因縁 / 楽園

因縁を最近はよく考える。
因果という言葉があるように偶然物事は起こり、そして偶然その結果が生まれる。生まれたら死ぬ。覚えると忘れる。出会うと別れる。このように物事の因果関係というのは常にセットになる。
その間にあるのは縁というもので、それはよく運命のように解釈される。
よく物語でも運命は変えられる。とか大言壮語でそこがテーマになったりしている。
縁というものは個人の主体が選ぶ、選び取ることが出来る。
運命というと決まっている感が強いのだが、どうだろう。
東アジアの宗教観では、今の家族はもちろん、偶然居合わせた人も何かの縁であると考える場合が多い。

私は外国人の友人が多く、自分は外国人向きの性質を持っているんじゃないだろうかと考え、日本を出て外国に移住したい気持ちを持ってみたりもしてみたのだが、結局考えるところ、自分が全く国籍などで人を判断しない。という性質なだけであったと感じている。
そしてそれは結局オープンマインドな性質を持っているということであり、その性質を持っている人たちは可能な限り引き寄せ合う。ということである。まるで磁石のように。

来日してきた外国人の友人は私とものすごく似ていた。違いといえば彼の方が積極的に人と関わろうとする向きがある。くらいだ。
彼は「オーラのようなものが人にはあるよね。簡単にはスキンシップを取れなかったり、話すときには必然的にリスペクトを持つような。そういうことを感じ取れない人が多いよ。そういう人は失礼に思う。それはオープンとは言わないよね。彼らがいかにすごいか、感じ取れないんだから。」という会話が印象に残っている。

つまり私が西洋社会に抱いていた憧憬というのは、西洋社会にはオープンマインドな人が多いだろうという理想を抱いていたからに過ぎない。でもそれでも、そこに住む人のリアルな感想を聞けたのが嬉しかった。
彼らには彼らの苦労がある。決してそういうことではなかった。全てが商業的になり過ぎているということ。生活にはコストがかかること。また音楽業界は税金によって金払いがいいバブルのような状況が起こっているが、クオリティとギャラが全く比例していないことなどを語ってくれた。
貴重だった。またダンスミュージックはもう過去の遺物(おじさんのもの)として受け止められていること。それから若い人はより商業的なものに流れているということ。を教えてくれた。

私はその友人と外国のコミュニティを持った友人たち含めてカラオケに行ったが、途中で英語を喋るのを諦めた。
だってここ日本だろ。と思っただけである。
結局外国人でもバカは多く、そこに土地性など存在しないのだと悟った。
そしてさらにそこにはゲイカップルもいて、それは別にいいのだが絵に描いたようなゲイカップルで、日本人の男の方はダサいLA英語をひたすら使っていた。それがなんかイラつかせた。彼は悪い人間ではないのだが、アホなんだろうな。

競争とはある程度距離を置けて、謙虚にいることができるのであれば日本にいるのも悪くない。と感じる。その上でもう少し生活コストを抑えられたらいいのだけど。とも思う。
たまに西欧周遊するくらいでいいのかもな。とも思う。

また縁とは?ということを考える。その友人と私の縁は?すごいところから来た。私は私でいるだけでそんな友人をGETできた。何も自分の実績とかでも何でもない。私の他の外国人の友人も皆成功しているのが面白い。
私はもっともっとみんな幸せになれよと思う。
そうすることで私が地下の偉人のようになれる。私は何も受賞したりしたくない。ただヤバい奴が日本にいたという伝説になりたいだけだ。
絶対に白人に媚びたりすることなく。

この世界に楽園などない。
どこも苦境に立たされている。
幸福の一つの形として結婚し出産し、一生懸命家族のために働き自分が受けた恩を後進に返し、自分は死んでいく。という形がある。それは人間が発明した一つの絶対的な美しい幸福の形である。
しかし、それとは別種の美しい幸福の形もある。そして苦難にも美しさがあったりする。
つまり幸福も苦難も遠目で見れば、どれも一種の儚いものであるという認識である。

ぶっちゃけなんでもいい。どうでもいいなと感じる。

ともあれ、私は私に似ている人たちが勝手に集まるシステムが出来上がった。ものすごく幸せだ。
これ以上のものは何もないように感じる。どれもこれも私は私で決断して行った先に出来上がったシステムであるように感じる。
私のような能力のない人間は、優れた人の真似をするしかない。だから真似をすることが悪いことだと全く思わない。
ただ美しい真似と美しくない真似があるのだ。

その人の本質から少しでもズレれば全く美しくなく、滑稽なものになる。
そもそも美しいと感じるものは時代によっても変わるのだが、根源的なものは一緒である。なぜピアノやギターといった楽器は世界中でこれほどまでに一般的なのかを考えると、それは普遍的な美しい響きを有すからである。あとインターフェースとして優秀だからである。

演奏者によって表現されるものが違うのは、無意識が違うからである。考えていることが人それぞれ違うからである。

例えば、このバンドが好きな人に悪い人はいない!ということを力説する人がいるが、果たしてそうだろうか。私はそうは思わない。世の中にはいろんな人がいる。そんな同質性で人と人が惹かれ合うことはありえない。もっともっと無意識的なところで人と人とは惹かれ合う。

私がよくキレていることの一つに人を上下で評価する形というのがある。
しかしこれもよく考えると、自分の中にある自分というものを変な形で受け入れてしまったことに起因している。
自己否定だけ上手くなって、自分の中にいる自分を監視者のようにしてしまうことである。
そうすると社会的にどうかと、まるで軍隊の教官のように自分をジャッジしてしまう。
自分のことをよくわかっている自分だからこそその攻撃性たるやとても鋭利なナイフのようなものだろう。

俺の方が上だとか、俺の方が下だ、とか、そういう考え方をする人間は自分の中に監視者がいるから相当辛いだろう。
さらにいうと、そんな人に良縁は巡ってこない。いい人の心の中には監視者は存在しない。
ただ息を吸って吐いて暴言もついでに吐いて、死んでいくだけだ。
可哀想だが為す術もない。


私の友人が最近変な女にハマっている。
見ていて辛い。恋は盲目であると言える。
ま、なんでもいいんだけどね。
恋というのは人を暴走モードに駆り立てる。

あーなんて。なんてことなのだろう。

私は悲しい。

けどしょうがない。

乳丸出しである。乳丸出しの人間でいい人間を見たことがない。

乳丸出し人間は怪物である可能性が高い。偏見であるが変なところに剃り残しの毛が存在する。

はしたない!と言いたいわけではない。私にはInstagramに乳丸出しの画像を載せる必要性がわからないということだけである。

乳丸出しはすぐ男と寝る。それは私の人生の統計から見ても明らかだ。
そんな女と寝てどうなる?!
Instagramをやっていないかやってても見ているだけくらいの美人(一定数存在している)と寝たい。

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