Sleepless

『Sleepless』
 
 一目で夢と分かる光景だった。
 山に囲まれた小さな田舎町、なんだろうか、
それすらも分からなくなるほどに私を取り囲む景色はひどく曖昧で、朧げで、儚げで、
そう、それはまるで和紙に描いた絵を水の中に落としたような脆さで、
いや、モネの油絵のような覚束なさで、不透明さで、
 度の強い眼鏡をかけている人が眼鏡を外すとこういう感じなんだろうか。
漠然と思考を巡らせるが、夢の中の理性に限界があるようだった。これ以上考えるな、そう誰かに言われている気がして。
 誰か?誰かとは誰だろう。私の夢の中なのに。
 まるで私に関係ない意志がもう一つ他に存在しているみたいな、
 奇妙な感覚がこびりついて、張り付いて、離れない。
 
 兎にも角にも、まずは夢の状況を観察してみることにした。
 青々とした稲穂が揺れる田畑が広がる中、
 十字に伸びる通行路にこのバス停はある。
 気が付くと私はここに座っていた。
 トタンの屋根が日陰を作ってくれている。
 日陰にいても肌に感じる熱気から、季節は夏なんだろうと思う。けれど見た目ほどは暑くない。視覚だけでなく温度感覚も曖昧なんだろうか。
けれど不思議とその違和感がとても自然なことに思われた。どうしてだろう?
 見渡す限りに家はないようだった。しかしよく見てみると田畑の端に農具のような染みのようなものが見えるから、どうやら人がいないという訳ではないらしい。
 周りの状況がある程度飲み込めたところで、改めてリュックサックの中身を見てみる。
 リュックの中身はいたってシンプルなもので、小さめの水筒、ハンカチ、エチケット袋にカメラ、ペンケースに小さなメモ帳、そして数千円の入った財布、その程度だった。数千円でどうやってこんなところまで来たのかと思ったが、夢の中なのだからと強引に納得した。

 頭が鈍く痛む。そのせいでどうにも正常な判断はできないけれど、
 夢にしては私もこの世界も真実味がありすぎる。
 夢ではないのかもしれないとバス停の日陰から出てみるが、距離が縮まっても景色は覚束ないまま、曖昧なまま、平面的な世界が広がっていて、
 思わず眩暈がしてバス停に戻る。
 夢は夢、なんだろうか。
 しかし視界や感覚の曖昧さ以外は本当に現実世界にいるような周到さ、リアルさで、
どうにも夢と思えない。矛盾。
 私はどこに来てしまったのだろう?

「こんにちは、」
 風の音かと錯覚するような、声が聴こえた。


【・1】
「では次のニュースです。
 〇国で先月確認された新型の感染症が国内で爆発的に広がっています。
 重症者は先月の五倍に、軽症者や無症状の人々も含めると十倍にもなると 
 いう事です。
 本日は感染症研究センターの真久部さんにお越しいただいております。
 真久部さん、この感染症は一体なぜこんなにも拡大したのでしょうか。」
「まず、皆さんにお伝えしたいことは、
 この感染症は従来の物とは違っている、という事です。
 近い将来、医療現場がひっ迫するという可能性が多く考えられます。
 くれぐれも、感染対策を徹底するように、この場を借りて皆さんにお願い
 いたします。
 それでですね、この感染症というのは…」


 声のした方を見ると白いワンピースを身に纏った若い女性が目に入った。
 見覚えはない。なのにその声はどこか懐かしい感じがした。
「もしかして、何かお困りですか?」彼女は心配そうな笑みを浮かべる。
「あ…いえ、まあ。」戸惑ってしまって呂律が上手く回らなかった。何をしてるんだ、私は、
「もしよければ、お話、お聞きしますよ。」大学生くらいだろうか。彼女の方がよほどしっかりしているように見えた。
「ま、ここはひとつ…」悪代官のような謳い文句で私はバス停に彼女を誘う。

「…そうだったんですか。気が付いたら、この場所に、」
 私はひとしきり自分の置かれた状況を説明してみた。上手く説明で来たかは分からないが、今自分が持っているもの、置かれている状況、この世界の見え方、できるだけ詳しくは話したつもりだ。
「どうしたものでしょうね…」彼女は考え込んでしまう。
 私はそんな彼女の表情に、どこかデジャヴにも似た感情の揺れを覚えていた。
 どこかで会ったことがあるんだろうか。
 どこかですれ違ったとか、そういう出会いではなく、もっと大切な、どこかで、
 私の視線に気が付いたのか、彼女は頬を赤らめてしまった。
「あっすみません。どうにもどこかで会ったような気がして…」私の顔もつられて赤くなる。
 彼女は澄んだ目で私を見ながら言う。
「いえ、初めまして、ですよ」
 それは妙に確信的な台詞だった。どうしてそう断言できるのだろう?
 しかし、そう言い放った彼女の視線や表情には迷いが無かった。
 気まずい沈黙が訪れる。

