているにも関わらず、それは持続していると言うのだ。ハイデガーは、師であるフッサールを「現前性」に限られた哲学者であると批判することで賭け金を積む;フッサールは、性質の総和に還元することのできない、統合された経験のオブジェクトを発見したが、このオブジェクトは意識への現前によって既に消尽されているのだ、と。ハイデガーは、そうではなくして、オブジェクトは普段、無音の背景に引きこもって(伏蔵して)いるのだ、と主張した。

しかしハイデガーの「引きこもった存在」の領域には、極度に全体論的なところがあり、そこで彼は目に見える限りの存在のみならず、複数的な存在の有り様にも抵抗している。このハイデガーの「隠された存在の王国」が持つ法外な統一性は、有名な論文「芸術作品の根源」(1950年)に憑依している。ハイデガーにおける、隠された大地とアクセス可能な世界との間の「闘争」としてのアートの概念は、後の哲学者たちによって発展されることはなかった。ハイデガーの「大地」は彼にとっての「存在」と同様に隅々まで統一されており、したがって全てのアート作品はいかなる場合においても同一の「隠された大地」を指し示す。通常の経験が現前性の領域を漂っているものだとすれば、ハイデガー的アート作品は、現前性に穴を開けたあと、還元不可能な「実在それ自体」に向かってぼんやりとジェスチャーをしているかのように見える。したがってハイデガー的アーティストは、同じ大地的な背景を抑揚なくほのめかす意識内の肉感的なイメージの泉(水差し、寺院、農民の靴)に置き去りにされる。

通常の経験は現前性の領域を漂っているが、ハイデガー的アートは現前性にパンチで穴を開ける

ハイデガーが乗り上げた暗礁は、クレメント・グリーンバーグが自身の現代アート論において直面している問題とほぼ同じものだ。グリーンバーグのキャリアにおける長年の敵は学術的なアートであり、その最大の脆弱性は、それらがメディウム(媒体)の背景構造を無視しながら露骨な内容で鑑賞者を欺こうとする性質にあるのだと主張する。グリーンバーグが現代絵画と言う時、それがジョットからマネに至るまで支配的だった3次元的イリュージョニズムとは無縁の、平面的なキャンバスを背景とするものを指していることは明白だ。グリーンバーグとハイデガーの両者にとっては、平面的な背景がいかなる内容でその方向性を示唆しようと、全て同じものになる。この点において両者は、過度なかたちで表層を浅く、背景を深く見積もっており、作品の形態を統一的に、その内容を拒絶的に捉えすぎている。

人間との関係よりも深くオブジェクトに思索を巡らす芸術を擁護することは、アート作品の自律性に関する高度なモダニズムの概念に向かって後退しているかのように見えるかもしれない。また、オブジェクトに言及するというだけで、観察者中心のリテラリズムとは逆方向へとさまよい出てゆくように見えるかもしれない。マイケル・フリードが1967年に発表した論文「Art and Objecthood」では、ドナルド・ジャッド、ロバート・モリス、そしてミニマリストたちを指して「リテラリスト」と呼んでいる。この概念は、彼らの長方形・立方体・棒状の様々な作品群が、何か特筆すべき美的感覚によってではなく、リテラルな(文字通りの)オブジェクトとして経験されているのだという解釈に由来する。フリードにおいては、リテラルであることは劇的であることを同義である──「リテラリストの感性は劇的である。なぜならそれは、観る人がリテラリストの作品と出会うその実際の状況に関わるものだからだ。」言い換えれば、リテラリストの作品は、観る者と観る行為のコンテクストを念頭に製作されている。美学はスペクタクルに取って代わられ、鑑賞者はあらかじめ作品の構造それ自体の内に予期されている、というわけだ。

後のエッセイ「An Introduction to My Art Criticism(私の美術評論への導入)」(1998年)の中でフリードは、劇性とリテラリズムの両方のルーツを、既に疎遠になっていた亡き師グリーンバーグに求めるという挑発的な態度をとっている。フリードはこう主張する。グリーンバーグは、現代絵画にメディウムを考慮するよう提言することで、(その時に結実する空虚さに対して自ら発した先制的な警告にもかかわらず)無内容な純白のキャンバスや裸の立方体を提示するに至るような昂然たる最終段階への道を舗装したのではないか?と。まさしくここでフリードはグリーンバーグを読み違えている。平らなキャンバスの背景をそのまま物理的なオブジェクトとして扱うことは確かに可能だが、グリーンバーグはそうしなかった。むしろ彼は、背景をそれ自身の力では決して立ち現れてこないもの、それゆえ決してリテラルには「なり得ない」ものとして扱ったのだから。グリーンバーグの平らなキャンバスは、(ジャッドにとってもそうであるように)ただの物理的な素材などではない。それはむしろ既に物質性を失った二次元の空間であり、そこにある内容は全て、遥かにモダンかつポスト・イリュージョニスト的な絵画のそれとして考察されるべきものだろう。文字通り物理的なキャンバスを指し示したところで、そのキャンバスが可能にしている美学的背景を指し示していることには当然なりえない。

しかし私にとっては、フリードが不幸にもリテラルさと劇的さを混同していることより、彼がグリーンバーグを誤読していることの方に関心がある。哲学的な見地から見ても、リテラルさを忌避せねばならない、という主張に私は十分に同意できる。自然科学や社会科学がオブジェクトの性質を検出したり要約したりすることで文字通り「言い換え」ようと試みるのとは異なり、アートと哲学は、それが言い換えられない限りにおいてオブジェクトを愛することで結ばれているからだ。しかし一方で、日常的なオブジェクトがリテラルな形で現前しているとするアートに向けられたフリードの拒絶(理解に難くないのだが)は、明らかに劇性に対する彼の個人的な反感と混同されているものと見受けられる。

