表と裏、或いはそれ以外のこと、

過去より、

特に大した理由は無かったのだと思う。
例えば日中、真夏なのにセミの鳴き声が全然聴こえなかったから、とか、信号待ちの人々が日陰に集まっているのに気づかず普通に待っていたから汗がとまらなくて、とか、そういうどうでもいいような理由だったような気がする。
気が付いたら僕は地元の公民館の中に入っていた。
 古びたコンクリートの塊、投票所、お年寄りによるカラオケ大会の開催場所、時々ここで葬儀を行う人もいる、そのくらいの印象しかない、何でもない場所だった。
誰がいるわけでもないその中を歩いてみた。やや広めの畳の間があり、会議場のような、折り畳み式の机や椅子が立てかけられている部屋があり、警備員室や使い道の無さそうな宿直室があり、錆びたコンロのある給湯室があり、黒塗りの小さな箱のような部屋があり…

違和感を覚え、もう一度公民館を歩いてみる。
畳の間、会議室、宿直室、給湯室、それから、
黒塗りの部屋、
いつも通りのはずの公民館に、見覚えのない黒い部屋があった。
キリスト教の教会にあると聞いたことがあるような無いような、懺悔室のようなものだろうか。だがそれにしては狭いような気もする。人が向かい合って二人で座ると閉塞感を覚えるのではないだろうか、部室のロッカーを二つ重ね合わせて黒く塗ったみたいな規模感、質感、それは文字通り「とってつけた」ような感じがした。
「ああそれね、」後ろから聴き慣れない人の声がする。公民館の人だろうか。
僕は何故かその時振り返っても誰もいない気がした。普通ならばその感覚を覚えた時点で逃げ出してもよさそうなものだが、確信的に、納得する形で自然に、その想像は僕に受け入れられていた。
「右側の扉から入ってごらん、」
それだけ言い残し、声はそれ以降聴こえることが無かった。
妙な感覚だった。その声に言われると、何故か不気味なはずの黒塗りの部屋が、まるで近所のコンビニのように気軽に入れる場所のような気がしてくる。
僕は自分が不可解な行動をしていることを自覚しながらも、しかしその部屋のドアに手をかけた。
 
中は外から見るよりも案外広かった。
やはり暗い部屋だが真上にある電球のおかげで少し明るい。中も黒塗りなのかと思いきやそこは木でできたプレハブのような、木の板を張り合わせたような、武骨ながらも外観よりは安心できる作りになっていた。空間の真ん中には古びたパイプ椅子が置かれている。
特にやることも無いのでその椅子に腰かけてみる。ぎし、と金属音がした。
「聞かせてください、あなたのことを」
突然先程と違う声が聴こえたので身構えた。それは女性の声にも聞こえたし、男性の声にも聞こえる、不思議な響きを持った声だった。すぐにこの部屋の構造を思い出す。そういえば向こう側、僕が入った扉の左側にもドアがあったような、
「聞かせてください、あなたのことを」
壁の向こうで再び声がする。それは不思議な感覚だった。一人の空間にいるはずなのに、聴こえる声も初めて聴くもののはずなのに、何故か安心感があった。実家で誰かと話をしている、まではいかなくとも、友人と話しているような気持にはなった。
可笑しな話だ、そう思いつつも、何を話すべきだろう、と頭を回している自分がいる。
壁の向こう側にいる人を想像する。どんな人があの声を出しているのだろう、どんな顔をしていて、どんな服を着ていて、どんな人生を送ってきたのだろう、
 頭の片隅でそんなことも考えながら、僕はゆっくりと口を開いて喋り始めた。
「これは、先日亡くなった親父の話なんですが…」
 