「そうだ!」彼女は弾けたような笑顔を私に向ける。
 溌溂さが急すぎて思わず飛び上がってしまったじゃないか。
「一緒に、この世界を旅してみませんか?」彼女は私に手を伸ばす。
 旅?この世界を?彼女のしなやかな手を見つめながら私は考える。しかし、このバス停の外には何があるのかまるで分らないのに…。
 しかし、彼女が私同様悩み込んでしまったように、この状況ではこれ以上どうしようもないこともまた確かなのだった。
「そうですね。できることも無さそうですし」私は彼女の手を取る。温かい。
 どうせなら楽しむか、それが私と彼女の、私たちの結論だった。
 ぼおう、遠くで汽笛のような音が聴こえた。
「電車かもしれません、行ってみましょう!」彼女は私の手を引いて走り出す。
 彼女に振り回されている感は否めないが、初対面なのになぜか嫌ではないのだった。
 ごとんごとん、音が近づいてくる。


【・2】
 消防本部の中はまさに喧騒と呼ぶに相応しいものだった。
 荒れ放題のデスクに置かれた受話器には、毎分毎秒救急の電話がかかってくる。
 熱が出たのですがどうしたらいいですか。呼吸が苦しいらしくて、急いできてくれませんか。ちゃんと対策がされている病院にお願いします。糖尿尿で。怪我をして。咳き込んで。
 明らかにこちらに掛けるべきでない電話もかかってくるが、掛けてくる人々は本当に切羽詰まっていて、心配で、どうしようもない、それしか方法が無いのだ。
 それらに一軒一軒対応するには明らかに人数が不足しているように思えた。電話を受けられるのは自分、柏原以外にたったの五人しかいない。こんな人数でどうしろと言うのか。
 柏原が一軒の対応を終えてすぐ、また電話がかかってきた。
 コーヒーを一口飲んで電話に出る。
 相手は救急隊員だった。先程ここの誰かが案内した病院が受け入れ不可だったという。
 手元にある病院のリストを照会し、別の病院を紹介する。電話はすぐに切れた。
 またこの電話か、柏原はため息をついた。どの病院も受け入れるのが困難なほど既に例の感染症の患者を抱えている。だから基礎疾患がある人や通常救急者を利用しなければならない人がかえって溢れてしまう、病院をたらい回しにされてしまうケースが少なくないのだ。
 一息つく間もなく、また受話器が鳴る。
 柏原はコーヒーを一口飲んで、目を閉じて、一瞬祈った。
 先程の人がどこかの病院に辿り着けるよう、祈ることしかできなかった。
 目を開き、受話器を取る。


 先程聴こえた汽笛は、汽車の物ではなくホームに電車が到着するときの音だったらしい。
 それは私の故郷の駅と同じ音だった。懐かしいな。
 と思っていたら、ホームに到着した電車もそのまま、私の故郷を走るローカル鉄道だった。
 いよいよ夢らしくなってきた。するとここはやっぱり私の夢の中なのだろうか?
 ピシュー、ガゴガゴ、電車のドアが古びた音で開く。馴染みのある音だ。
「乗ってみましょう!」彼女は興奮した声で私の手をより強く引く。
 うん、私は馴染みのある車両の、馴染みのある座席に彼女と一緒に座る。
 しかし窓の外は相変わらずもやがかかったように曖昧で、よく見えないのだった。
「夢だったんです、この電車に乗るのが、」
 彼女はキラキラした目で車両をくまなく見つめていく。その姿は年相応、というより、もっと幼いようにすら見えた。
 ごとん、電車が出発する。

「どこに向かってるんだろうね、」そう聞きながら、頭のどこかでは分かっている気がする。しかしあまり深く考えられない。
「分かりません、でも、」彼女は窓の外の景色を、相変わらずキラキラした目で眺めている。
「電車が教えてくれますよ、きっと」彼女は私を振り返り、また笑った。

 ごとん、ごとん、懐かしく心地よい揺れが私を微睡の中に誘う。
 もしかするとこれは夢ではないのか、そんなことを考える頭もゆっくり、ゆっくり曖昧に、
「お疲れでしょうから、駅に着いたらお教えしますよ」彼女は肩を貸してくれた。甘える。
 薄目を開けて彼女の横顔を見る。
 …だとしたら、彼女は本当に誰なのだろう?


