「地球外惑星への移住=地球の放棄」:持続可能な開発は実現されうるか?

はじめに―宇宙への「憧れ」
 我々地球人は、宇宙に惹きつけられ、宇宙への様々なアプローチ(月面着陸や惑星探査など)を試みてきた。しかし、真空状態の宇宙は、空気を生存に必要とする地球人にとっては魔物であり、(人類が空気を生存の必要条件としないように進化しない限り)これからもそうあり続けるだろう。先日、スティーヴン・ホーキング博士が亡くなったが、彼の専門は理論物理学だった。理論物理学も、宇宙に挑む様々なアプローチの一つだ。物理をはじめとする自然科学というと、実験を行い、データを収集し、自然現象の一般性を理解しようとする学問だが、理論物理学の場合は実験は行われない。実験の代わりに、観測結果から理論(モデル)を作成し、自然現象の予測を試みる。実験という方法論を越えてまで、宇宙の真理を探究したいという欲望が理論物理学者のなかにあるのだろう。
 宇宙に対する人々の関心は様々な行動へと変容したが、現在もっとも騒がれているのは地球外惑星への移住ではないのだろうか。イーロン・マスク Elon Musk が設立したSpace X が注目され、「宇宙エレベーター」や惑星都市の開発は近々実現するといっても過言ではない。民間はもとより、アメリカやロシアといった「宇宙大国」は宇宙への拡大競争を今でも続けている。国連が1958年に設置した国連宇宙局 (UNOOSA)は 、国際社会全体が宇宙開発を重要であると位置づけていることを象徴している。しかし、なぜ宇宙がこれまで我々にとって重要なものであるのか。我々の宇宙への憧れは憧れで終わらないのか。これらの動きは「地球の放棄」を意味するのではないか。本稿は、宇宙への憧れは単なる憧れではなく人間の「性(さが)」であることを示し、近年盛んに叫ばれている「持続可能な開発」が人間にとって実現することが難しい理由を解き明かす。

持続可能な開発と宇宙開発との矛盾
 地球に目を向けると、国際社会では「持続可能な開発 sustainable development」が叫ばれている。国連では、2030年までにSustainable development goals (SDGs) を達成することを目標にした。SDGsは17項目の目標に分かれ、極貧の解消や教育水準の向上、環境保全などが掲げられている。どの目標も未来世代の利益を損なわない範囲内で、開発を進めるという点で直接的あるいは間接的に、持続可能な開発と関係している(注1)。このように、持続可能な開発という理念は、国連などの機関においては未来世代に迷惑をかけないで、もしくは利益を創出しながら開発を行おうと広義に捉えられている。しかしここでは、持続可能な開発を、現在地球に存在する資源を大切に使い、未来世代にそれをなるべく残しながら開発を行おう、という資源の保全に注目した狭義の定義を採りたい。
 それにしても、なぜ多くの人々が地球外惑星での開発や地球外惑星への移住を検討しているのだろうか。宇宙という異郷への憧れという精神的な理由以外に、地球の資源の枯渇を危惧するプラグマティックな理由が存在していることは確かだ(注2)。Thomas Heath によると、中東の石油産出国で知られるサウジアラビアやアラブ首長国連邦(UAE)は石油などの化石燃料に代わる資源を宇宙に求めているという(注3)。Navitas Resourcesのエネルギーコンサルタント、Tom JamesはHeathの記事の中で、石油産出国による宇宙の資源開発は「長期的な解決策だ。石油や天然ガスは永遠には産出されないかもしれない。だから、彼ら(石油産出国)は投資をし、新時代の、未来経済の一員となることを検討している。」と発言している(注4)。
   上記のような試みは、言い換えれば、宇宙の資源を地球の不足分に補完することは、しかし、あまり現実的ではない。なぜなら、資源を宇宙から地球に輸送するには(現時点では)ロケットの発射が必要で、一回でも莫大な費用が掛かるからだ。したがって、宇宙の資源を利用して地球の資源枯渇を解決することは困難だ。ということは、宇宙の資源を活用するには宇宙に人間が生存可能な圏域を作る必要がある。それが宇宙都市の開発である。要するに、地球の資源が枯渇した時に、宇宙に存在する資源に依存しようという動きは「地球の放棄」を意味するのだ。地球を放棄した時点で、「持続可能な開発」はその意味を失ってしまう。なぜなら、地球の外部に資源の存在を考えている時点で、資源を大切に利用し、それを未来世代に取っておこう、という理念が無いということであるからだ。

