「距離感」や「遠さ」のこと

過去より、



 癖癖するほど見たはずの空が今日はなんだか幻想めいて見えた。
 かき氷にシロップをかけるみたいにじんわりと夕日の色に染まる雲をタクシーの車内から呆然と見つめる。特にそれについて何を考えているわけでもないし、それに対して何かを感じたわけでもなかった。それでも妙に腑に落ちたというか、すとんと何かが胸の中に落ちてくる感覚、そんなものだけが心の中で静かに灯っていた。
 普段はタクシーなんて乗らないのにな、吐き捨てるように心の中で呟く。夏場なのに真っ黒なスーツを着込みながら、タクシードライバーの背中を視界の端に捉えながら、自分の中で完結する無意味な毒を吐いてみる。無意味と分かっていながら吐かずにはいられない、人間なんてそんなものだと諦めている。

「適当に街を走ってもらえますか」
 そう言って一万円札をドライバーに手渡した。初老のドライバーは困惑したような表情でこちらを見たが、すぐに営業的な無表情を取り戻し、何も言わず頷いた。

 タクシーの車内には独特なにおいが漂っている、ただ何故かその空気に嫌悪感は抱かない。特徴的な臭いがする場所にしては珍しい。例えば病院の空気みたいな、例えば汗臭くて古びた更衣室みたいな、例えば冷房がキンキンに効いて白い布を顔に被せられた知り合いが横たわって入り口には警官が神妙な顔つきで立っていて白衣の人間が頭を下げていて後ろから誰かのすすり泣きが聞こえてきて、

「…親父が死にましてね」無意識に口を開いている。
「どうしようもない親父で、浮気なんてあの顔でできやしませんでしたがね、でも、母と別れてからは辞めていた煙草を吸って、どこかのアイドル追っかけてましたよ、養育費も払わず、光熱費も払えず、最期はアパート追い出されてどっかの道端で栄養失調ですよ。本当に、
救えない親父でね」カバンの中に入っている遺品の煙草、二本だけまだ残っていた、雨に濡れてしなびた煙草、その位置を確認するみたいに手をごそごそと動かしていた。無意識に。
 しばらく無言の時間が続いた。それ以上に言うべきことは無いように思えた。
 ウインカーの音が籠った音で聴こえてくる。籠っているのはこちらだというのに。まるで主観的な自分の感覚がとても気持ち悪く感じられた。

 信号機の前で停止したとき、ドライバーがかすれた声で呟いた。
「この通りを挟んだところに電気が点っているところあるでしょう」
 確かにこの時間だというのに明かりがともっている店は珍しい。今は深夜三時を回った辺りだろうに。
「あそこはアトリエでね、影絵を描いている方がおひとりでいらっしゃるんですが、少し立ち寄ってみるのも面白いかもしれませんよ」
 確かに、バックの中に長財布を戻す。
特に何を期待するわけでもなく、しかしタクシーをここで降りることにした。



 古びた木製の引き戸を引きずるように開ける。
 キャンバスが散乱し木製の椅子があちらこちらに散らばる、書きかけの絵や様々な大きさの画用紙も床に散らばっている。アトリエらしいと思いながらもその違和感は耐えきれないほどであった。すべてが黒に染まっているのだから。
「いらっしゃい」その中心で黒いものがもぞもぞと動く、よく見るとそれは人間だった。
「影絵に興味があるのかい」ここの主人と思しき黒色、顔は一応肌色なのだが、画一された黒の空間においてその肌色という色彩は酔うほどに異質なものに映った。それは物事の本質ではないといった風に、顔などただの色彩という記号でしかないのだといった風に、
「あまりよく知りませんから」事実だった。特に今まで興味があったわけではない。今興味が湧いたばかりなのである。不自然にたどたどしい形をした自分の声に耳鳴りに似た不快感を覚えながら、
「まぁ、見ての通りさね」主人は目線をきょろきょろとする。
しばらく考えるように首を傾げたのち、手元にあった黒色を数枚取り出しおもむろに電気を消した。
電気が消えたにもかかわらず部屋の中は明るいように思えた。あ、すぐに気づく。この部屋が明るかったのは奥に配置されたスポットライトのようなもので照らされていたからなのか、振り向くとそこには自分の影の他に見覚えのある影が並んでいた。