【・3】
 救急センターの奥野は焦る、
 先程、三台の別の救急車から同時に入電が入った。
 受け入れてください、と。
 ただでさえ病棟に人を送っている今の現状で、三人の患者をセンターで受け入れられるはずがない。しかもそのうちの一つは感染症ではないという。 どう考えても受け入れは不可能だった。だがこの病院が受け入れなければ、また救急車の中の患者さんは別の病院を回ることになる、その時間で手遅れになることだってあり得る。
 どうしたら、どうしたらいい。奥野は考える、考えて必死にパソコンをはじく、
 そうしているうちに一台目の救急車が到着した。感染症の患者さんだ。
「…他の件は、断ろう。無理だ」センター長は重い声でそう言った。
「でも、」奥野は防護服を着ながら言いかけて、止めた。
 そんなことはセンター長が一番分かっているはずだ。
 奥野は先程入電した救急隊員に電話をかける、そして、祈った。
 こんなことを思うのは筋違いかもしれない、冒涜かも知れないけれど、
 どうか他の病院で、どうか、


「着きましたよ」彼女の声が綿あめのような夢の中から私を引き戻す。
 何だろう、何か、大事な夢を見ていたような、
 誰かを、思い出していたような、
「降りましょう」見ると電車はある駅で止まっていた。
 それは私の実家の最寄り駅だった。

 田圃のあぜ道、古い民家、用水路、全てが懐かしく、温かく感じられた。
 私が小さいころ良く歩いた道を二人で歩く。
 そういえば最近帰ってなかったな。
 あの時、電話したっきりで、

 …あの時?
 最近電話なんかしたっけ、お母さんに?
 しかし肝心の記憶には靄がかかっていて、曖昧で、
 やはりどうしても思い出せなかった。

「綺麗なところですね、」彼女は私の故郷を愛おしそうに、とても愛おしそうに見つめた。
 どうしてだろう、気が付いたら口が勝手に動いていた。
「でしょ。ここ、私の故郷でさ、ほら、あの田圃は昔かよばあちゃんが…」
 故郷の想い出を話すうち、その温かい記憶が、心の中に溜まっていた靄をゆっくりと晴れさせてゆくように、解いてくれるように感じた。
 私はいろんな話を彼女にした。故郷でよくお世話になったおばあちゃんのこと、お母さんやお父さんのこと、あぜ道の向こうにある学校からよく逃げ出していたこと、よく友達と遊んだこと、田圃に入って農家の人によく怒られたこと、丘の上に秘密基地を作ったこと、
「秘密基地ですか!」彼女は目を輝かせる。
 彼女自身はそういう経験をしなかったのだろうか。
「行ってみたいです、その丘!」
 今度は手を引いてくれと言わんばかりに手を握ってくる彼女は、愛らしくて、可愛くて、
 まるで親戚の子か、自分の子どもみたいな気持ちになった。愛おしい。
「こっちだよ、」私は彼女の手を引いた。
 彼女の手が先程より少しだけ冷たくなったのは、気のせいだろうか。


【・4】
 救急隊員の永田は必死に電話をかけていた。
 だがどの病院も満室で、行けそうだった病院にも断られて、他の病院にはまるっきり電話すらかからなかった。僕がもう少し急いでいれば、そんな言葉が頭を度々過るが、患者さんの容態を考えるとそれは難しいことだった。彼女は苦しんでいる。絶対安静だ。こちらの焦りを伝えてはならない。でも早く、早く病院に届けないと、彼女は、あの子は、
 彼女の呻く声が聞こえる。別の救急隊員が彼女についている。僕は早く病院を、早く、
 電話口でコール音が鳴る。頼む、頼むから繋がってくれ、頼むから、
 コール音が鳴る。


 小高い丘の上にはあの頃と同じように、ちょっとした茂みがあって、風が気持ちよくて、
 私の故郷が一望できる、この街で一番の場所、特等席だった。
「いいでしょ、この場所」ふと目を落としたところに木片が散らばっていた。あの頃の秘密基地の一部だろうか。
「ええ、いい場所です。いいところですね」そう言った彼女はいつもと違う声色だった。
 振り向くと、彼女は涙を流していた。
 とても愛おしそうにこの場所の一つひとつを見つめながら、泣いていた。
「ここが、いいです」
 彼女はぽつりと口にする。
 えっ、私はそう言おうとして、愕然とする。
 彼女の姿がどんどん朧げに、曖昧になって、
 まるで外の景色に溶けていってしまっているみたいで、
「ここが、いいんです」彼女は真っすぐ、私を見つめた。
 その瞳の潤みを見た瞬間、私は彼女が誰なのか、
 誰だったのかを思い出す。