非-定住=遊動生活という人間の「性」
 地球を捨てて宇宙に移住するということは、人間が地球という定住場所にある資源を(それを有限だとわかっていながらも)持続可能に利用することを諦めることと同じだ。そしてそれは、一万年前から始まった人間の定住生活の終焉を意味する。巨視的に歴史を見れば、人間の定住生活は一万年という短い期間でしかない。二足歩行する初期の人間の誕生は約400万年前のことだ。我々は人間の定住生活という400分の1の物語から物事を考えているのでしかない。人間は一万年前から定住を始めたといったが、その前の人間は遊牧民のように住居を指定せず、遊動生活を送っていたという。國分功一郎は著書『暇と退屈の倫理学』の中で、人類学者・西田正規の「定住革命」という概念を用いて、なぜ人間がゴミの処理やトイレをすることが苦手なのか、を説明しようとする。國分は、人間は定住に慣れていないので、ゴミの処理や指定の場所でのトイレがうまく出来ないという推論を提示している。「定住生活を始めた人類は新たな習慣の獲得を強いられた。定期的に清掃活動を行い、ゴミはゴミ箱に捨てるという習慣を創造せねばならなかった。」(注5)。移住を定期的に行えば、ゴミや糞尿は住んでいた場所に放置するだけで、十年後に戻ってきたときにはすでにそれらは分解され無くなっているだろう。
 この議論にそえば、遊動生活に慣れている人間は資源を残すことも不得意なのではないか。遊動生活をしていた時の人間の資源といえば、住居を作るために利用する樹木や食用の動植物などを想像する。たとえそれらを使い果たしたとしても、数十年後に、元の場所に戻ってきたときにはそれらは「復活」しているだろう。樹木や植物は生い茂り、動物は生態系の正常化により戻ってくると考えられる。だが、定住生活をしている人間は自然に起こる資源の復活を待つことは出来ないので、資源を少しずつ利用するほかない。もちろん今では農業技術が進歩し、植樹や家畜、養殖産業による人為的な資源の復活は可能だが、現在の人間の資源は動植物だけにとどまらない。発電に必要な化石燃料は生成されるのにおよそ40億年かかり、核燃料は現在の技術では復活できない(注6)。しかし、國分によれば、「人類の肉体的・心理的・社会的能力や行動様式は、むしろ遊動生活にこそ適している」(注7)ので、人間は資源を残すということを考えられないのかもしれない。これは先述した「地球の放棄」が実証していることだ。結局、資源を未来世代に出来る限り残すことを考える持続可能な開発は、定住を習慣づけないといけなかった人間にとっては向いていないのではないか。

「未来への責任」
 ハンナ・ヨナスは「未来への責任」、現代でいう持続可能な開発を考えたドイツの哲学者だ。日本ではその名はあまり知られていないが、今年出版された戸谷洋志(とや・ひろし)の『ハンナ・ヨナスを読む』によって、知名度は上昇した。ヨナスは、責任は傷ついた生命の「呼び声」への「応答」(=応答責任)であるという(注8)。しかし、未来への責任においては責任の対象(「呼び声」を発する生命)がまだ生まれていないので、未来への責任は存在論的命令である「責任の可能性への責任」としても位置づけられている。責任の可能性への責任は、「すべてに先行する責任」で、責任の主体(「応答」するもの)である人間がいないと「責任」という現象自体が成立しないため、責任能力を持つ(責任の主体となれる)人間の存続は現在の人間の責任であり義務である。
  ヨナスの責任についてのこの哲学は、戸谷が指摘する通り、形而上学的に演繹された議論であるため、形而上学的前提に異論が出れば、それに対して正当な説明が出来ない。このような理論的限界は存在するものの、責任を客観的・普遍的な原理として定義した彼の哲学には大きな意義がある。ヨナスは人間を「それ自体としての善」として考え、人間しか責任の主体になりえないという点が他の生命と異なるということを強く主張する。その上で、責任の可能性への責任を打ち立て、人間の存続が責任であるという理論を提示する。では、ヨナスのいう我々の責任である人類の存続はどのようになされうるのだろうか。資源という人間の存続にとって必要不可欠なものを中心に考えたい。
   ヨナスは、(1)核戦争などの物理的な破局によって人類の事実(人類が存続しているという存在論的事実)が危機を迎え、 (2)人類の実存の貧弱化によって人類の質(責任能力を持っているという質)が危機を迎える、と言っている(注9)。 ここでは、(1)の事実への危機に注目したい。資源が枯渇すれば、人類の事実に危機が迫ることは自明だ。危機は避けたいと、宇宙から来た資源を調達しようとするが、調達は非現実的なので、宇宙に都市を開発し、そこに住む。しかし。その時点で未来への責任は消滅するのだ。未来への責任に対する危機をなくそうと考えた結果、未来への責任は破壊させるというパラドックスが成立してしまう。
 
