郷愁

「傘代わりなんです、猫」
停留所で雨宿りする私に、彼は唐突に話しかけてきた。
見上げてみると確かに、バスの停留所と思われるその建物は猫だった。手足の異様に長いしましま模様をした猫が私たちに覆いかぶさるようにして四つ足で立っている。普段はあまり見ることのできない猫のふさふさした腹が私たちを温かく包みこむ、なるほど道理で温かかったわけだ、と妙な納得をした。しかし外はまあまあの雨、猫は当たり続けて冷たくないだろうかと一瞬心配になったが、そんな私の気持ちを汲み取ってか猫はのんびりとした声でなーと鳴いた。
「猫は平気ですよ。ほら、毛繕いとか仲間内でし合うじゃないですか、冬には時々毛繕いした部分が凍ることもしばしばあるとか。だから猫は水嫌いだなんてよく言われますけれど、意外と水に強かったりするんじゃないですかね」
こうして隣で話し続けている彼はこのあたりの地元民であるらしく、この停留所に足しげく通って色々と分析しているようだった。閑散としたこの街で、正装に身を包んだ彼は少し不似合いなようにも思えたが、彼にはこの地域での仕事がちゃんと担保されているらしい。
「ぼくはね、ここで毎日一休みするんですよ。バスなんて全然待ってなくて、こんな場所にとどまっていて大丈夫なのかって話なんですけど、でも猫の腹の体温にゆっくりと温められるこの感覚がまたクセになっちゃって」彼はビスケットのようなものをこっそりと齧りながら笑ってみせた。
確かに、私は彼の言葉通り猫の腹の下の心地よさがクセになり始めている。なんだろうこの心地よさは、まるで母親の胎内にいるかのような、あるいは赤ん坊のころ母に抱きしめられた時のような、
「おっと、長居してしまいましたね。ではこれから仕事ですので、これで」
彼はあわててビスケットのようなものをしまい、礼儀正しく私に一礼して去っていってしまった。バス停の前に続く道の果てに彼の仲間らしき影がちらほらと見える。四人から五人といったところだろうか。彼は一体どんな仕事をしている人なのだろう。まだまだ話したいことはいっぱいあったのに。
そんなこんなで、バスが来ていないにもかかわらず彼はどこかへ行ってしまった。
彼の去り際、行ってらっしゃい、みたいに、私の頭上で猫がなーと鳴いた。
残された私は特にやることもなく、猫の腹の温度に浸っていた。ほかほか。
停留所の外はまあまあの雨が降っている。ざあざあ。
どうやらまだしばらくは止みそうにない。


ゆらゆら、目の前を夢だと分かる光景が横切ってゆく。
地域のお祭り、こんなに人がいたのかってくらい人が集まっていて、浴衣姿で、屋台からはとても元気な声が聞こえてきて、
それは子どものころ近所でやっていた、小さな神社のお祭りだった。
懐かしいなぁ、ゆらゆら、
だんだん映像は薄くなってゆく、
夢が薄れてゆく、
ゆらゆら、


