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「酸っぱいブドウ」であってほしいという酸っぱいブドウ

酸っぱいブドウの話、有名ですよね。

本当はブドウが食べたかったんだけど、高い木の上にあって手が届かない。そこで「どうせきっと酸っぱいブドウに違いない」と負け惜しみを言って、自分の心の安定を図るアレですね。

江草もぶっちゃけよくやってそうな気がします。逆に、手に入らないものを美化して見てしまう「隣の芝は青い」とどちらの頻度が多いかは分かりませんが。


で、こないだ見かけたのが、特定の立場の人々を指して「あんなのただの酸っぱいブドウなんですよ」と評していた言説です。つまり、彼らは我々のことを不幸せだと決めつけるけれどそれは彼らの「酸っぱいブドウ」的な負け惜しみに過ぎないというわけですね。本当は我々に憧れてるくせにと。

この言説の具体的な詳細や是非はここでは置いておきまして(そもそも色んな立場や場面でありそうなタイプの言説ですし)、なんだかとても面白いなあと思ったのがこの言説の構造です。

というのも、彼らは「酸っぱいブドウ」的に負け惜しみしているに過ぎないという言説もまた十分に「酸っぱいブドウ」の形式をとってると言えるからです。いわば、「酸っぱいブドウ」であってほしいという酸っぱいブドウです。

彼らの言う通り、我々の方が不幸で彼らが幸せだと認めると癪である。だから、彼らは本当は不幸で、本心では我々に憧れているのだが、それを認めたくはないがために、我々を不幸だと決めつけて心の安定を図っているのだ、という「酸っぱいブドウ」として彼らの言説を解釈することで、「我々」側こそ「酸っぱいブドウ」をやってる可能性があるわけです。

相手側が「酸っぱいブドウ」的に負け惜しみを言ってる奴らだとネガティブな評価を決めつけることで、自分たちの正当性や優位性にしがみつくというのはまさしく「酸っぱいブドウ」の典型例でありましょう。

このように、「酸っぱいブドウ」の話を用いる言説がそのままずばり「酸っぱいブドウ」の論理の形式を取っているのが、とても面白くて印象に残ってしまいました。


やっぱり、このような言説がまずいのは、「酸っぱいブドウ」を安易に他人に適用したことでしょう。

他人の本心というのはどうしたって確実に把握することはできないものです。「幸せです」という主張を文字通りに受け取ることもできれば、本心は違うはずだと疑うこともできる。しかしそれを真に確定することは、皆様も人生を生きてきて重々ご承知の通り、残念ながら不可能です。

だから、極端な話「酸っぱいブドウで言ってるだけだ」と他人を評するのはどんな立場の相手であろうとどんな場面の議論であろうと可能なのです。

しかし、どんな時にでも使えてしまう万能のロジックというのは、一見何かを根拠づけて言ってるようでただの独善に過ぎないわけで、言説のレベルとしては稚拙と言わざるを得ないでしょう。

そもそも、あくまで「酸っぱいブドウ」のような寓話は自身の言説を省みるための教訓として用いるのが良いのであって、他人を批判するために用いるものではないはずです。


というわけで、以上、「酸っぱいブドウ」であってほしいという酸っぱいブドウ的な言説を見たよというお話でした。もはや何回「酸っぱいブドウ」と書いたか分からないぐらい繰り返したので、さすがにちょっと甘いブドウが食べたくなってきました。

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