さいごに―Space Colonization 宇宙の植民地化
 地球の問題は、地球の中で解決するしかない。しかし、人間は外の世界に手を伸ばし、より簡単な解決法を探す。それは、ある国を植民地化することで資源を奪おうとする植民地主義国家のようだ。地球人の帝国主義的・植民地主義的思想は宇宙にまで拡がる。惑星を植民地化し、そこにいる「宇宙人」を支配しようとする。「宇宙人」の力が人間のそれと比べて強いのか弱いのか分からない前から、試合を挑む精神は理解不能だ。まるで、アフリカ・アジア・オセアニアなどの人々をトライバルな「未開人」と揶揄し、自分より劣っていると見なす西欧人のオリエンタリズム。まるで、日本が「アジア諸国」の一員でないかのようにみる日本人の優越「観」。未来世代はこれを望んでいるのだろうか。私は宇宙人の存在を信じる。宇宙人によって人類の存続に危機が迫れば、未来への責任は宇宙でも果たせないことになる。戸谷は、「現在世代と未来世代の間にはいかなる相互的な関係も存在しません。(略)しかし、ヨナスの未来倫理に従う限り、現代世代は未来世代に責任を負うのだから、現代世代には未来世代と『関わり』を持つ責任があるのであり、その『関わり』を作り上げることこそ、想像力の機能」(注10)なのである、と指摘する。我々に「想像力」があれば、適切な判断を下せるだろう。そして、我々が体験している多様な経験や感情を、未来世代に提供できるだろう。


注1: 詳細は国連SDGsのホームページhttp://www.undp.org/content/undp/en/home/sustainable-development-goals.html、アクセス日: 2018/6/16
注2: 確かに、宇宙開発によって金銭を稼ぐという理由もあるだろうが、金銭を稼ぐには需要がないといけない。この場合の需要は資源の枯渇・不足だ。結局、金銭を稼ぐという理由は資源の枯渇に収斂する。
注3: “Space-mining may be only a decade away. Really.” 、Thomas Heath、The Washington Post、2017/4/28
、https://www.washingtonpost.com/business/space-mining-may-be-only-a-decade-away-really/2017/04/28/df33b31a-29ee-11e7-a616-d7c8a68c1a66_story.html?noredirect=on&utm_term=.9b429f0cefc3、アクセス日: 2018/6/17
注4: 原文は、 “It’s the long-term solution. Oil and gas may not run forever. So they are looking to invest and be part of the new, future economy.” (引用者訳)。
注5: 國分功一郎、『暇と退屈の倫理学 増補新版』、太田出版、2015年、初版第六刷、p.86
注6: 生成される核燃料が消費される核燃料よりも多くなると―理論上―される高速増殖炉「もんじゅ」は完成することなく、一昨年廃炉が決定された。一兆円を超す「もんじゅ」への投資=血税の無駄遣いは水の泡となった。一兆円も掛かった核燃料を増やす試みは、永久機関を作るようなものだったことが証明されたといっても過言ではない。
注7: 『暇と退屈の倫理学 増補新版』 p.79
注8: 國分功一郎は、『現代思想』(青土社)2017年11月号「特集=エスノグラフィ」の社会学者・岸政彦との討議「それぞれの「小石」――中動態としてのエスノグラフィ 」で、責任を、行為に対するものと出来事に対するものの二つに区別する。ヨナスのいう「責任」は後者のに当てはまり、國分はそれを「応答責任」、「義の心」、「引き受け」などと表現する。國分は自身の感覚として前者の方が「責任」という言葉に近いという。
注9: ここではあまり詳説しないが、(2)において、人類の実存の貧弱化とは、技術による積極的な傀儡化のことを指す。具体的には、例えば、ロボットや人工知能などの技術による労働の自動化は、かえって非人間的な(技術によって人間が操られるような)社会を生み出す原因になる。
注10: 戸谷洋志、『ハンナ・ヨナスを読む』、堀之内出版、2018年、p.173

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