言葉はモノフォニック

言葉というものは信じすぎてはいけないものだ。
頭が良い人は言葉を使うことに長けていて、理屈で押し通すこと、自分の正しさを証明することなどを使って権力を握ったり、あるいは人に言うことを聞かせたりなどをしている。
いわゆるインテリとされる階層の人たちのことだが、彼らは彼らで知性を持ってマッチョイズムを体現している。
インテリは大抵ガリ勉なので脳筋に暴力で屈服させられることを恐怖に感じているのでいつも理論武装をしているように感じる。
今の社会ではインテリであればあるほど収入が高い社会が実現しているので頭がいい、知性がある。というのは持て囃されるし、勉強出来ない大概の人間は野良犬が言葉を覚えたら発しそうなことしか言わないのでやはりそういうことになっている。

しかし現状の社会に不満を訴える人の多くは知性があったりする。そうすると現在の社会への不平不満をやはり声高に表明したりする。自分は間違っていない。間違っているのは周りのバカどものせいだと。そいつらが足を引っ張るから俺の生活は良くならないのだと。
いくら理論立てて平易な言葉でバカにお前はバカだ。愚か者だ。と説明してやっても理解してもらえないだろう。それはバカはバカだからだ。
それであいつらってバカだよねって思っている仲間数人しか共感してもらえず決して生活は良くはならないものなのだ。
本当の賢人は、正しさなどこの世界のどこにも存在しないことを知っている。ので、正しさ競争を降りている。あくびしている。
自分が正しいことを声高に訴えたい。という人は現状に不満を持ち、プライドが高い。が、そのプライドを現実社会が悉く打ち砕く状態が続いている様が続いている。

ここで一つのライフハックを紹介したい。
自分は普通の人よりアホであるということを強烈に自覚しながら生活を送るということである。
そうすればあなたの給料が安いのも、周りにアホが多いのも、合点が行きませんでしょうか?

そもそも言葉というのは記号を用いた抽象的な表現である。あるイデアを言葉にするときにそのイデアに対しての定義づけは辞書で公には為されているわけだが、殆どの人がニュアンスを用いて定義しているに過ぎない。
だから、人それぞれイデアに対して持っているイメージは異なるため、私は言葉にそこまでの絶対的な信頼を持っていない。

私は連絡を取る時は電話をするタイプなのだが、それもその理由だ。文面だけだとどうもテンション感を感じ取りづらいからだ。別にテンション感なんてどうでもいいだろう。と思う人には文面でやりとりした方がいいのは間違いないのだが、私は様々な所作を見ることで話者の感情の読み取りを行い、会話を円滑に進めようと努力している。(雑談でさえ)
例えば人が怒っている時、そこには喜怒哀楽の全てが混ざっていて、怒りの感情の優位性が高いから怒る。
言葉は常に一つの口から出て、同時に幾つもの感情を吐露することはできない。様々な感情が混在している場合、最も優位性が高い感情を選び取り、その感情の語彙の中から言葉を選び発話している。
だからこういったケースではただ単純に怒っているわけではない場合でも言葉は怒りを優先させてしまうため棘のある言葉を選んだりしてしまうわけである。
しかしそれが対面ともなると声色や表情や所作といった感情の表現をすることができるアウトプットが身体性を帯びて多くなる。
そうなると言葉は怒っているのになんか悲しそうだぞとかそういうことまで読み取れるのだ。
人の感情は全てレイヤードされグラデーションされているものなのでセパレートされていることの方が少ない。
だからこそ様々な感情表現の所作を持って感情のハーモニーを作らなければならないのだ。
言葉だけでは伝わらないことが山ほどあるのだ。
言葉に絶大なる信頼を置いている人はこのことを理解した方がいいのではないだろうか。
言葉は常にモノフォニックであると。なぜなら口、あるいはキーボードを叩く指。これら全て、単一的なものしか吐き出せないのである。

音楽は常に、モノフォニックな楽器なのかポリフォニックな楽器なのか、別れる。様々な楽器を持ち寄り、オーケストラが生まれたり、バンドが生まれる。

私もつい最近まで社会への不平不満を吐露しまくっていたが、それも結局自分が甘えたかった。社会にままならない自分の現状をどうにかしてほしかっただけである。ということで帰結した。
もちろん生活は良くなってほしいが、有り余るほどの富を貰ったとて上手に使いこなすセンスが自分には無いだろうと思っている。
…まー俺アホだし、いっか。って感じである。

みんな自分が救われたい。助かりたい。という願いでいっぱいなのである。
この日本という国でならば、協調性を身につける。ということが救われることの第一歩である。

日本は山林が多く、海に囲まれているので、古来から山間部の狭い平野で人はひしめき合って暮らしていた。
そのため村社会が形成され、協調性の無い人間は子孫を残しにくいという特性が生まれた。
こうして国籍あるいは民族によって遺伝的特性が強く出ている性質が国民性と呼ばれるものになる。大和民族はえてして外交下手で、協調性が強い。
協調性が強い民族は、集団社会においては強さを発揮する。そのため工業化された社会では一目散に先進国と肩を並べることができ、戦争に負けても半導体を作りまくって金儲けしていたらアメリカに潰されたほどである。

であれば、変に腐らず、協調しとけば別になんでもない人でも受け入れられることが可能であるわけだ。

自分が蔑ろにされていると自覚する。というのは怒りの発動条件になる。
しかしそこで怒っていたら怠いそこらへんの不良とやっていることが何ら変わらないのである。あなたの毛嫌いしている不良の人間関係において大切にシノギにしている性質を、あなたも持っていて、それを声高に表明しているだけなのである。

もし自分が蔑ろにされたとしても傷つかないくらいにしておくことである。私もよく人と話しててこの人バカなんだろーなー。と思いながら話していることもあるが、その時点で会話は雑談だったとしても一度自分がこいつバカだなと思った瞬間成立しないので、分析に徹していることがよくある。
バカに蔑ろにされても、この人はこういう思いや感情が隠されているような気がする。など、心理カウンセラーになったつもりで接すると非常に面白いことがよくある。

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