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黒猫モカと生まれ変わりのパンタ

ミニャが2歳になった頃、上の娘が友達の家から子猫をもらってきた。真っ黒の雄猫で胸元と足の先1本だけがちょっと白い。名前はモカ。

モカは女ばかりの我が家で唯一の男子として甘やかされ、おっとりした性格で可愛がられた。インドネシアの一戸建ての常で、我が家も日中は裏口やら脇戸が風通しのために開けっぱなしなので、好き勝手に出入りしてはお腹が減るまで帰って来なかった。夜遅く私が車で帰宅すると、どこからか門の所まで走ってきて一緒に家に入り、ご飯を食べてから寝るのが常だった。

年を取ってくると猫風邪を引いてよく鼻水を垂らしていたり(その度にティッシュで拭かれるのが迷惑そうだった・笑)、多分他の雄との喧嘩に負けて耳に傷を負ったり(薬を塗った後のかさぶたを掻かないように靴下で作ったラッパーみたいな帽子をかぶせられて、それがまた嫌そうだった・笑)。

さて今年の3月のこと。ジャカルタ市中に泊まり込みの仕事があり、学校のない週末は子供たちとお手伝いのウメも連れて仕事先のホテルに宿泊することにした。そうしたら何時間もかけて郊外の我が家まで帰ってこなくても、仕事の後すぐにミニャに会えるから。モカについては時々ご近所でご飯をもらったりもしているし、2,3日私たちがいなくても大丈夫だろうと思って。

その頃ちょうどインドネシアにもコロナ感染者が出始めて大騒ぎになっており、結局3晩も家を留守にした後皆ヘトヘトになって帰宅。その夜はモカは帰って来なかったけれど、翌日の朝にはウメ曰く姿を見せて朝ご飯を食べていたらしい。私たちは「モカもオトナだし私たちが数日出かけるのにも慣れてきたんだ」と安心した。

ところがそれきりモカは家に帰って来なくなってしまった。ご近所に訊いて回ったり、猫カリカリの容器を持ってマラカスみたいに鳴らしながら探しまわってみたけれど見つからない。6年近く家に居てくれたモカの姿がないと皆寂しくて、よく閉まったドアを引っ掻きながらニャーニャー呼んでいたモカの声が空耳で聞こえたりした。

モカがいなくなってから約2週間後、いきなり家に黒猫が入ってきた。それも自分の家みたいに「ただいま」って感じで。私たちは毎日「モカが帰ってきますように」と祈っていたので、それはもう「祈りが叶ったんだ!」と思った。「モーちゃん!」と叫んで近寄ってみると、ちょっと小柄で幼い。それに胸元の白い部分もなくて全身真っ黒だ。その猫は家の中でしばらくあれこれ見て歩いたあと、また出て行ってしまった。ウメがご近所に話を聞きに行ったところ、それはお向かいの家の猫たちの一匹で、モカの息子らしい(そっくりだもの)。お向かいの小学生の息子から既に「ブラックパンター」(black panther・笑)という名前も付けられているとか。

ということで、パンタはそれ以来家に来る度に大歓迎されるのに味を占め、一日の大部分を我が家で過ごすようになった。最初のうちは日暮れになると律儀にお向かいの家に帰っていたが、最近は夜でもうちでたらたら寝ていたりする(下の写真はやっと撮れたパンタ)。

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猫とか動物にはあまり個々人(?)の自覚とか区別はないらしい。人間で言う個人の意識より、集合意識との繋がりの方が強いということだ。ましてや親子だし、モカとパンタは半分くらいは同じ人格(?)が重なっているんじゃないかと思う。最初に家に来た時から、私やウメのことを怖がることもなく、ウメの朝の掃除が終わってご飯がもらえるのモカと同じように待っている。パンタにご飯をあげたりブラッシングしたりする度に、まるでモカに同じ事ををしてあげているような気がする。モカが死んでしまったとは思いたくなかったけれど、パンタがやって来たあたりからもしかしてモカも寿命だったのかな、とも感じる。猫は死ぬときには姿を消すって言うし。

最近見たシュタイナー関連の動画によると、死者というのは生前関係があった人や魂としか会えないが、お祈りなどポジティブなものを読み聞かせてあげるのが死者のエネルギー補給になるらしい。とにかく私たちが死者の生前の姿をありありと思い浮かべたり、彼らの事を生き生きと考えたりすることが、彼らにとって死後の時空を生きていくエネルギーになるんだそうだ。

だとすると毎日パンタと一緒にご飯をもらい、撫でたり遊んだりしてもらえるモカは幸せなはずだ。もう一度若い時に戻ってパンタの身体の中で跳ね回っている。外が大雨の今は、食卓と椅子の間に潜り込んでうとうとしている。モカが好きだった場所だ。




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