2018/12/29: SCOOL 『意味がない無意味』 刊行記念イベント 千葉雅也×佐々木敦 (前)

千葉雅也の『意味がない無意味』は、『動きすぎてはいけない』における身体=行為論や切断論をドゥルーズ哲学から千葉哲学に洗練させたものである。その洗練さは、彼の<意味がない無意味>という概念に詰まっている。意味が無限に生産され続ける現代社会を切断するかのように、「意味の雨が降り注ぐ」排水口に蓋をする<意味がない無意味>=「石-秘密」は私たちの身体を有限化し、「身体化」する。

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 今回は、12月29日にSCOOLにて行われた千葉雅也『意味がない無意味』(河出書房新社、2018年)の刊行記念イベントの様子をまとめる。このイベントでは、千葉自身の経験や彼の今までの人生を振り返りながら、彼が考えていたことと今考えていることとの間に重要な連続性が存在することが明らかとなった。この連続性で特に重要だと思われるものが「制作の哲学」、「当事者性」、「ジェンダー・セクシュアリティ」、「法・政治哲学」といったテーマである。

 2018年は千葉にとって「結節点」である。千葉は17年の10月から18年の1月までサバティカルをとってハーバード大学のライシャワー日本研究所に研究員として在籍していた。このアメリカでの研究が彼にとっては「制作の哲学」を考える上で重要な刺激だったという。制作論的には、千葉は「適当に」文章を書くことができるようになったという。ここでの「適当さ」は、脱-神経症的なユルさで、「書きすぎてはいけない」ように、エネルギーを上手く使いながら書くということである。一作ごとにエネルギーを使い果たしながら書くということが難しくなってきたのだ。だからこそ、『意味がない無意味』の出版前は、その本に収められているここ10年間の千葉の論考の書き方—密度の濃い精巧な書き方—から距離を置いて編集することができたという。たとえば、「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」という論考は、ギャル男の歴史、日本のポストモダン論者(東浩紀、宮台真司)へのメタ言及、ラカン派精神分析(特に「普通精神病」などの新しい病理概念)、クィア・セオリーやフェミニズムの視点から想定される批判へのメタ反撃、といったことを「詰め込みすぎ」ていた。しかし、今ではそういうこともあまりなくなっている。だから今回の本は、序論を除いて、今の千葉雅也ではなく、昔の千葉雅也の書き方への姿勢がそのままとなっているという点で千葉の第1期の仕事の総まとめである。
 千葉の本来の関心は美術、広く言えば芸術の批評にある。彼は高校時代から美術批評をはじめ、のちに大学時代以降は哲学の道を歩むが、30代になるとやはり哲学と同時に美術批評にも関心が移るようになる。『意味がない無意味』には森村泰昌論をはじめとする多くの美術批評が収録されている。ここで佐々木が指摘するのは、千葉の美術に対する姿勢が彼の政治や社会批評にも通じているということだ。千葉は、本来耽美主義で括られがちな森村泰昌や金子國義にも耽美的ではないアプローチをとりながら批評している。メイヤスーについての論文の後にギャル男論を配置しているにもかかわらず、特に違和感を感じないということは、芸術・文化批評と政治的・社会的批評との間に強い思想的な一貫性があるのではないか。その一貫性を担保しているのが<意味がない無意味>という概念である。この概念を取り巻くのが「有限性」と「偶然性」というキーワードである。何かに意味を見出そうとするとき、すなわち何かを「解釈」しようとするとき、私たちは意味の無限の多義性に溺れてしまう。意味の候補がありすぎる=無限である=xである(ファルス=対象xを意識)ことによって、ある有限な意味が見出せなくなってしまう。この状態を千葉は<意味がある無意味>=「穴-秘密」と呼ぶ。意味はあるのに、それがありすぎることで、逆に意味がなくなってしまう。これと対比して、<意味がない無意味>=「石-秘密」はこの意味の雨がブラックホール=穴に無限に吸い込まれていく状態に、石という蓋をする。これが意味の増殖を有限化することで、「我々を言葉少なにさせ、絶句へと至らせる無意味」(『意味がない無意味』、p.12)に到達する。しかし、人が何かを解釈しようとするときは、その何かが突如「偶然的に」こうであるように横たわっているときに発生する。もし物事が必然的に起こっているならば、解釈の必要性もないだろうから。さらに千葉は穴と石のダブルシステム、分身関係を考える。穴と石が同時に同じ場所で重なっている、そういう状況が偶然的に起こっている、ということを。