交差点を曲がったところでカーブミラーに出くわした。
こんなところにカーブミラーなんてあっただろうか、記憶と異なる風景に困惑する。しかしこの街に戻ってくるのももう何年ぶりだろうか、下手をすると十年、二十年、なんてことはさすがにないにしても、本当に久しぶりだった。駅から一時間近くかかる自宅への道のりを覚えていることの方が不思議なくらいだ。カーブミラーが新しくできていることくらい、なんでもないだろう。
しかしこのカーブミラーの不思議なところはなによりその向かう方向にあった。三つのカーブミラーが交差点、二本に分岐した道の両側と正面の私を映し出しているのだ。後ろからの車にも気をつけなさいという意味だろうか。だがそれにしては映し出す位置が低すぎる。正面を向いたカーブミラーには私の足しか映っていないのだ。
どうしてこんなカーブミラーをつける必要があったのだろう、そんなことを思いながらも私はそのまま交差点を横切ろうとしていた。
悪寒、
背筋が凍ったような感覚と共に訪れる恐怖、
私はそれをはじめから見ていた、はじめから見ていたにもかかわらず、たった今になってようやく認識することができたのだ、
正面のカーブミラーに自分の後方にいる人物の足が映りこんでいる。その足は何とも禍々しく、黒々しく、その輪郭をはっきりとさせないままに、しかしそこに確かにあることを分からせた。
悪魔。
嘘みたいなそんな言葉が頭を過ぎる、
見たことなんてあるわけがない、御伽噺の中でしか、何かのゲームの中でしか、
しかしそれは確かに悪魔だった。悪魔としか形容できない何かだった。
「私は、ただ、ここに、たって、いる、だけ、ですが、」
臓器を直接揺らしてくるような声で悪魔は呟いてくる。声が響いてくる。
「たって、いる、こと、ただ、それだけ、ですが、」
確かに悪魔は最初の位置から全く動いてはいない、
動いているのは私の主観だけだ。
「私は、ここに、いつも、たって、いる、ただ、それだけ、ですが、」
私はたまらずその交差点から逃げ出した。走って、走って、逃げ出した。
どれだけ心臓が脈打っても、どれだけ筋肉が震えても、悪魔の声はずっと私の中で響いていた。


 ゆらゆら、
また、夢だと分かる光景、
目の前に広がる夏の田園風景、
これは私のおばあちゃんが作っていた田んぼだ。
さわさわと心地よい音を立ててしなる稲穂、温かい土のにおい、
遠くで蝉の声、
「そろそろ飯の時間だ、ほれ、あいでみ、」
おばあちゃんの元気な声がそんな全てと調和して、とても澄んだ、
綺麗な時間、
はぁい、私は裸足であぜ道を駆け抜けていく、
小学生くらいの私、
そんな幼さの中でも、ここが故郷なのだと分かっていた気がする。
帰ってきたいと思っていた気がする。
ゆらゆら、そうだ、これは夢だったんだ。
もっとこの懐かしさに浸ってたいのに、ゆらゆら、
ゆらゆら、


「卵ってな、これ、未来が詰まってんだ、いっぱいいっぱいに詰まってんだ、」
木陰でサンドイッチを食べていると、木の裏からその人の声が聞こえてきた。
すこしガラガラした声、その口調からそこそこのお年を召している方だと思った。
「生の予感、ちゅうのかね。あの真っ白な丸っこいのを見ていたらね、今にもパキパキ殻を破りながら何かが出てくる気がすんだ。」彼は顔を見せないまま、私に対してだけではなく彼自身に対しても語り掛けるようだった。
私は手の中のサンドイッチに目をやる、そこにはキュウリとスクランブルエッグが挟まっていた。私はそのままスーパーに陳列される卵を想像してみる。無精卵とはいえ、あの卵にはそれを産んだ親鳥がいて、養鶏場のどこかには有精卵を産んでいる親鳥がいて、どちらも同じ痛みを以って卵を産んでいる。でも片方は有精で子供が生まれるけれど、片方は子どもが生まれず出荷されてしまう、それを決めるのは私たち無関係な人間だ(、、、、、、、、、、)。
「そうそう、あれ、どうなったんだっけねぇ、」彼は構わず語り続ける。
「いつだったか、親鳥くらいある卵が見つかったんで、この辺ではちょっとした話題になったもんだげど、あの後誰かが持って帰って、風呂場で温めてたって話でな、」彼の口調にはどこか寂しさが漂っていた。
「あれ、どうなったんだろうねぇ、」彼はそれだけ言い残すと、一度も私の視界に入ることなく去っていった。
私はその話の続きを知っている。その卵は一度ひびが入って孵りかけたけれど、そのまま時間が止まったみたいに何も起こらなくなった。まるっきり反応が無くなってしまったのでもう死んでしまったのかもしれないと騒がれ、学者たちはその卵の解剖を熱望した。しかし持ち帰った人はそれを断固として拒否し、家に持ち帰ってずっと風呂場で温め続けたという。
その先卵が孵ったのか、孵らなかったのか、どうなったのか、
今はもう知る由もない。