🐇 🐓 人間 🐕 🐈 

こうしてみると人間の影はとても歪に見える。
片隅に缶ジュースくらいの影も映っているが、これは違うのだろう。
「何が見える?」主人は試すような口調で言う。
「兎、鳥、人間、犬、猫、ですか」
「他は?」「他?」「もう一個あるだろう」
「…ああ…でもこの缶ジュースみたいなのは違いますよね」
「どうして違うと思った」「いえ、なんとなく、芸術らしくはないなと」
「なるほどな、あんたは勘違いしてるわけだ」主人はそう言いながら缶ジュースの影に手を触れ、持ち上げた。音からしてやはり缶ジュースなのだろう。
「これは何の缶に見える?」また得意げな声、低い声を上ずらせた、不快な声、
「…ジュース、ですか」「広いな、もっと絞れないか?」「…じゃあ、コーヒーですか」
「残念、これはコーラの缶だ」さらに上ずった声、
 思わず立ち上がりそうになったところを元の低い声が止める。
「これが芸術だと思わないか?」主人は大まじめな顔をして言う。といっても顔なんて鮮やかすぎてよく見えないのだが、
「所詮、人は主観で物を見る。その主観にどれだけ入り込んでいけるか」
大きく息を吸い込んだ音、
「どれだけそれで人を揺らせるか」
 肌色が眩しく歪んだ気がした。

 また来るといい、店主はスポットライトを消して言った。
 真っ黒な部屋の中、街灯のひかりが蜘蛛の糸みたいに一筋、キラリ、
 肌色に一礼して去ろうとした。
「そういえば知っているかい」背中から声がした。肌色の息づかいを感じる。
 信号機が点滅を辞めて消灯する。
「最近の落書きはみんな黒いらしいぜ」背中のすぐ傍で肌色が、笑った。



 その晩、こんな夢を見た。
 ビルの屋上、立っているのは柵のこちら側、
 隣にいるのは誰か知っている人、誰だったか思い出せないな。
 下を見る。高いな、そんな気持ちと一緒に好奇心が湧き上がる。ここから落ちたらどうなるだろう、何秒間気持ちいいと思ったままいられるんだろう、その何秒間を何時間に感じることができるんだろう、
「駄目だよ」
 隣の彼女が手を取り、自分を止める。
 その必死な表情は鼓動を早くした。冷汗が肩から背中を伝う、
「大丈夫」
 自分が出したのか分からないほどその声は細く、拙いものだった。
 その声が彼女の表情をゆがめた時、空に彼女の日常が映し出された。
 職場で飛び交う罵詈雑言、無能な上司、必死に頭を下げる先輩、その先輩に罵られ土下座する彼女、先輩の顔がどんどん怪物みたいに肥大して、牙が生えて、息が臭くて、
 彼女はそんな怪物を前にひたすら跪く、怪物は止まらない、息が臭い、
 同僚がひそひそと話をする、彼女を見ている、彼女の話をしている、ネイルが赤い、
 彼女は耳を塞ぐ、視界から同僚を消そうとする、それでも笑い声がする、ネイルが赤い、

「私は、違うよ」
 彼女は笑顔でそう言った。
 僕はツイッターを開いている、
 ビルの下でもみんながツイッターを開いている、カメラを準備している、
 後ろの扉が開いて何か大声が聞こえた。
 彼女の姿が消えた。
 ツイッターのトレンドが変化する、
 僕はそのトレンドをクリックする、
一番上に表示された動画の再生ボタンを押した。