 千葉の高校時代からのテーマである「批評の不可能性」は当事者性という千葉の中で連続性を持ったテーマへとつながる。高校生の千葉は、第三者がアーティストの作品を批評する「権利」がないと主張していたという。要するに、客観的な批評は不可能である、と。当時、千葉は美術作品を積極的につくっていたということがあり、彼自身がアーティストだったので、第三者が自分の作品に対して批判することは自意識過剰だった千葉にとっては不愉快だったのだ。しかし、千葉はアーティストであると同時に、他人の作品を鑑賞していた。だから、彼自身、作品に対して何も言ってはいけない、とは主張できなかった。もしそれを主張したならば、彼のアーティストと鑑賞者という立場の両立は成立しないから。だから、千葉は、アートは料理のようであると例える。料理はただ味わうことしかできないと同様に、アートもただ鑑賞することしかできない。この食べ手=鑑賞者の絶対的な受動性は「料理性」であり、それが「批評の不可能性」でもあるのだ。しかし、この時の千葉はアーティストが自分の作品を完全に理解していると思い込んでいたのだ。実際、アーティスト自身が作品を理解していない場合は多い。当事者性に対する距離の取りかたの問題として、批評の権利、一般化すれば、他者を代弁する権利は存在するのか。だが、18年12月号『新潮』での論文「平成最後のクィア・セオリー」では当事者しか理解できないこと、語れないことが存在するという「素朴な」事実を確認している。まず、「権利」という言葉で表現するべきなのか。佐々木は批評家として、他者は他者でしかないことを引き受けて書かざるをえないことがあるという。他者が他者のことを語ることは可能であるが、そこには限度があるべきだ。もし限度が設けられていなければ、その他者も当事者になってしまう。ということは、やはり当事者性を持つ中間集団(例えばゲイのコミュニティ)は存在し、当事者と非当事者との間には境界がある。「当事者と他者との緊張関係」(千葉)を千葉は常に考えていた/いるのだ。
 批評の際、千葉の方法論として(1) 「逆張り」と(2) 些細な点を深くまで突き詰めて考えることを意識しているという。(1) は否定の否定、逆の逆の立場をとることである。それは常に一般的な批評の仕方から距離をおくことである。千葉の「不気味でないもの」(フロイトの「不気味なもの」の否定)や「(非意味的切断からの)再接続」という概念や彼の「アンチ・リベラル」な立場(アンチ・リベラル=ウヨクではない)はこの方法を象徴している。(2) はみんなが注目していない重要なテクストの一部分を見つけ、その部分をとことん突き詰めて批評する方法である。森村泰昌論に登場する「パラマウンド paramound」=「非ファルス的もっこり」は、森村の特徴的な大きい鼻に注目したことによって生まれた概念である。これらの方法論はユーモア=マゾヒズム的な法の転覆に対応する。まず、この反対であるアイロニー=サディズム的な法の転覆とは、ある法がより高次の法によって正当化できないという無限遡行の不可能性を指摘することである。一方、今注目しているユーモア=マゾヒズム的な法の転覆とは、ある事例がある法に適用されるかという問いに対して、適用されるかされないかが不明確な事例を提示することでその法を不安定にすることである。この方法論は千葉の論文、そして千葉の実存そのものを表現している。千葉は、法に適用されるかされないかの曖昧なケースを体現してきたという。法をドラスティックに転覆させる異常さ。さて、先述した二つの方法論はこのユーモア的な法の転覆を実践している。(1) の否定の否定は法に当てはまることの逆張りを行うことで、法に当てはまらなそうな曖昧なケースをつくりだす。また、(2) の些細な突き詰めは一般的な法に適用するケースをわざと避け、法の適用されなそうな事例—どんな些細な事例でもいい—をとことん突き詰める。

後編へと続く。

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