 ゆらゆら、
ああ、まただ、また私は夢の中にいる、
海の近くにあった小学校、わたしはそこへ通っていた。
西日が地平線へ沈んでゆくのを教室の窓から眺めてみたり、潮の香りに包まれながら眠ったり、
海岸線で泡立つ波を不思議に思ったり、仄かに聴こえる波打ち際の音に耳を澄ませてみたり、
席替えのない十人のクラス、カーテンの揺れる窓際の席は私の特等席だった。
「いいなぁー」隣の席の優子はいつも羨ましそうに言っていた。
「ま、パパが漁師してるから、海なんていつでも見れるからいいんだけどねぇ」とか、ちょっと強がりを言ってみたりする彼女がとても好きで、たまに先生に許可を取って席を変えっこしたりして、
優子は間違いなく私の親友だったし、彼女にとっても多分そうだったと思う。
ゆらゆら、揺らぐ波と記憶、あの子の笑顔、
久しぶりに優子のこと、思い出したな、
思い出せたな、ゆらゆら、
ゆらゆら、


街中を歩いていると急に視界が開けた、
すこし細い路地に入ったその場所は、砂丘になっていた。
大きなスーパー、商店街、そのほかにもいろんなものがあったと思うのに、その一つひとつは全然思い出せなかった。あったはずの何かの記憶や名残はそこにはなく、そこはまるで昔からずっと砂丘であったかのように不自然さが無かった。不自然さがないことが不自然だった。
ひやり、頬に何かが触れる。
見上げると、灰色の空から雪が降っていた。
砂丘と、雪、その妙な取り合わせに困惑する。何が起こっているのか理解が追い付かなかった。
「ああ、雪ですね。砂丘に雪が降っている」
メタリックな装甲をした彼がそばを通りかかる。その装甲は普段街中で目にするものではなかったし、そういう意味では全く見慣れていないはずなのだが、砂丘と合わせるとなるほど納得できてしまう。
「私も、あまり見たことはありませんでしたが。影絵にでもしてみれば砂丘と山のシルエットは案外似ているでしょうし。まあ、不自然ではありませんよ。シルエットで観れば」
彼はしばらくその場をぐるぐると回った後、まだ混乱の中にいる私の方を向きなおして言った。
「そういえば砂漠というものは、無から生まれることはないそうですよ。まあ、ある意味ではこの砂漠そのものが無といえるかもしれませんし。そして当然、雪もまた無から生まれることはない。この気温です。この場所を砂丘と認識できる温度。この温度で雪が降ってくるということは、あるいは何かが起こったというわけで。有が在ったというわけで」
もう一度私は砂丘を見た。不自然な不自然がそこには広がっていた。
「私がここにいるのも、当然理由があるわけで」
彼はそう言い残すと砂丘の真ん中へ去っていった。
彼はずっとこうしてこの砂丘で生きてきたのだろうか、
砂丘に水はあるのだろうか、食料はあるのだろうか、
彼が見えなくなったとき、同時に砂丘の雪は止んだ。
私はその場でしばらく彼の足跡と砂丘を眺めていた。


