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3月27日(日) フィリピン滞在71日目

リアルが充実し過ぎて更新滞りました。日本のみなさま、こんにちは。2016年の春という季節、いかがお過ごしでしょうか? こちらは相変わらず暑いです。「実際、今日何℃あったんだろう?」と調べたら36℃でした。轢かれたネズミも干からびる暑さです。

そんな暑さのなか、最近はNavotasという海辺の街に通っています。一緒に住んでいるJKやAlexからも「あそこは危ない」と注意を促される所謂スラムですが、現状はだいじょうぶ。たしかに僕からみてもスラムだけれども「スラム=危ない」というそんな単純な話ではないはずです。フィリピンで生活するに肝に銘じているのは「演じられるな、演じろ」。「踊らされるな、踊れ」でもいいのだけれども、僕は経験上、「演じ」ほうがピンとくる。だれかに自身を演じさせられたら、やられます。自分から凛と演じていかなければとてもやっていけません。なにを勇気とし、なにを蛮勇とするかの判断から、いかにリスクをしたたかに冒すか。リスクを負いたくなければ日本にいるのが一番安全なわけで。その上で、日本の人がマニラに来るとことさらにスラムを見たがる。その衝動はどこからやってくるのか、多少なりとも自己考察できたなら日本での生活も幾分豊かに、楽になるのでは? とお節介ながら思ったりしています。

さて、なぜNavotasに通っているのかというと、この海でタコを釣ろうと思っているからです。Mega Q Martでひと月間「タコをくれ」と言い回り続けた甲斐もあって、あらかじめ頼んでおけば仕入れてくれるのだろうけれども(ちなみに最近は日本人がMega Q Martに入ると「タコか?」と声をかけられるようになっているらしい)。マーケットに入るタコは死んでるし、マニラの人は概ね、たこ焼きは知っているけれども、タコを見たことはない(たこ焼きにタコはまず入っていない)。当然動くタコを見たことも触ったこともないので、それを感じるためにも釣ってみようと。その釣り上げた瞬間を共有した人(観客)がいたならば、早速その人とたこ焼きしてみようと。ざっくり言うとそういうことで、それだけのことです。

と言っても、Navotasの海にアプローチするには集落(barangay)を抜けなければたどり着けません。Navotasは長い半島のような形状になっていて、その中心を縦断する本道から分かれる一本一本の道がそれぞれのbarangayへと通じています。その道幅は人がようやく行き違える程度で、そうした道で家々はつながれ集落が構成されています。さすがになんの許諾もなしにこれ以上進むことはできないと思い、とあるbarangayの派出所のような建物に入り「海が見たい」と告げて、「なぜ海が見たい?」とか「なに人だ?」「お前はなんなんだ?」といった問答を交わし、案内してくれることになったのです。

彼女はマリア。そのbarangayに住まう彼女が案内を買って出てくれました。とても物腰のやわらかい、英語もいちおう喋れる彼女。本道から目に捉えることのできるbarangayはほんの一部、その先は蟻の巣のようにどこまでも深く、またそこに暮らす人たちの息遣いも次第深くなっていくのでした。火遊びをする5歳くらいの子どもたち、昼間から小銭を賭けたビンゴに興じる女性たち、同じく昼間から酒を呑む男たち(ちなみにこの日はHole Week最終日)。誰も狭い道に座り込み、行われています。マリアはいちいち声を掛けられ、主だった人には僕を紹介してくれました。そこには狭い道や込み入った家々の外観だけでは想像できないほどの、溢れんばかりの人々がそこで暮らしを立てていました。

案内してもらった海は汚かった。漂着したゴミがカラフルな陸地を成していました。水上に立ち並ぶ家はよく建っているなあと感心するバランス感覚で、おそらく齢60は超えているだろうマリアもその海に面する家々への昇り降りはキツそうでした。自重しながらも手を貸しながら、彼女にこの昇り降りができなくなれば、このbarangayで生きていくのは厳しくなるだろうとの思いが駆けました。と同時に「人間が環境をつくるのではなく、環境が人間を成している、それは摂理だ」と妙に納得もできたのでした。

彼女はそのあと家に招いてくれて、かつて日本人に世話になった話を聞かせてくれました。このスラムのようなbarangayがさらに貧しかった70年代、日本のFoundationがやってきてまちづくりに関し、いろいろと手を貸してくれた話。僕は現在の日本のあり方に否定的ですが、それでもその頃に日本がおこなった活動に助けられている自分もこうして現にいるわけで。その一方、マニラ中心部からも程近い海辺のこの集落が日本軍による占領からアメリカによる奪還までになんの影響もなかったとは到底思えないわけで、彼女が語る感謝とは裏腹に、これからの日本のいく末に暗澹たる思いを抱きました。70年代のような金にモノ言わせる交流はおそらくもうできない。なにを以て交流とするのか、それは現在こそ自省的に考えなければならない課題だと思います。

マリアは最後に自身の住所を記したメモを手渡してくれました。代わりにわずかながらお金をお礼にと渡そうとしましたが、いらないと断られました。次いで「またいつでもおいで、いつもここにいるから」と彼女は言いました。


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