「ライブのチケット、抽選に落ちたらしいよ」
僕は思わず空を見上げた。
見上げたそこに、空は無かった。


 次の朝、
 起きたら屋根が壊れていた。
 近くの電柱が倒れてしまったらしい、電柱は二階部分を大きく損傷し、僕のベッドのすぐそばにあった机に武骨なボルトが刺さっていた。
 割れた屋根の間から顔を出してみる。他の家もそうなってしまっているところが多い。
 異常なほどの静けさ、
 いや違う、これは嘘だ。
 風がごうごうと鳴り響く、近くの木々が大きくしなる、遠くで誰かの叫び声が聞こえる、誰か、誰か、少し向こうではゴルフ場のネットが倒れていた。下敷きになった人が数人いた。救急車の音が四方八方から聴こえてくる、消防車の音、パトカーの音、近くで煙が上がった、
スマホは圏外だった、テレビなんて勿論つくわけがない、阿鼻叫喚のなか情報は何一つとしてなかった。
 僕は何故か冷静だった。
 また、これも嘘だ。
 家族は無事か、僕は急いで隣町の親が住む実家に向かう、途中人とぶつかった、途中人から助けを求められた、途中穴の開いた地面を見つけた、途中崩れた家を見かけた、途中救急車とすれ違った、途中の道で自販機のボタンを何回も押す人を見かけた、途中割れたガラスを踏んだ、途中、途中、途中、途中、途中、途中、
あああああああああああああああ、

 家族は無事だった。よかった。本当に良かった。
 避難所でラジオを聴いた。チャンネルを合わせて番組を探した。
 耳に入ってきたのはこんな言葉だった。
「最新型のテレビはいかがですか!今なら下ど」



 満員電車に乗った。
 赤ちゃんを抱っこした人が入ってきた。
 僕の前で座っていた人が立ち上がって席を譲ろうと立ち上がる。
 僕の隣で立っていたスーツがその席に座った。
 座っていた人は軽くスーツを睨む、スーツはスポーツ新聞を広げる、
 次の駅で誰かが乗ってきた。ラッシュ時に混むのは次の駅までだ。
 その誰かは赤ちゃんを抱っこした人を睨んだ。
 満員電車の中、誰かがその人の背中を押した。
 その人は倒れそうになって他の誰かを押した。
 他の誰かはその人を睨んだ。
 次の駅でその人は下りた。
 スーツはスマホでラインを送っていた。
 他の乗客もスマホを開いて退屈そうな顔をしていた。
 一人、スマホを開きながら誰かを睨んでいる人がいた。ツイートした。
 誰かはスマホを開いて平然としていた。
 他の誰かはツイートにいいねを押した。
 その他大勢も同じツイートにいいねを押した。



 気が付くとまたあのアトリエに向かっている。タクシーに乗っている。
「ああ、あそこですか」この前とは違うドライバーなのに、名前もないあのアトリエのことを知っていた。そんなことどうでもよかった。今回のドライバーは無駄話をするタイプだった。あはは。そうですね、あはは。そう言って適当に話を流した。便所に流せるくらいの話だった。
 アトリエが見えたところでタクシーを降りた。五千円を置いてドアを閉めた。

「また来ると思ってたよ」主人は相変わらず肌色のまま、耳元で呟いた。
「悪い夢を見たんだろう?」

 黒い部屋で出されるコーヒーはとても安心する色をしているように見えた。
 周りの色と調和した色、周りの色と同じ色、主人の肌色とはまるで違う安心感だった。
「安心するかい」主人は肌色を歪める。
「その安心ってやつが怖いのさ」主人は意味深なことを言う。背筋がゾクッとする。
 僕はコーヒーを飲んで安心する。
 少しその味に違和感を覚える。こんな味だったか?コーヒーは?
 でもその色は、その温度はとても、とても安心するものだった。抗えない安心感を初めて経験した気がした。気が付くとコーヒーカップは空になっていた。
「俺が好きな言葉があるんだけどよ」主人は黒い本棚から黒い本を取り出した。
「群衆という名の、頭を失った怪物、ってね」
「誰の言葉ですか?」妙にその言葉に引き寄せられる自分がいた。
 電灯が消え、スポットライトで照らし出されたのは帽子をかぶった誰かの影絵、
「かの喜劇王、チャップリンさ」主人は低い声で言う。