 ゆらゆら、
夢の中で、私は初めて自我を持っていた。
今まで通りの俯瞰ではなく、記憶の中の私として確かに存在していた。
私たちは山の中にいて、森林や鳥の声、木漏れ日の中にいた。
一緒にいるのはもちろん優子だ。
「ねぇ!あんなところに線路があるよ!」優子が一段と甲高い声を出す。
ねえ、もう私たち中学生だよ?そう思いながらも心が躍っている自分がいる。優子だ。あの頃の。
私と優子は同時に駆け出した。森の中の凹凸、木の根や石、動物の跡、小さい枝葉、クモの巣、そんな全てが何故か愛おしかった。
見ると本当に線路がある。森の土に囲まれて、灰色まだらな砂利の上に敷かれたレール、木の板、そしてその少し先にはツタに覆われたトンネルもあった。だがこの山を通る電車なんて聞いたこともない。いったい何の線路だろう?
優子と私は電車が来るんじゃないかとおそるおそる線路に近づいていく。だがその心配はなかった。その線路は私たちが見える位置で、トンネルの一歩手前で途切れていたのだ。
「ここ、昔は電車が走ってたのかな。どんな電車が走ってたのかな」優子は不思議そうな声で言う。
さあ、どんな電車だったんだろうね。私の声はあくまで私の内声として私自身に聴こえてくる。私は優子と直接会話を交わすことはできない。いくら自我がここに在ったとしても、自分自身の記憶に直接かかわることはできない。
「きっと、赤くて、モミジみたいな色で、秋はほんとにきれいな紅葉の中をさ、ゆっくりゆっくり走るんだよ」優子はこうやっていろんなことを想像することが好きだった。私はそんな優子の話を聴くのが好きだった。
私は目尻が熱くなるのを感じる。優子だ。本当に優子だ。
ねえ、優子、私ね、優子にいっぱい話したいことあるんだ、ねえ、ねえってば、
ゆらゆら、視界の揺れが夢の終わりを告げる。
嫌だ、もっと話していたい、もっと、もっと、
ゆらゆら、


私は花束を持っている。
山の中、蝉の声が微かにまだ残っている。そういえば秋だったな、今。
木漏れ日に包まれたその灰色の石はどこか笑顔でいる気がして、
あの日、トンネルをくぐって見た夏を思い出していた。
「珍しいですね。こんなお寺へ」まだ若そうな彼が軽く挨拶してくる。
「ここ数年、全然お参りにいらした方がいなかったんです。仕方ないと言えばそうですが、ここのお手入れをさせていただいていますと、少し寂しいような気もして参ります」
彼は掃除に集中しながら、落ち葉にそっと語り掛けるようにして話す。
彼が話した後に残される静寂がまた、私には心地よかった。
さわさわ、木々が風でこすれる音、カタカタ、どこかで竹が音を鳴らしている、
音がある静寂、私は目を閉じてその時間に浸っていた。

「そういえば、新しく水族館が建ったそうですね」
帰り際、彼はそんなことを突然言う。
「今度の水族館には一通りの魚と一緒に人も泳いでいるらしいですよ。これまでの水族館でも、酸素ボンベを担いだ職員の方がいらっしゃることはあったと思いますが、今回はそうではなく、水着姿の親子連れだったり、お年を召した方だったり様々なようで」
カナカナ…遠くでヒグラシが鳴いた。
「そうして水槽に入られた方には給料が支払われるそうですね。しかしこの試みは魚にとってはどうでしょう。魚にとって人は邪魔ではないでしょうか。魚に対して支払われていない給料を人様には支払うということはいかがなものでしょうか。魚の衣食住のみを保証する、給料をろくに払わずに人の視線を浴びせ続ける、今の水族館は本当にこれでよいのでしょうか、と、話がそれましたね」彼は苦笑いを浮かべた。これが彼の思い、ということなのだろう。
「一度行ってみてはいかがですか。ならでは、と言えば、ならでは、な気もいたしますし」
彼はそう言うと境内の清掃に戻っていった。
悪趣味だな、と思ったが、彼があれだけ語るその水族館を見てみたい気もした。
カナカナ…ヒグラシの鳴き声と共に夕暮れがやってくる。
カナカナ…カナカナ…


