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ロバート・ツルッパゲ氏とそば屋で対話する

 勤務先の近く,徒歩3分程度のところにそば屋がある。時間の余裕がある昼休みになると,ロバート・ツルッパゲ氏を誘ってそこに行くのが最近の昼食パターンになっている。

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 食事中は食べることに専念するので,彼と対話するのはその前後。ある日の対話では,彼が哲学者であることを知り,またある日には,これは「プラトンとの対話」のワタナベアニ版か,とわかったりした。(ソクラテスとツルッパゲ)
 また,ある日には,「そうだそうだ」と同意することがあり,食後もその話題について語り合った。その話に触発されて書いたのが「マニュアルについての諸相」である。この中で,該当のエピソード(サバティーニとスターバックス)を紹介している。

 当のそば屋はほぼ「行きつけ」の店だが,あるときふと思い立って,メニュー全制覇をすることにした。といってもメニューの表だけ。表はそば,うどん,ラーメンで,裏が定食などになっている。そば屋であって蕎麦屋ではないのだが,「たぬきそば・うどん」のメニューの場合にはたぬきそばを選択する。

 そういえば,そばとうどんについて,先頃Twitter上で,「細うどんはさぬきうどんではない」とか「皿うどんはうどんではない」といった話題が出た。「細うどんはさぬきうどんではない」はこだわりの主張だが,「皿うどんはうどんではない」はそれに対する別の例を示したものだ。類するものでは「沖縄そば」がある。あれは材料が小麦粉で,蕎麦粉はまったく入っていないのでうどんである。実際に現地で作る体験をしたから断言できる。しかし,それを「沖縄そば」といっているのは,まあ,それでいいじゃないか,というのが私の意見である。
 この件について,ロバート氏はどういうかを考えてみた。

「細うどんはさぬきうどんではない」がテーゼとしたら,「皿うどんはうどんではない」はアンチテーゼだろうか。前者は「から,駄目だ」で,後者は「でもいいじゃないか」だ。沖縄そばもしかり。

 なるほど,沖縄そばはアンチテーゼか。すると,カント流では両者は永遠に平行線ですな。かけ算の順序問題もそうか。Twitter上で毎年議論が起きるが,いっこうに解決しそうもないからな。
 しかしカントであれ,ヘーゲルであれ,はたまたソクラテスであれ,そこから弁証法で何かが導かれるのではないですかね。

 「数学者としてはどうなのだ」とロバート氏が問う。

 いや,私は数学教師ではありますが,数学者ではないのですが,そうですね,「まず定義をしてくれ」というかな。そばとうどんの定義。たとえば,二八そばというのがあるでしょう。そば粉と小麦粉の割合が8:2だ。これが半々になっても五割そば,というから,そば粉が入っていればそばなのだという定義ができる。

 では,沖縄そばにはそば粉は入っていないから,そばではないのだな。

 いや,必ずしもそうともいえない。定義は変わってもいいのですよ。「数学の答はひとつ」というのは,世の中に流布している迷信でね,あれもいいがこれもいいって,へらへらしてるのが数学者なのです。
 たとえば,「ビュフォンの針」ってのがありましてね,確率の問題だけど,計算のしかたによって確率が変わるのです。で,別に矛盾があるわけでもない。どっちでもいいじゃないか,というわけです。パラドックスとは言われてますけど。非ユークリッド幾何だって似たようなものでしょう。

「ふむ。ところで,君がこの店を『蕎麦屋』と書かず『そば屋』と書くはなぜだね」とロバート氏が聞くので,私はこう答えた。

 「蕎麦屋」と書くと,いかにも蕎麦だけをやってる専門店に見えるでしょう。「そば屋」は,町中のそのへんにある,うどんもどんぶりもやってる店という感じ。

 しかし,聞く分には同じだぜ。

 それが「聞き言葉」と「書き言葉」の違いなんですよ。耳から入る情報と目から入る情報は同一ではないんです。

 さて,そろそろ支払いを済ませて出るとしますか。
次も,そば屋につきあってもらいましょうかね。まだ5節ほど残ってますからね。