「言いたいこと、ですか。
いえ、言いたいことというか、気付いたことなんですが、
人にも、物にも、表と裏があると思うんです。
でもそれは決してオセロのように白黒付いているものでもなく、裏返るものでもなく、
どちらかというと多面体のような、
そう、多面体、見る人によって様々な側面を見せ、場合によってそれらは全く異なる形かもしれませんし、色が全く異なっているかもしれない、
また、グシャグシャに混ぜ合わせたルービックキューブのように、様々な色が様々な形で混在しているかもしれない、
それなのに、それを私たちは平面で見ているような、
寒色系が多ければそれを青だと思い、暖色系が多ければ赤だと思う、
そういうものの見方をしているのではないかと思うんです、
それが是なのか非なのか、そういう話ではなく、
ただ、やはり平面的にしか物事は捉えられないのが人間というか、
多くの面があるとどこかで気づいていながらも、それを見ようとしない、或いは興味がない、自分の見えているものにしか関心がない、
そういう、無知の知の無視とでも言うべき習性が、人間にはあると思うんです。
あれ、何が言いたかったんでしたっけ、あはは、
ついつい、まとまりのない文章になってしまうんですよね、すみません。でですね…」
 

思い出す故郷の景色、
夕焼け、風が吹く麦畑、生い茂る緑の草木が揺らぐ瞬間、さわさわと風の音が鳴り、微かに土の匂い、遠くから農作業をするトラクターの音、日差しは強く、モコモコとした雲がそれを時々和らげてくれる、
見知った人の手を振る影が長く延びる、畦道は少しぬかるみ、しかし確かに土の固さを感じる、
思わず口から、ただいま、が零れそうな夕暮れのそんな一瞬を思い出す、
あるいは自分の家のこと、
がたがたと音を立て玄関の引戸をあけると木の匂い、また母が作ってくれる夕食の匂い、トウモロコシの甘い薫り、豆の優しく甘い薫り、風の通り道は涼しく、近所で水まきをしている誰かの顔が思い浮かぶ、
ただいま、そう口に出すと、家の奥から、おかえり、と、懐かしい声が聞こえる、
心が色々なものに満たされる、一日の終わり、そんな瞬間を思い出す、
ああ、帰りたいな、胸を抱き締めながら、強く、
強く、そう思った。
入国管理局の収容所という、監獄の中で。
 
朝を迎えた時、いつも背中に違和感を覚える。布団が薄く、畳の質感があまり肌に合わなくて、腰痛持には特にこういう一つひとつが響いてくる。
薄明かりが出窓から差す。窓も部屋の出入り口にも柵のようなものが取り付けられていて、外の景色を見ようと朝窓を開けようと思ったときもあったけれど、もう諦めている。
ベルが鳴る。ロールパンとイチゴジャム、チョコレートとゆで卵が白いプレートに乗せられて運ばれてくる。腰に無線機をさした日本人が無言で、決まった時間に、毎日、毎日、監視カメラの犇くこの部屋に運んでくる。
味なんてしない。ただ生きるために、夢で見たあの故郷に帰るために、食べ物を口に入れている。ただ、ただそれだけの毎日、
何故生きているのだろう、時々そんな考えが頭の中を支配するけれど、
故郷のことを思い出し、いつか帰れるのだと信じ、私はそれを必死に抑え込む、
抑え込む、
 
ある夜、隣の部屋に収容されている人が体調不良を訴えた。
彼女は医務室に連れていかれた。大丈夫ならいいんだけど、拙い英語で、隣の部屋の人とそう話していた。
ところが次の日も、その次の日も、彼女は部屋に戻ってこなかった。
数日後、彼女の部屋が何人かの職員に片付けられた。
彼女が職員に殴殺されたと知ったのは、それから一か月後の事だった。
 
私は怖くなってしまった。どうして?どうしてそこまでされなくちゃいけないの?
私たちは確かにビザを無くしたり、有効期限を過ぎてまだ日本にいたりしたけれど、
それは日本の賃金が聞いていたよりもずっと安くて、仕送りがあまりできなくて、でもこちらにも、故郷の両親にも生活があるから、他にどうしようもなくて、
やりたくてルール違反をしていたわけじゃないのに、
国にも返してもらえず、離れている家族にも会えず、収入を得ることもできず、
許されるまでここにいて、無機質な部屋で無機質な食事を食べて、生きて、
必死に、生きようといているのに、
どうしてそれがこんな形で踏みにじられなくちゃいけないの?
どうして体調が悪くなっただけで、言語が違うから上手く自分の体調が伝えられなかっただけで殴られて、蹴られて、殺されなくちゃいけないの?
どうして?どうしてそこまで?どうして?
どうして?
 

