コロナ後遺症になってしにたい気持ちがわかったかもしれない

こんばんは。今日もおつかれさまです。

noteのテンプレートはそんな挨拶から始まる。呑気なものだ(書いたことがある人にしかわからないね)。

タイトルとのギャップが著しいよ。いましにたい気持ちがわかったかもしれない。という話を書こうとしているところなんだよ。

生まれてこの方、しにたいなんて思ったことがない。いや、正確には高熱を出すと毎回生きたくないと思うほどだが、別にしにたい訳ではない。

5月半ばに発熱し、そこから倦怠感とだるさ、思考力や記憶力の低下が続いて、突然仕事ができなくなるほど寝込むこともあった。

一旦回復したと思ったら、4日立て続けに外出しただけで「再起不能」な状態になってしまい、ここ数日は知能も身体も幼稚園児の気分だ。

思えば社会人になってから、大病という大病はしたことがない。度々体調をがくっと落とすことはあったのだが、なんだろう、これまでの体調不良の比ではない粘っこさというか、休んでも回復する気配が見えないところが苦しさの要因だと思う。

沢山あった有休もほとんど使い果たした。コロナになる前は好調だったのになー、やりたい仕事もできているし、楽しみなイベントもあるのに…また仕事を自分の意志ではなく辞めないといけなくなったら嫌だなあ。

なんとなく「死」を感じる。動きたくても動けない、生きたくても生きられない、人生の停滞、ゆるやかに終わりが近づく感覚。もしかしたらこのまま死ぬのだろうか(ひとまず社会的に)。それだったら、一番楽しいときに人生を終えても別にいいな。

どうしてもしにたい、という訳ではなく、どうせしぬならいつでもいい。
たぶん、この世を去る方の中には一定数そんな人もいるのかもしれない。

今しにたいのではなく、すでにしんでいるからいつでもいいのだ。

少し後悔している。人のために無理をして動いたりしてきたこと。断るのが下手な性格。自分が辛かろうと、人を放っておけないこと。健康を害してから、私の人生は他人のものではない。って思うんだ。

もっと利己的に生きておけばよかった。ああ、あの人みたいに生きていけたらなぁ。泣き言を書いているのは、動けなくてそれくらいしかできることがないからだ。

でも、きっと周りの人は、私が生きてくれることを望んでいると思う。そう感じるのは私が利他的に生きてきたからだ。

だから、生きて、と私は私に声をかける。
うまく調整して、バランスをとって。

何度も、何度も、細胞に問いかける。


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