分断の後は、皆カプセルを欲する。

ただ分断を生んでいるだけの自由。というものが存在する。
私は最近の所謂積極的自由と言われるものがwoke、意識高い系。とかその辺のカルチャーと一緒になって活動されているもの全てに距離を置いて自由に自分のことは決めて生きたい。つまり、酒は何時以降は飲むなだとか、週2くらいでジム行け。とか、肉食うなとか、別になんだっていいだろ。
そういうことを言う場合、保守と見なされるのだろうが、保守以外に何か適当なことはないのだろうか。子どもたちの明るい未来を願っている派。とか。
自由を獲得する上で抑圧されているものからの解放というものは大事であるが、最近は市民生活においてそもそもあまり抑圧もなく、庶民は割と自由にやらせてもらっているというのが個人的な見解だ。そしてその上で孤独になっている。

SNS上では四六時中分断を生み出しやすい構造で議論を巻き起こしているのであっちもそっちも論争が生まれている。
こうやって戦争って起きて、尚且つ終わらないんだなという感じだ。
とはいえ、ガザ侵攻のニュースなど見てて辛い。どうすることもできないことが胸が痛い。でもそんなことよりも今現状の自分の生活半径が良くなることの方がよっぽど大事である。
自由主義者は自国の貧困層などを自己責任論に転嫁してたりそもそも実家が金持ちだったりと、そういったケースが多々ある。
結局全てはポジショントークであり、どうにもならない様相を呈している。

先日友人と政治の話になって、都知事選に誰に投票したかの話になり、某氏に投票したと伝えると、え?ちょっと軽蔑するわ。と言われた。
別にその友人に軽蔑されようが自分の人生に一ミリも影響が無いのでどうでもいいのだが、私が元々彼に世間の情勢は知っておかないとこの世界のカラクリは見通せない。と伝えたことから政治に興味を持ち始めて有権者としての意識が生まれていた。
こういったかねてよりあまり投票に参加していなかった浮動票の枠を某氏が掻っ攫っていったような感じがする。
なぜ、低所得者層とされる彼が経済的な支援といった具体的な政策が特にない候補者に投票するに至ったのか。
完全に港区に住むTwitter上手い人の口車に乗せられていた可能性が高い。
そもそもその友人は可哀想なことに少しプライドが高く女々しいところがあるため、自己犠牲をして自分の主張を押し黙った後で自分が不快になったことを直接相手に伝えて反省させようとするきらいがある。
しかし私は嫌だったなら本当に嫌っていうライン越える前にそう言えよ。言えないなら後から反省させるやり方で攻撃してくんな。の一言で片付けるためなんのダメージも付いていない。

リテラシーの低下と自由という言葉の定義の変化。これら二つが現代人の持つ危うい弱さである。

また、分断を生みすぎて一切の出会いがなくなってきているとも感じている。
縁や出会いといった偶発的な出来事が私は好きだ。
構造的なものからするっと落ちていき、何か形を変えて、そこにはミスとされているものに似た何かがあり、緊張ともまた違う、何かが生まれているということだ。ジミヘンドリクスのギタープレイを見てて思うが、彼は完全に気分でギターを弾いているとしか思えない瞬間が存在する。
しかし現在では分断が生まれすぎてそういうこともあまり歓待されるようなことでもなくなってきた。
より多くの共通点、より多くの色気、より多くの万人に好かれる会話。などが必要とされている。
こういう人と出会えたらいいなぁ…。と思いながら生活している人なんているのだろうか。それだと理想が高すぎて、出会う人出会う人、減点法になり結局ステータスとかを判断材料にしてしまっていないだろうか。

誰とでも友達になれる。あるいはその人にワクワクする。全然違う人でも白黒ハッキリじゃ無いから面白い。
人間関係ってそういうものな気がするし、別に明日には全て忘れているようなことばかりだ。

人間関係や会話っていうのはひとえにセッションであるといえる。グルーヴを出せるのか出せないのか。私はそれだけを見ている。

それは自分に対してもである。
自分に対しても今の気分にどれだけ素直でいられるかが重要なのである。
今の気分に従順であるならばその日の選曲は間違いなく、気分良く過ごせるのである。選曲がいいということは、教養高いということである。

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