「最近、疑問に思うことがあるんです。
いえ、単純な話なんですが、
僕らは日々働いて、苦しいことに耐えて、毎日に耐えていますよね、
そういう日常の中で得た賃金を家族や自分のために使って、ここまでは分かるんですよ。
で、そこにプラスして僕は税金を納める、ここも分かります。日本人の義務ですから。
その税金の使い道、ここに僕は疑問があるんですね。
いや、低俗な話、最近増税ばかりで、年金も減っていくって話じゃないですか、
 まあ国を守る為とか、色々お偉いさん方が考えてることですから仕方ないと思うんですが、
 疑問なのはあそこですよ。ほら、滞在期間を守らなかった外人を収容するところ、
先日外国人の女性が殴られて死んだっていう事があったじゃないですか?
あそこの人たちは言うなれば犯罪者なんでしょ?でもあそこでは普通に食事が出て、普通に冷暖房が完備されていて、そのお金は税金から支払われてるって言うじゃないですか、
なんでなんでしょう?すぐ国に返せばいいのに。
どうしてそんな外国人犯罪者の食事まで僕らが賄わなければいけないんです?
どう考えてもおかしいでしょう、
日本で犯罪を犯した人はそりゃあ違いますよね、ほら、何とかとか言う、日本に還元してる人なんていっぱいいるじゃないですか。
でも外国人は帰ったらいいんですから、祖国に還元すればいいんですから、
日本にとっては損しかないと思う訳ですよ、
なんか、そう思うと、馬鹿馬鹿しくなってくるなっていうか…」
 

ある家庭で朝のニュースが流れている。
 ニュースをぼうっと眺めながら、母親らしき女性は息子とご飯を食べている。
ニュースが流れる。入国管理局のニュースがキャスターの流暢な声で読み上げられる。
「怖いね、」母親が息子に言う。「そうだね」息子は答える。
 ニュースが次のものに移り変わり、またすぐに次のニュースに移り変わる、
「もう行かなきゃ」息子は準備をする。「ほんとだ」母親も仕事に行く準備をする。
「行ってきます」制服を着た息子はニュースの十五分後に家を出ていった。
「行ってらっしゃい」テレビが消され、その二十分後に母親も家を出た。
そのニュースの事を母親は仕事が始まるまで覚えていて、忘れた。
息子は玄関を出る時、既にその内容を覚えていなかった。
 

黒い部屋を見つけてから数日後、僕は再び公民館へ行ってみた。
あの公民館からの帰り、妙にすっきりしたような、憑き物が落ちたような感覚がしたのを覚えていて、なんとなくまたふらりと寄ってみようという気になったのだった。
公民館の玄関を入り、あの黒い部屋へと向かう。
ひょんな思い付きから、次は左側の扉を開いてみようという気になった。
僕は恐る恐る左側の扉を開いてみる。
 
驚いた。
左側の扉の先にはとても広いスペースがあった。まるで映画館のような空間、大きなスクリーンのようなところに隣の、僕が前回入った部屋の映像が映し出されている。百人は座れそうな座席はまばらで、人がちらほらと座っているのが見えた。その中には挨拶をこちらにする人としない人がいた。
僕はどこでもいいかと適当な席に座ってみる。
奇妙な高揚感があった。今から隣の部屋に誰かが来て、何かを話すというただそれだけなのに、不思議と鼓動が早まっていくのを感じていた。
 
しばらくして、青年がその部屋に入ってきた。
「聞かせてください、あなたのことを」席の誰かが彼にそう告げる。それはあの時の声とはまた違う声に聴こえた。
青年は緊張しながらも、しかし少しずつ、少しずつ彼のことを話し始めた。
 
