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読解力をつける(9) 既知の読みと未知の読み

「読みの整理学」(外山滋比古 ちくま文庫 2007年10月)を読んだ。
2007年10月10日第1刷 となっているが,「1981年の「読書の方法」講談社新書 に加筆・修正したものである」となっているから,元はずいぶん前のものだ。しかし,内容としては今でも十分通じるものになっている。(2007年に加筆・修正したのだからあたりまえか)

「はじめに」に面白い話が載っている。

 ある中学校国語科の検定教科書,三年用にわたくしの文章が載っていた。「虚々実々」という題がついているが,もともとは中学生向きに書いたものではない。教科書編集の人が,はじめ教材にしたいと言ってきたとき,中学生には無理でしょうと,いったんは断った。しかし,どうしても載せたいと言われるので,多少,加筆したり,言い換えをしたりして,教科書風に書きなおした。しかし,まだ,わかりにくい文章である。
 実際に教室で使われるようになって,この文章のことがぽつぽつ伝わってくるようになった。抽象的でわかりにくい,おもしろくない,教えにくい,などといった苦情ばかりで,著者としてはなはだ不本意であった。やはり教材にすべきではなかった。自分としてはぎりぎりのところまでやさしく書いたつもりであるが,あまり勉強熱心でもない生徒に読ませるのはまずかったと想っていたときである。

「この文章,間違っています,直してください」という手紙が三年二組クラス一同の差出人で届いたという。
「間違っている」とは聞き捨てならぬことばある,とだんだん不愉快になったが,反論するのも大人げないと思って無視していた。

 中学生が槍玉に上げたのは次の箇所である。
「ことばとそれがあらわすものごととの間には何ら必然的な関係はない」
自分で見ても,決して親切な書き方ではないし,一読してすらりと呑みこめないことはよくわかる。しかし,あとの方を読んでいけば,具体例もあって,わかるようになっていると思っていた。 〜中略〜
 どうして間違いと断定したのか,はっきりしないが,彼らの手紙によると,辞書で一語一語ひいて意味をたしかめたが,どうしても正しいとは考えられない。「直してください」と書いている。辞書をひけば正しい意味がとれると思うのは,中学生だからしかたがないが,文章を読む訓練を受けていないからである。辞書は単語の意味はある程度教えてくれるけれども,文章の意味のある部分は範囲外である,そういうこともわからずに辞書を使うのは辞書使いの辞書知らずである。生徒がそうであっても責めることはできない。先生だってわからない人がゴロゴロしている。

というわけである。
その後,再度手紙が来た。なんと,「わがクラスはこの文集は欠陥教材であると,クラス決議をし,筆者へ通告することにした」とある。こんどはほうってはおけず,詳しく説明した返事を書いたという。

それにしても,彼らの先生はどこで何をしているのか,顔さえも見えないのは不思議であるが,ほかのことに忙しくて生徒の自主的学習に委せているのだろうか。

と書いてあるが,まったくそのとおりであろう。外山氏の返信を読んで生徒が納得したのであれば,これを授業した先生は面目丸つぶれであっただろう。
 そもそも,教科書会社の編集者が選んだ文章である。当然,彼には読めていて,中学生にも読ませたいと思ったわけである。しかし,授業をした先生には読めなかったのであろう。そんな思いが,「先生だってわからない人がゴロゴロしている」にこめられている。

 われわれが,普通,読んだ・わかった,といっているときの読み方は,低次元の読み方である。これではせいぜいありふれた身近な知識を得ることができるだけ。本当に学ぶべき,知る価値のある内容であっても,読み手の経験しない,つまり,知らないことがらについての文章は,さきの低次元読みでは歯が立たない。

 これを「未知の読み」と外山氏はいっている。「わかることは読めるが,わからないことは読めない」例として,このエピソードはこのあとの本文でも何回か言及される。これこそが本書のテーマであるとも言える。

外山氏は,本書で「アルファ読み」と「ベータ読み」という2通りの読み方を提示している。

アルファ読み:既知のことを下敷きにして読む
ベータ読み :未知のことを読む

 読みがこの2つに二分されるのではなく,一般にはこの2つが混合している。既知のことが多ければ,未知の内容も類推することができる。要はその比率だ。この点,「わかったつもり 読解力がつかない本当の理由 西林克彦 (光文社新書:2005)」と共通するところがある。認知心理学的立場だ。
 国語教育で考えると,子どもは小学校入学以前からは話はできるし,絵を見ればそれが何なのかはわかる。うさぎの絵に「うさぎ」と書いてあると,これは「うさぎ」と読むのだとわかる。これがアルファ読みである。すなわち,子どもの読解はアルファ読みからスタートする。それが,中学生くらいになると,未知のことが増えてベータ読みになっていくわけだ。外山氏は,この切り替えが問題であるという。そのために一番有効なのが,文学作品,物語による転換だというのが外山氏の主張だ。なぜか。
 物語は,外見上,いかにも身近な印象を与えるからアルファ読みでわかりやすそうだ,しかし,創作は,ユニークな世界の表出であり,未知の深淵があちらこちらに顔をのぞかせており,それにひかれてベータ読みに入っていく,というわけである。

国語の教科書が物語をたくさん教材にしているのは,理にかなっている。

という。一方で,

文学好きな国語の先生は,物語を,ベータ読みへの橋渡しなどとは見ない。文学国語教育はその橋を向こうに渡っていくことを拒んで,その上に留まることを理想とする。

と,痛烈に批判もしている。
かくして

 ベータ読みができなければ,新しい知識を与えることを目的とするすべての教育は成果をあげられないことになる。
 そういう重大な問題を国語の教育者だけに委ねておくのは適当ではない。他教科でも,それぞれの立場において積極的にこれに取り組んでゆくべきである。

と主張する。
 まさにそのとおりだろう。しかし,教育現場でそれがなされている気配はまったくと言っていいほど,ない。
 なぜなら,教科書があっても,授業では「教科書に基づいて説明をする」からだ。生徒は予習をしてこなくても,つまり教科書を読んでこなくても,授業を聞いて板書を写せば,それで学んだと思っている。それも,せめて「聴く」ならよいのだが「聞く」にとどまっている。
 教師は「教科書ぐらい生徒は読める」と思っているから,読みの指導はしない。理科や数学で「読みの指導をする」ことなど考えにくい。それでいて,「生徒は教科書が読めていない」と嘆くのである。

 アルファ読みとベータ読み,既知の読みと未知の読み。この概念は「読解力」をつける上で知っておくべき概念だろう。


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今までの流れは「読解力を追って」にまとめてあります。