育児のプリミティブさ
育児をしていて(文字通り)痛感するのが、これがプリミティブな痛みを味わうことを避けられない活動であることです。
抱っこやら変な姿勢の負荷によって最近江草が悩まされてる慢性腰痛もそうですけれど、場合によっては殴られたり噛まれたりという直接的なダメージを被ることもあります。当然ですが痛いんです、これが。
たとえば、これは江草自身の子ではなくて、甥っ子からやられた事例なんですけれど。
甥っ子が実家の狭いリビングで暴走族も驚くほどの高速でアンパンマンカーを乗り回していたんです。
型は微妙に違うかもしれませんが、↓こういうやつです。
食事の皿の後片付けしていた時分なのもあり、「危ないよ」と江草も再三注意していたんですね。ところが注意しても全然聞かず(まあ子供とはそういうものですが)、むしろもっと興奮して加速する有様でした。
そうこうしてるうちに、とうとうスピード違反即免停レベルの速度で突入してきたアンパンマンカーが江草の足の指に乗り上げるという事態が発生。多分、故意ではなかったとは思うんですが、少なくとも事故ではあります。
いやね、これ、笑い話のようで、けっこう痛かったんですよ。十分、車に轢かれたって感じでした。あまりの激痛に悶え苦しんで、普段温厚で知られる(多分?)江草も「何すんじゃこら!」とぶちキレましたからね。注意し続けていたところからの激痛でしたから、そりゃ流石に怒りも発動するというものです。アンガーマネジメント?知らんがな。
で、何が言いたいかというと、江草も実際に自分の身で体験してようやく気づいたんですけれど、こういう直接的に肉体に来る系のダメージ、すなわちプリミティブな痛みに対して、現代人は思った以上に疎遠になってるんじゃないかってことです。
あまりに縁がないから、心の準備なしに遭遇するとショックで驚くし、痛いからつらいし、場合によっては耐えられなくなるというところがあるんじゃないかなと。
もちろん、今でも子供時代なら走り回って転んで怪我したり、兄弟や友達と喧嘩して叩き合ってしまったり、といったことでこうしたプリミティブな痛みに遭遇する経験はあるでしょう。(でも、実のところこれも減ってきてるかもしれませんね)
ただ、大人になるとプリミティブな痛みが激減します。肉体労働系のブルーカラージョブでなく、知識労働系のホワイトカラージョブがもはや主流なのが現代社会です。叱責のついでに上司から殴られたり蹴られたりするなんてのも、一部のブラック企業ぐらいで、どんどん少なくなっているでしょう。
すると、ホワイトカラージョブは基本的には身体的危険がない内容ですから、とんと肉体に直接的にダメージを負う経験がなくなることになります。パソコンのキーボードを打っていて、誤って手を切ってしまうとか骨折するとかまずおこりえないですからね。
でも、子育ては違うわけです。急にプリミティブな痛みが襲いかかってきます。殴られたり、噛まれたり、大人になってからというもの全く経験したことのなかった肉体的疼痛に久しぶりに遭遇する(もっと言うと陣痛なんてさらにヤバいでしょうね)。
痛みに限らず、臭いとか音もありますね。愛する我が子の産出と言えど、うんち処理はやっぱり臭いですし、機嫌が悪くてギャン泣きしている我が子をあやしてる時は耳がぶっ壊れそうになります(ご丁寧にもApple Watchはこの大音量環境のままだと聴覚がやられるぞと警告をすぐに出してくれます)。
今ではそこそこ社会人経験を経てから出産育児に挑む人が多いでしょうから、こうしたプリミティブな痛みや不快感が溢れる育児にカルチャーショックを覚える人もいるだろうなあと思うわけです。
もちろん、これは育児をディスろうとしてるわけではなくて、どうしてもこういうプリミティブな痛みの側面があるよねえという確認をしているだけです。
むしろ、プリミティブな痛みと表裏一体を成すものとして、プリミティブな喜びがあるのも育児だと思っています。
子供がスクスクと育っていくのを側で見られるのは生命の力強さをありありと体験できる貴重すぎる機会ですし、子供の肌のぷにぷに感とか、弾けるような笑顔とか、「パパ、だいだいだいだいだいすきっ!」と言って駆け寄ってくる瞬間とか、まあほんと情感の根源を揺さぶってくるかけがえのない喜びですよね。かわいい、最高、たまらん。
つまり、喜びも、痛みも、両側面の密度の濃いプリミティブな体験が育児という活動の特徴です。これは脱プリミティブが進行している現代社会において残されている特異点的な存在と言えます。
そして、特異点的に馴染みがない存在だからこそ、この生々しいプリミティブさに意識的にせよ無意識的にせよ現代人には忌避感が多分あるんです。現に避けられてるからこそ少子化になっているという面があるんじゃないかとも思うわけです。
もっと言うと、子供を作るためのプロセスも、ご存知の通りなかなかにプリミティブなものですから、プリミティブさに慣れてないし、プリミティブさから脱しようとしている現代人にとっては思いのほか育児という活動はスッとは入りづらいものとなってるのでしょう。(恋愛経験割合はどんどん低下しているそうですし)
何かいい提案があるとか、そういうわけではないのですが、ただ、育児の強烈なプリミティブさと、ますますソフィストケート感を希求している現代社会の文化的齟齬は、私たちが認識して向き合うべき、意外な難題なのかもしれないなあとふと思った次第です。
最近、綺麗に整えられた、オシャレなオフィスとか、オシャレなお店とかどんどん増えてますけれど、あんなのエントロピー爆増の育児家庭と対極的なイメージでしょう。現代社会と育児活動のギャップが開いてるのは間違いのないところではないかと思います。
ま、なんにせよ、やっぱ痛いのは思った以上につらいです。
アンパンマンカー、暴走、ダメ、ゼッタイ。
江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。