 ゆらゆら、ゆらゆら、
直感的に、最後の夢だ、そう思った。
中学の卒業式、最後のワンシーン、
背景に徹する私は、優子を見た最後の時間を思い出していた。上映していた。
「私ね、将来もう一度ここに戻ってくるんだ」卒業証書の入った筒を持ちながら、いつか羨んでいた夕陽を眺めながらそう言った。
「私、やっぱりここが好きなんだよね、優しい人がいっぱいいるあの商店街とか、週末賑わうあのスーパーとか、山とか、海とか、そんな全部が大好きなんだ。」
 夕日に照らされた優子の笑顔が眩しくて、綺麗で、私は思わず泣いてしまった。優子もつられて泣く、私と優子は違う県の学校に進むことになっていた。
「だから、だからね、私はここにいる。ここにいるから、帰ってきてよ。またこの場所で、またこの教室で、あのスーパーで、あの商店街で、ここで会おうよ」優子は小指を私の方に差し出した。頬で彼女の涙がキラキラ光っていた。
「約束だよ、友美」
 私は卒業式のおわり、優子と指切りを交わした。
 私は映画を見ているような感覚でその記憶を見ている。
 美しい青春のワンシーン、綺麗なままの思い出、
 それがとても痛くて、痛くて、痛くて、
 今の私にはとても、痛くて、
 絶望、沈黙、虚無感、後悔、憎悪、痛み、痛み、怒り、
 私、私ね、戻ってこれなかったんだ。優子。ごめんね。ごめんね。
 私たちが見てたこの場所は、あの商店街も、あのスーパーも、山も海も、
 全部、全然変わってしまったよ。
 私たちが見てたのと、全然、
 ねぇ、私たち、間違ったのかな、私、何か間違えたかな、
 これって、私たちが悪かったのかな、
 私たちに何かできたのかな、
 ゆらゆら、ねぇ優子、でも私、ちゃんと戻ってきたよ、
 全然、全部残ってなくても、違っていても、ちゃんと約束守りに来たよ、
 ゆらゆら、ねぇ優子、優子も戻ってきてよ、優子、
 ゆらゆら、ねぇ、返事してよ、ゆらゆら、優子、優子、
 ゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆら
「        」


ゆら‐ゆら
〘副〙 (多く「と」を伴って用いる)
① ゆれうごくさま、ゆりうごかすさまを表わす語。
② 動作や気持などがゆるやかであるさまを表わす語。ゆるゆる。ゆっくり。
 ゆったり。
③ (髪などが)たっぷりと豊かであるさまを表わす語。

―出典 精選版 日本国語大辞典

 走る、走る、走る、
 私は私の故郷であるはずのこの街をひたすらに、ただひたすらに走っていた。
 でも、視界を過ぎる街は、目の前に続くまだ砂っぽい道は、全然私の知っている故郷じゃなくて、私の知らない街みたいで、私だけがこの街だけで異質なもののような気がして、
 猫の停留所、悪魔の映る正面のカーブミラー、雪の降る砂丘、人の泳ぐ水族館、
 異質であるはずのそれらがこの街であるような気がして、
 この街にいたのは本当に私だったのだろうか、
 優子は、優子と私は本当にこの街の中にいたのだろうか、
私は必死に走った。
必死にこの街を探した。
ひとつひとつの街灯に、電柱にまで目をやって、
私は私の記憶を探した。
息が切れる、汗が噴き出る、靴と肌がこすれて痛い、コートに木の枝が引っかかってバランスを崩した、手にアスファルトが突き刺さる、弾む息と手から滲む赤黒い血液、
私は、ただ、この街に、この場所に、ただ戻ってきたいだけなのに、
崩れ落ちたアスファルト、仄かに土のにおいがする昼下がり、
誰もいない知らない街で私は咆哮した。
「         」


