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飛盗千里

 夏だと言うのに、廟には紙銭の雪が降っていた。

 その雪を無遠慮に踏みつけ、《飛盗千里》墨火間は棺の前に立つ。弔問客たちは、盗人風情が堂々と、それもしたたか酔って闖入した事に、驚きと怒りを露にした。

 目元が酒精で赤く染まる火間は、片手で三升入る酒甕をあおる。酔いでもしなければ、この場に立つことすらできなかった。

「……趙孤舟、趙大侠よ」

 火間は豪奢な棺を甕で殴った。馥郁たる青竹の香りが廟に広がる。雇われ女達の泣き声と紙銭をばらまく手が一瞬止まるが、孤舟の妻が狐じみた目で一睨みすると、それらはすぐに再開した。

「趙大侠! なぜ死んだ!」

 俺がこの手で殺そうと思っていたのに! あどけなさの残る顔を歪ませ、火間は吼える。

「誰がお前を殺した!」

「貴様だ!」

 殺意を孕む若い女の声に、火間は両手を広げ4尺後ろに飛び、蓮の飾りがついた丸柱を蹴った。瞬き一つ分の後、火間の立っていた場所に、刺繍針が四本突き立つ。《繍鴛鴦》の朱麗か。匕首を構え、二投目を弾きながら跳ぶ。

 その勢いを殺さず攻撃に転ずる火間を、弔い装束を纏う老人の剣が阻んだ。翠明派の宗主、夏南仁である。中空で体を逸らすが、切っ先が火間の髪を束ねる巾を捉えた。

「婿殿が記した棋譜を置いて去れ。さもなくば死ね」

 静かな怒気と共に南仁は剣を突き込む。火間は酔漢とは思えぬ体捌きで、掬月水剣から始まる五手をいなしながら反駁した。濡れ衣だ。

「俺は、物は盗んでも命は取らねえ! まして、棋譜なんて盗む価値もねえ物を!」

「白々しい! 趙大侠を殺したのは、墨遥月の《蓮華刀法》だ!」

 朱麗が激昂する。火間も一瞬、驚愕を顔に浮かべた。

 江湖八大悪の一人《傾首落頭》墨遥月。美貌と匕首を用い、愚かな男から金品と人生を搾り取ってきた。それが火間の母であり、火間自身も、それを隠さなかった。

 だが、隠していたことが一つある。それは、火間の父についてであった。

【続く】