 そのアトリエを後にしてしばらく歩くと、通ったことのない地下道の入り口が見えた。
 青い電灯がともっていた。僕はその中に入ってゆく。
 壁一面には落書きがあった。少し先に落書きを今まさに書いている青年がいた。
 スプレーの色は黒色だった。



 親父の遺品を整理する。
 実家にあった写真を整理しているうち、一枚の写真が目に留まった。
 笑顔の自分、その隣に笑顔の親父がいた。
 幸せそうな家族の写真だった。



 国内トップの国立大学に合格した。
 家族総出でお祝いしてくれて、とっても嬉しかった。
 ようやく、自分の人生が始まるんだ、そう思った。
 バイトで家庭教師を始めた。
 男女関係なく、様々な家庭で勉強を教えた。評判は上々だった。
 そのうちの一軒で運命の出会いをした。
 その頃、友人にギャンブルに誘われた。
 一回だけ行ってみた。ビギナーズラックは思いの外楽しかった。
 でももう行かない方がいいと、その場を後にした。

 借金を作った。母親に土下座して金を借りた。
 更生すると誓った。
あの時出逢った生徒と結婚した。
塾講師として働くことが決まった。
 子供が生まれた。

 塾講師をクビになった。
 妻に愛想をつかされ、別れることにした。
 息子は泣いていたらしいけれど、
 そんな息子に見られないうちに家を出た。
 養育権は妻に委ねた。

 面接で学歴を評価され受かった仕事はいじめで続かなくなった。
 他の仕事に就いた。力仕事だった。
 髪が白髪まみれになった。
髭剃りの刃が折れたけど新しいものは買えなかった。
仕事でミスをした。
給料を減らされた。光熱費が払えなくなった。
アイドルに縋るようになった。

 お腹がすいた。
 あれ、今何時だっけ、
 時計を最後に見たのなんていつだろう、
 ああ、最後に、家族の顔を見てみたいな、
 でも、もう歩く元気もない、
 気力もない、
 昨日高校生に殴られたからかな、
 ああ、もう無理かもな、
 つまらない人生、だったな、
 ああ、でも、
 あの時、家族の、思い出は、
 かけがえのないもの、だったな、
 よいしょ、ちょっと寝転んで、休憩しよう、
 あれ、雨だ、雨宿り、できる場所へ、行かないと、
 足が、動かないね、
 もう、いいか、どうせ、通り雨だ、
 ああ、久しぶりに、全身が、濡れて、気持ち、いいな、
 今日、は、ゆっくり、眠れ、そう、だ、な、



 テレビ会社の前に人だかりができていた。
 中心にはカメラを持った人物、何かを叫んでいる。
 様々な応援のコールが聞こえる、
 中心にいる人物は肥えた体で誰かを脅迫している、
 それに対してもラブコールが飛ぶ、応援の声が飛ぶ、
 またツイッターを開いていう人だかり、動画を取っている人だかり、
 視界の端にタピオカミルクティーが映った。
 中心にいる人物は何度も何度も自分の正当性を唱える、
 自分が正義だ、法律はこう解釈されるべきだ、法の下で自分が正しい、
 そうです!そうだ!!そうだ!!ありがとう!!もっと言ってやれ!!
 あいつは敵だ、あいつは悪だ、あいつは消えるべきだ、
 本当ですね!!そうですとも!!そうですとも!!!!!
 悪を作って、敵を作って、それを攻撃して、
 もっと!!もっと悪を!!悪を排除してくれ!!!!!!
 自分を正当化して、自分を美化して、自分こそ正義で、
 そうですとも!!!あなたさまこそが!!!!!!!!!!!!



 タクシーの中で目が覚めた。
「お客さん、うなされてましたよ」ドライバーが心配そうに言う。
 ああ、そうか、夢か、
 妙にリアルなその感触、感情、経験、怒り、悲しみ、
それらはどうしても夢とは思えなかった。
「ああ、そうそう」信号で止まった時、ドライバーが向かいの通りを指さした。
「あそこにあった、あのアトリエ、どうやら無くなったらしいですよ」
 初老のドライバーは一万円を手に、静かにそう言った。

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