掃除婦のための手引書

最近は会社の往復の時間を有効活用しようと思い、読書をしたり文章を書いたりしている。

人生のいわば大変な時期を抜け、落ち着いた日常の中にいるので今は他人がどうとか自分がどうとか社会がどうとかもかなりフラットに見れている。

我らが労働者の鑑エリックホッファーに始まり、今はルシアベルリンの短編集を読んでいるのだがこれが面白い。
やはり無名の労働者階級の作家にもフラットにスポットライトが当たるアメリカという国が面白い。
米国名物セレブリティというのはやはりバカがバカを見て楽しむだけの文化なのだという感じがする。成金が我々に与えるのは資本主義の錯覚で、金の使い方にセンスあるセレブリティはどこか地味である。
セレブリティの銅像はどこかに建てられるかもしれないがいつか撤去される運命にある。通りの名前は余程の区画整理が行われない限り変わらない。セレブリティの名が通りの名になるのだろうか。

パターソンやperfect days批判でよく見られるこの物語には徹底したリアリズムがないだとか、こんな高貴な精神性で下等な労働をしている人間はいないだとか(あまりに酷すぎる弱者男性の妄想と差別心)の批判はこのルシアベルリンの半生と作品をもってして簡単にねじ伏せることが出来る。

実際に彼女は一生懸命に生きて、作品を執筆し、死んだ。まるでパターソンや平山のように生きて死んだのだろう。
もし"俺には学がある"と思ってそんな低級な労働やってられるか!と思っているのであればぜひルシアベルリンの短編集を読むことをオススメする。

短編であり小説というテイを取ってはいるがほぼ実録なのだろうということがありありと伝わってくる。
想像するだけで壮絶な彼女の人生から綴られる言葉は異常なほどに冷めた視線と諦念と人生を生きる喜びに溢れている。
「いいと悪い」という作品にあるように、他人というのはある種いいのか悪いのか全く判断が出来ない。業の深い動物であるということが理解できる。
作中に出てくるキャラクターに対していいも悪いもなく、ただただ他人としてそこに存在し続ける。
人の行動にいいも悪いもないんだな。とか、そうすることで自分というものを保っているんだな。とか、そういう感想しか湧かないものなのである。
人を助けるという行為も全て自分が一人になりたくないからであり、あらゆる革命運動にしろ、差別的行動にしろ、ボランティアにしろ、布教活動にしろ、全て孤独を避けて自分を保つということに起因しているのではないか。
今じゃ政治活動も党活動も全て演劇の小劇団を見ているかのようであることには変わりない。私にとって自民党も、地元の小劇団も、何も変わらないように見える。
そして全ての人は根底に優しさを持っている。その優しさが一人にしないでくれ。という哀願が原因になっている人も多いだろう。
貧乏と貧困は恐らく違う。貧しさの中にも物語は発生する。ルシアベルリンだって生活圏的には狭小だったはずだ。それでも物語を書くことは可能である。何も上流階級だけの特権ってわけではない。物語を書く、作品を作ることに資産がどれだけあるかは全く関係ない。
貧乏人の悲惨さを語る物語は私のツボなのだがそこにはどうしようもない人間の悲惨な実態が垣間見えるからいいのだと思う。

今じゃみんなセレブリティの真似をしている。
改革じゃぁ〜!だなんてことはない。共産主義が失敗していることは歴史が証明した。
でもあまりに皆セレブリティの真似をしている。私は黒のパンツに黒のパーカーを着てポニーテールにしてバスを待つ労働者階級の若い女性を見るのが好きなのに。

作品を作ることでセレブリティになることも有名になることも金を稼ぐことも目的化してはいけない。そんなことをしたら企業の奴隷に自らを成り下げる、商業化された便利なパシリ階級にまで芸術家が落ちてしまう。
それよりも自分そのものを打ち出していくことが快感でありそれに他者が共感してくれることが全てだろう。
大体セレブリティになったら大変だ。必要とされる能力が多すぎるし、尚且つ目立ちたがり屋という特性を得なければならない。

先ほどバスを待つ労働者〜という一文を書いたが、最近バスという乗り物が持つ特性が少し嫌になった。
会社までバスでも行けるのだが歩いて行っている。そちらの方が気分が良いからそうしているのだがなぜそうしているのか説明が出来なかった。
でも今日会社からの帰り徒歩で帰宅中に気付いた。
私の乗っているバス停は生産性が悪いし、運転手も機嫌が悪そうな人が多いし、おまけに乗客は老人か陰湿な若者しかいない。世の中の貧困の悪い部分を全て注ぎ込んだようなものだったからだ。

バス自体は好きなのに…。
やはり人が原因だったか。

しかしこの短編集のタイトル、手引書じゃなくてマニュアルのほうがいいんじゃないかと思っている。本編は彼女特有のちょっとコミカルな感じで重いテーマを書いている。コミカルに寄せていい気がする。
まだまだ途中であるが面白い話が多く、偏見がなく外連味がない。こういう人になりたいと思う。
それこそ醜い人間が跋扈する現代社会において、そのような人間でいることは至難の技だろう。
でも、出来る。
単純に、物事をありありと見ればいいのだ。

一年前から始めたこの文章を書くことだが、事の始まりはある特定の人物の分析だった。しかし偏見もあった。
今はもうない。多分この人はこうだから、こうなのだろうというよりは、そういう人なんだなと。感性と発想と生活の貧しさから起因しているものなのだと感じたのだ。
KOHHは数年前に頭は金持ち見た目は貧乏!と高らかに歌っている。

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