彼の話は面白くは無かったものの、それなりに考えられていて、彼なりの信念や生活があるという事を感じさせてくれる物だった。
途中で右側に座っていた女性が席を立って部屋を出ていってしまったけれど、そういう物なのかと割り切って最後までその話を聴いていた。
「分かります、僕も…」「それは違うだろ」「草」「なんやそれ」「とてもいいお話でした!」
様々な声が一斉に彼に投げかけられる。その声はどうやら彼に聴こえているらしかったが、彼がどのような感情でその言葉を聴いているのか、どの言葉をどう受け止めているのかまではその表情からは読み取れなかった。
彼は次にいつここで話をするかを告げ、そのまま部屋を後にした。
僕は彼の話が少し気に入ったので、また聞きに来ることにした。
「あいつはダメだよ、なんたってさ…」そんな観客側の声も聞こえたけれど、聞こえないふりをした。
 

「本当に悪いことをしたやつしか攻撃はしませんから」
薄暗い部屋、画面越し、海外逃亡した男はインタビューに答える。
「お父さんは自殺されているそうですね」インタビュアーは無表情に、事務的に言う。
「誰かを攻撃することで、そういう結末になるかもしれないとか、そういうことは考えられないのですか?」
画面の向こうで男は少し考える、回線が悪いのか画質が荒い、
「やりすぎないように、加減は分っているつもりですよ」男は嘘偽りのない目でそう答えた。
スタジオのような場所に設置された数台のカメラはそれを捉える。
カメラ越しに数万人がそれを視聴する。
 

疲弊して帰宅した薄暗い部屋、エアコンが壊れていて蒸し暑い、管理人の話ではあと数日で何とかなるという事だったか、スーツを脱ぎ部屋着に着替える。
食事はもうとってきた。例の感染症なんて気にせず近所の飲食店は営業してくれているから助かる。冷蔵庫にはキンキンに冷えた発泡酒、これこれ。
散らかった部屋の中、すぐに布団の上に座り、発泡酒を開ける、プシュ、
そしてスマホを開き、いつもの配信を見る。
その配信では誰かが曝される。誰かの何かが暴かれる、俺たちの知らない裏側が、隠されてきた汚い部分が相次いで暴露される、
偶然おすすめに出てきたこのチャンネルを見つけて以来、俺の楽しみはこれだった。
そんな配信にも時々当たりがある。あたりというのは、ちょうど俺の嫌いなあの芸能人やあの人が曝された時だ。そんなあたりに出逢えた時はすぐにそれを拡散させ炎上させる、そして炎上先でさらに油を注いでやる、
たったそれだけで相手は引退してくれたり休んでくれたりするのだから、爽快な上に不快感も無くなってせいせいする、
お、今日はこいつか。
どれどれ、ああ、これだけ地位のある奴が、何をしたってんだよ、
おお!マジで!おいおい大丈夫なのかよこんな映像!
こりゃあ今回もよく燃えるぞ、ははは!
ぐび、ぐび、ああ、気分がいい。ざまあみろよ、ったくよ!
 
「悪いのは曝されたこいつで、曝してる実行犯はこの配信者だからな、」
 

暗い部屋の中、パソコンの光だけが漏れる。
家の外が明るい。車が沢山止まっているのだと思う。
何も私は悪いことをしたわけじゃないのに、
謝罪して、弁明して、それでもこんなに責められて、罵られて、
消えろ、消えろ、消えろ、そんな言葉が頭の中でも反復して、繰り返されていて、
どうして、そう思う事すら忘れてひたすら、自分に対してそんな言葉を繰り返していて、
繰り返していて、
頭を掻きむしる、ブチ。髪の毛が数本切れる音がする、
消えろ。消えろ、消えろ、どうして、消えろ。消えろ。どうして、消えろ。
頭の中で何かのスイッチが切られた感覚がする。
心の中が凪ぎ、耳鳴りがする。辺りの音も、さっきまでの声も聞こえなくなる、
 
無音の中、ラインの通知音が鳴る。
何の気なしにそれを手に取る。
そこには友人からのメッセージたちがあった。
 
一つ目を開く。これは親しい同業の友達から。
二つ目を開く。これは地元の友達から。
両親から。年に数回会う程度の友達から。従兄弟から。昔付き合いのあった人から。お世話になってきた人から。高校時代の先生からも。
心の中に感情が戻ってくる。瞼から涙が流れる。手が震える。
ただ泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣いた。
 