【・5】
 葬儀屋の永田は、ご遺族と彼女の最後の別れを見守る。
 度々目にすることはあったが、今回は事情が違うように思えた。
 葬儀場の中、ぬるいお湯を張った浴槽でご遺族がご遺体を洗ってあげる。
 体を洗ってあげて、棺桶の中に入れてあげる前にチェキで写真を撮った。
 それがそのまま遺影として祭壇に飾られる。
 彼女の写真は今まで撮られなかったからだ。
 出来立ての遺影は、それでもエコー写真より生まれたての彼女を感じられる気がした。
 抱っこしてあげる、
 哺乳瓶にミルクを作ってあげる、
 おむつを穿かせてあげる、
 どれもできるはずのことだった。あったはずの未来だった。
 葬儀場でご遺族にいつまでも頭を下げていた救急隊員の事を思い出す。
 誰を責められるわけでもない。誰も責められるべきではない。
 それでも、これは、
 ご遺族は、彼女に触れ、故郷のご遺族はスマホ越しに、最後のお見送りをする。
 永田はそれを見ながら、組んだ手を強く、強く握りしめた。


「…そっか、」そうだったんだ、彼女は、あなたは、きみが、
 涙が溢れる、感情が溢れる、立っていられないくらいに、
 私を見て涙を流す彼女が、どうしようもなく愛おしくて、愛おしくて、愛したくて、
 私は彼女に駆け寄って抱き寄せる、そっか、こんな大きくなったら、こんなふうで、こんな髪の色で、こんな目の色で、こんな背丈で、こんな重さで、こんな肌で、こんな、こんな、

「…雫、」
 呼べないと思っていた、ずっと呼びたいと思っていた名前を呼ぶ。

「…おかあさん、」絞り出すような声で雫は言う。
 呼ばれないと思ってた、呼ばれたいと思ってた、

「ずっと、ずっと会いたかったよ。ずっと、ずっと、一緒にいたかったよ、一緒に暮らして、一緒に笑って、時々けんかして、でも一緒にご飯食べて、一緒に悩んで、一緒に、一緒にさ、こんな風に、ずっと、ずっと一緒に、」

「私も、おかあさんに会いたかった。お母さんを見たかった。お母さんに抱かれたかった、お母さんに抱きしめられたかった、お母さんに愛されたかった、」
「愛してるよ!今だって愛してる!これからもずっとずっと愛してる!愛してるよ雫、
ずっとずっと愛してるよ、雫!雫!」
「私も、大好きだよ!言葉では伝えられなかったけど、言えなかったけど、大好きだよ!お母さんもお父さんも、おばあちゃんもおじいちゃんも、みんなみんな、大好きだよ!これからずっとずっと、ずっとずっと大好きだよ!」

 抱きしめる雫の体はどんどん薄くなって、曖昧になって、
 それでも強く強く抱きしめ合った、抱きしめた、
 雫を少しでも感じていたかった、

「お母さん、私ここがいいんだ。お母さんの育った町がよく見えるこの場所が。お母さんの想い出のこの場所が、この場所がいいんだ。」

 雫は嗚咽交じりで言う。
 分かった、分かったから、愛してる、ずっとずっと、いつまでも、
 ずっと、ずっと、愛してるよ、雫、


 空を切った両の手はそのまま地面についた。
 空を見上げて、もう一度、ちゃんと伝わるように、
 ちゃんと届くように叫んだ、
 愛してる!愛してるよ!雫!


【1】
 眠りから覚める。起き抜けに頬がパリパリと乾燥しているのが分かった。
 どうやら私は夢を見ながら泣いていたらしい。どうして。
 夢の内容がよく思い出せない。
 でも理由は分かり切っている。雫が、雫が来てくれたんだ。夢の中に。
 机の上に置いた雫の写真を優しく撫でて、胸に抱き寄せた。
「おはよう、雫、」

 今日は貴則が朝食当番で、朝ご飯を作ってくれていた。
「泣いてたの?」彼はこういうことによく気付いてくれる。
「雫が、夢に出てきてくれたんだ」私は胸に抱えた写真をまたゆっくり、優しく撫でた。
「そっか、」彼もその写真をのぞき込んで、雫の頭を優しく撫でた。

 髪の準備をしながら、私はあることを思いついた。
「ねえ、」リビングで食器を片付ける貴則に言う。
「雫のお墓さ、あの場所がいいと思うんだ、」                                  

                                終

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