フリードが犯している失敗は、文字通りのアートの観察者としての人間と、劇的なアートの素材としての人間との区別を履き違えたことにある。観察者・行為者としての人間は、出会ったオブジェクトを即座に検出可能な性質として言い換えるリテラリストであり、その性質の下に眠るオブジェクトを理解することなどできない。しかし、世界の素材としての私たちに至っては、もはやリテラリストですらないし言い換えもしないのだ。ダイヤモンドや煉瓦が何か他のオブジェクトを生み出すように、そこでの私たちは社会や軍隊、ドラマや芸術作品を生み出すパーツに過ぎないのだから。

劇場は観察の場というよりも、哀れみや恐怖、擬人化の場なのだ。

リテラル(文字通り)の別名は、リレーショナル(関係的)である。なぜなら、どちらもオブジェクトの外側への効果を指すのみで、そのような効果を可能にする不可解な内的実在を指してはいないからだ。同様に、「劇的なもの」を表す別の名称とは、「非関係的なもの」である。なぜならば、劇とは観察の場ではなく、哀れみ・恐怖・擬人化の場であり、それは、人がイラストレーター(説明者)としてではなくアクター(行為者)としてのミメーシスを通して、既に描き出されているものを観察するのではなく、それに「なりゆく(become)」ための場だからである。この論文では、2つの基本的な主張をしてきた。第一に、ハイデガーとグリーンバーグに関しては、アートの表層的な内容の背後にある深さを求めることは正しいが、その深さを統一的で全体論的な背景と同一視することは間違っている。モダニズム理論の問題点は、アートを脱文脈化してあまりにも自律的にしてしまったことではなく、自律性を(内容自体の内的な魅力ではなく)メディウムの特徴に根ざしたものとして捉えた点にある。ここでは、グリーンバーグが両者を露骨に否定したように、シュルレアリスムはカンディンスキーと並んで不当な敗者であった。

第二に、フリードがリテラリズムのないアートを求めたのは正しかったが、人間をリテラリズムの担い手としか見ていなかったのは誤りである。アート作品には観察者との出会い方を超えた深みが不可欠だが、人間は観察者である以前にアートの共ー構成要素なのだ。したがって当然、魅力的でないアートは(魅力的でない科学とは逆に)単に失敗する。ここでの不当な敗者は、厳密な意味でのパフォーマンス・アートだけに限らず、あらゆる形態の熱烈な愛情、もしくはフリードが「感傷主義」と呼んでいたものだった。

カール・ポパーも「ある理論はいつでも危険な予測をするべきだ」と推奨しているので、ここではあえてそのような予測を2度させていただきたい。現存する芸術家の中では、既によく知られているロシア生まれの芸術家、グリシャ・ブルスキン(Grisha Bruskin)が、目されているよりも遥かに重要であるかもしれないと主張したい。ソビエトとユダヤの神話を、ややヒエログリフ風にアレンジした彼の形象表現には、先から私が弁護してきた種の不可解な深さと演劇性の両方が見られる。

既に死せる者については、私はさらに大きなリスクを冒して、オランダ人のM.C.エッシャーに再注目することを提案する。エッシャーは、既に数え切れないほどの子供と少数ながら熱心な大人たちのお気に入りの芸術家だが──ブルスキンのケースで述べたのと同様の理由で推したい。エッシャーが再び重要視される逆説的な美術史は、必ずや愉快な思索実験となることだろう。



定義集

関係性 [Relations] 
関係的 [Relational]
オブジェクト [Object] 慣例的には対象、もしくは対象物であるが、論文の資質上、前述の二語では訳しきれない用法で使用されている部分が多く、先入観をバイパスするため、また不必要な複雑化を避けるため、全てカナ表記で統一する。
還元 [Reduction] 直訳=縮小・削減。ハーマンはReductionという一語によって「上方・下方に関わらず何らかの最終的な単位に向かわせる処理」を企図していると思われる。構成要素へと分解する・基本的なかたちにする・の両用法が素朴に可能であるとして「還元」と逐語訳する。四方対象で用いられている有名な概念はUnder/Overminingであり上方・下方解体として知られているが、ここでは区別する。
統合 [Unified] 統一と訳した部分もある。
実在 [Realities] Reality(現実)の複数形=現実性。(慣例的に)実在。
リテラルに/リテラルな [Literal] 文字通りの、そのままの。ここでは文中の芸術運動「リテラリズム」も参照。便宜的な使い分けあり。
性質・質 [Qualities] 直訳;クオリティ・特徴。
大地 [Earth] 慣例的なハイデガー訳。
現前性 [Presence] 直訳;立ち現れ。慣例的なハイデガー訳。
存在 [Being] 直訳;なりゆくもの。慣例的なハイデガー訳。
背景 [Background] キャンバスが絵画の内容にとって背景であること、絵画作品において物理的なバックグラウンドであること、を鑑みて両儀的に扱われているのだと思われるが、混乱を避けるべく統一。
内容 [Contents] =コンテンツ。
劇的・劇性 [Theatrical] 演劇的・演劇性とするべきだが、日本における批評用語の文脈との不必要な混同を避けるため、また文中の遭遇に関する側面を二義的に強調するためこの訳語とする。
メディウム [Medium] 直訳=媒体。メディア=媒体群の単数形。美術用語。「なんらかのものの間にある中間項として、それらを媒介する媒体物」

最終更新:2021年10月20日

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