結果的(、、、)に(、)、私は死を選ぶことを辞めた。
彼女は、自殺することを選ばなかった。
 

選挙速報が流れる。
その選挙速報を見て、ある人は喜んだ。
その選挙速報を見て、ある人は絶望した。
その選挙速報を見て、ある人は爆笑した。
その選挙速報を横目に見て、ある人は選挙に行くことを辞めようと思った。
その選挙速報を見て、ある人は選挙に対する関心を捨てた。
その選挙速報を見て、ある人は何も考えずチャンネルを回した。
 
10
再び公民館を訪れている。
気がつけば、あの青年の話を心待ちにしている自分がいた。
いつものように黒い部屋に向かうと、ドアノブに何かがかかっていた。
「ああ、今日はもういっぱいだよ」
公民館館長の名札をかけた男は言う。その声にもまた聞き覚えがなかった。いよいよ、あの時この黒い部屋のことを教えてくれたのは誰だったのだろう?
そんなことを考えていると、部屋の中から声が聞こえることに気付いた。
そっとドアに耳をつけてみる。
「根拠はどこにあるんだよ」「所詮自己満足だろう」「帰れ」「もっとましな話をしろ」「いつまで話すつもりだよ」「帰れ」「出ていけ」「これだから低学歴は」
左の部屋から数々の罵声が青年に飛ばされていた。中には聞くに耐えない言葉もあった。右の部屋の青年も反論しているようだったが、明らかに追い付いていない。それ以前に、反論に値する罵声なんてどこにもなかった。
どうして急にこんなことに、僕は左の扉をあけようとドアノブに手を掛けた。
だが、僕はその扉を開けられなかった。
館長に満室と言われたから。
入っていったところで何を言えばいいのか分からなかったから。
どうしてだろう、ぼくは頭の冷静な部分で疑問に思う。わざわざこの部屋まで青年の話を聞きに来ているのは彼らなのに、聞きたくないのならば彼らが来なければいい話なのに、どうして群衆が出ていくのではなく、自分の話したいことを話しているはずの青年がこの場から去らなければならないのだろう、
どうして、
青年を群衆は糾弾し、罵声を浴びせている、
青年はついになにも話せなくなって、そのままじっと耳を塞いでいるようだった。
そんな一部始終を聞きながら、僕はどうすることもできなかった。
立ち尽くすことしか、できなかった。
 
11
「ミサイルはこのビルの二階に当たったようです」
カメラを持った女性がレンズに向かって話す。遠くから重く大きい音が時々聴こえる。
「ここにいると時々砲撃を知らせるベルが鳴ります。ですが、現地の方々はもう砲撃にある種慣れてしまい、シェルターに集まることもあまりないようです」
コンクリートは砲撃によって破壊され中の鉄筋が曲がっている様子がよく分かる。その破片が足元に多く散らばっていて、所々に生活の痕跡が、冷蔵庫やキッチン、或いはオフィスのコピー機などが点在している。
女性はどうやら日本人のようだった。
彼女はこの現状を、この場所での現実を、現在をレポートし続ける。
「この場所で昨日ミサイルが着弾し、数名の方が命を落とされたようです」
彼女はその事実を、その重さを、そのままに現地から伝える。
彼女の目は、レンズの向こうに真っ直ぐに注がれている、
レンズの向こう、動画の届く先に、真っ直ぐに、
警報のベルが鳴る、
 
12
通勤電車の中、ヤフーニュースを眺める男、
その一覧にウクライナの文字が過る、
男はそれを無視し、芸能人の不倫の記事をクリックした。
 
13
八月の終わり、小さな屋台が並ぶ河川敷、地域のお祭り、
思い切ってクラスメイトを誘ってみたら「いいよ」と返事が返ってきて思わずガッツポーズが出たのが三日前、
しばらく一緒にいるはずなのに、まだ服装の事を気にしたり、髪型をしょっちゅう触ったりする自分を馬鹿馬鹿しいとも思うけれど、ついついそれが気になってしまって、
彼女の浴衣姿は新鮮で、綺麗で、とても直視できなくて、
鼓動が、どうにもうるさくて、
「お祭り、久しぶりで、なんか楽しいね、」
彼女はそう言って笑った。
人のいない川沿い、二人並んで歩く堤防、焼き鳥の匂い、二人の足音、誰かの笑い声、
微妙な距離感で歩く僕と彼女、
この時間が終わってほしくない、そう思った。
 