「この海岸線、綺麗ですよね」
 行きついた海岸に座り込む私に、彼は隣に座って話しかけてくる。様々な海岸線を渡っている彼のいうことだ、この海岸線は確かにきれいなのだろう。しかしそこに人はいないのだが。
「皮肉なもんです。人が大勢いたときはこの海岸の美しさなんて誰も見やしませんでしたが、こうして人がいなくなったとき初めてこの海岸線の美しさが際立つんですもの」
 彼は海の方をじっと眺めたまま、しかしその瞳は何か別のものを見つめているような気もした。
「そういえば、あちらはホテルの方角でしたね。あなたはどうしてここへ来ようと思ったのですか?何分風来坊なもので僕の場合は特にこれといった理由もないのですが…」
 彼は依然、海を見つめたまま話しかけてくる。その無関心さが今は心地よかった。
 声を出そうと思ったけれど、上手くそれは音になってくれなかった。ため息のような息の集合体が喉から零れ落ちる。
「あ、いえ、深く詮索するつもりとかは無くて、というか、そもそもそんなことはどうだっていいことなのです。ただ、この景色を、この海岸線を一緒に見る、共有するこの時間というのも、なんとも例えがたい、得難い体験だなと思っただけなのですよ」彼はよりいっそう目を輝かせる。
「僕に故郷という意識はありませんが、なるほど、こういう時間にこそ懐かしさがあるような、郷愁と呼ばれる温かさがあるような気がしてきます。僕のような渡りの者でも、記憶の中の一場面や一つの構図、一本の木などにもそう言った温かさを感じることがあります。それが僕の帰る場所なのかと、戻ってくるべき位置なのかなと思いますね」
 彼はそう言うと立ち上がり、どこかへ行ってしまった。
 私はそっと目を閉じて、波打ち際の静かな潮騒に浸っていた。
 潮の香りがする風、パシャ、水が跳ねる音、泡立つ音、砂が押され、引き戻される音、ポケットの中の振動、
 …ポケットの中の振動?
 私はチェックアウトの時間にアラームを設定していたことを思い出した。彼に会っていなかったら忘れていたかもしれない。
 私は急いでホテルに戻ることにした。
 もう一度見返した海岸線はここに来る前と変わらないまま、いつも通りに凪いでいた。

 チェックアウトを済ませ、駅へ向かう途中、
 知らない街の中、不意に既視感を覚えた。
 どこかで見たことのある道、どこかで見た曲がり角、
 鼓動がやけに鮮明に聴こえた。ここは、
 私は自分の直感に従ってそこを曲がる、それに従ってひたすら歩き続ける、
 ああそうだ、この道をこう行って、こう曲がって、幼いころの記憶が既視感となり、やがて確信となり私の中によみがえってくる、そうだ、ここの塀を曲がったところは、
 その曲がり角を曲がった瞬間、私は落涙した。
 
道端に奔ったアスファルトの亀裂、その隙間から綺麗な、とても綺麗な花が咲いている。
 花の名前は分からない、分からないけれど、その花びらが描く滑らかな曲線は、その中心におぼろげにたまる花粉は、若々しい緑色の茎や葉は、私が昔、優子と一緒に見た花そのものだった。
「きれい、こんなところからも花って咲くんだ」
 優子の声が頭の中を反芻する、
「すごいんだね、自然って、とっても」
制服姿で帰る私と優子の姿、温かい日差しに包まれた朝、優子の優しい眼差し、
私の中で記憶と現在が繋がってゆく、ああ、そうだ。ここが、
ここが、私の故郷なんだ。
私の故郷は、こんなところにあったんだ。
 どこか遠くの知らない街、変わってしまった街、見えなくなった人影、
 でもここは、この花だけは変わらない、変わらないまま私を待ってくれていた気がして、
 ああ、そうなんだ、私が求めていたものは、この花だったんだ、
 私は、故郷に帰ってきたかったんだ。
 ただいまって、そう言いたかっただけなんだ。
 溢れる涙を抑えながら、私はその美しい花に向かってそっと呟いた。
「ただいま、」


 私は再び東京にいる。
 私の今住む街、私のもう一つの居場所、
 十年前、故郷からの逃避行の末たどり着いた街、
 初めは全くなじまなかったし、人と人とのつながり方も全然違って困惑したけれど、
 今ではこの場所も、この人混みもどこか私の帰りたい場所になっている、
 でもここは私の故郷じゃない。
 そう、故郷はあの場所、亀裂の入ったアスファルトから覗く一輪の花、あそこだけなんだ。
 自分の故郷がそこにある、そう思えるだけで、今までとは全く違った安心感があった。
 温かい気持ちになれた。
 またいつか帰れたらいいな、そう思った。

人の多い交差点を抜け、いつも通っている喫茶店に入る。
「あら、」ベルの音とともに店長の悠さんが顔を上げた。
「おかえり、」彼女は優しい笑顔で言ってくれる。
 私は店の中のコーヒーの香りをゆっくり吸い込んで、
そしてとびきりの笑顔で答えた。
「ただいま!」




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