「なんか、終わってほしくないね、」
彼女は呟く、
「え?」あからさまに声が裏返る、
「夏休み、」彼女はそう言っていたずらっぽく笑った。
二種類の照れが同時に襲い掛かられ、僕も顔を熱くしながら笑った。
屋台の灯りが揺れる川の水面を艶かしく照らしている、
 
14
八月がもうすぐ終わる。
古いアパートの一室、物が散乱する部屋、冷房はなく、扇風機ももう壊れていて動かない、
喉が乾いたな、冷蔵庫に入れておいた水道水を飲む、
机の上にはメモと百円玉が三つ、これが僕の今日の食費だった。
おなかがすいた、朝ごはんも、昼ごはんも、まだ食べられていない、
部屋の一番角でじっと蹲る、この場所でいると一番暑さがしのげる気がした。
カレンダーを見る、夏休みは、あと三日、
早く、早く、僕は心の中で願う、
夏休みが終わったら友達とも遊べるし、学校の帰りにいろんな場所にも行けるから、
夏休みが終わったら給食は、昼ごはんは食べられるから、 
早く、早く、
食べられないから、外にも遊びに行けない、図書館に行くとお母さんに怒られるから行けない、スーパーの試食ももう置いてない、
早く、早く、
暑いはずなのに手が震えている、足先の感覚ももうほとんど感じられない、
早く、早く、
早く、
 
15
「はじめは、自分の言いたいことを言いに来ていた、ただそれだけでした。
でもしばらくすると、人がどんどん集まってくるようになって、段々自分の中で意味がずれていったんだと思うんです。承認されたいとか、もっと多くの人に聞いてほしいとか、そういうことを考えるようになって、気が付けば話す内容がどんどんずれていって、言いたいことじゃなかったことも口から出るようになって、それで前みたいなことになったんです。
まさかあんなに言われるとは思わなかったです。
それも、本当に意味のある反論や批判じゃなくて、ただの攻撃、傷つけるための言葉を使われて、反論しても、釈明しても、聴く耳を持ってくれなくて、
それに、笑ったんですよ、彼ら。
僕が反論することを辞めて、耳を塞いで蹲っていたら、それでも言葉がどんどん強くなって、止まらなくなっていって、
「死ね」って言葉が聞こえた時、流石に僕も気持ちがぐちゃぐちゃになって、思わず顔を上げたんです。
そしたら、向こう側から笑い声が聞こえてきて、それがどんどん大きくなっていって、
ああそうか、この人達は攻撃する対象が欲しくて、それでこの場所に集まっていたんだって、僕の話を聴いてくれていたんじゃなくて、ずっと攻撃する隙を窺っていただけなんだって、
なんかそうしたら、力が抜けちゃって、もうどうでもいいかって、どうにでもなれって、
それからもう、話すのはやめたんです。話しても、どうにもなりませんから。
もう、ここに来ることは無いと思います。
今まで、ありがとうございました」
 
16
あれから少し仕事が忙しくなって、公民館には行けずにいたのだが、久しぶりに公民館に寄ってみることにした。
前と変わらない佇まいの公民館は安心感を与えてくれたが、同時に、あの黒い部屋の持つ不気味で、不吉な印象も受けるようになってしまっていた。
入口を入って右の奥、黒い部屋に向かって…
あれ?
前まではあったはずの黒い部屋は、跡形も無く姿を消していた。
おかしいな、僕は周りを見渡す。だが黒い部屋が無くなったこと以外、公民館自体には何の違和感も変りも無かった。あの部屋はもう無くなってしまったのだろうか。
 
「どうしたの」館長の名札を付けた男が近づいてくる。
「前ここにあった、黒い部屋、どうしたんですか」
「黒い部屋?そんなもの無いよ」館長は怪訝そうに首を傾げてどこかへ行ってしまった。
 違和感を覚える。よく見ると、彼は僕の知っている館長では無かった。
 
黒い部屋があった場所には本棚が置かれていた。
そこには青い鳥文庫の本が所狭しと並べられている。

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