芸術は爆発だという言葉が好きな人は承認欲求強め

まさに私もそうでしたといったような文章を読んだ。
きっとこの人も私と同じシャイのくせにプライドが高い人の一人なのだなと感じて読ませていただいた。
その文章の中には全ての人が表現活動をすればいいという話をしていた。こういう時期は私にもあったし、つい最近までそうだった。そして今もどこかでそう考えている。がしかし、これには幼稚で青臭い考えも混ざっている。
それは物語れない人たちは確かに存在していて、それは共感能力が低いと言えるかもしれない。何もその方達がいけないだとか、悪いだとか、劣っているとかではなく。ヒトという種の多様性において、そういう性質を持つ個体もいるというだけの話だ。
そういう人にとってはそれは重荷になる。

さらにこういった社会。日本国というこの国の社会という前提に立つと、世界的にも稀に見るほどの豊かさを誇っている。世界の子どもの4人に1人はご飯を満足に食べれていない。これがヒトという種の適切な個体数なのだろうか。
その豊かな時代に生まれ落ちた我々はどうしても貴族的思考になって人生を歩もうとしてしまう。さらにその中でまさに"5XL"な欲望を持ってさらに豊かになろうとする人まで続出している始末。であるからこそ、そういった、全員表現をすればいいのに。という思考に陥る。
自分はこういう願望があり、しかしその願望を叶えるほどの実力が備わっていないので、全員にもやらせてあげたいのです。など、他人からしたらはた迷惑だろう。自分が働きたくないことへの責任転嫁である。

ただ、私も一秒も働きたくないのは本音だ。
だが労働をしなければ食べていけないのは事実であり、それがこの地球に住まう大多数の人間が辿る末路である。
だから私はこう考えている。
人間がまだ狩猟採集生活を送っていた時代、村や家族といった小さな社会を形成しだした頃から芸術はあったことはわかっている。
ではその芸術があった時代において作品を残すだけで村民から食事を分けてもらえた人なんて本当に一握りだろう。

小さな社会で芸術を嗜むのであれば自分の食い扶持だけは用意してマンモスの肉を焼きながら自分の創作活動に精を出していたはずだ。
何が言いたいかというとこの社会でもサバイバルだと思うと不思議と労働しなきゃなと思わざるを得ないだろう。
愛する自分や家族や仲間のために働くのであって、決して会社のためではない。それでいい。
間違いないのは労働と制作は全くの別物であるので制作することそれ自体が疲れることでは全くなく、その逆の癒しの行為である。
であるからこそ、仕事したくないということは非常によくわかる。が、仕事も物語のネタにもってこいだったりするんです。と言いたい。

芸術表現一辺倒でいきたいのはみんなそうで、本業とは別の仕事でまた別のスキルを身につける人間はごまんといるだろうがそれは何も悪いことでない。し、この世界は巧妙にハイテク化されたサバイバル社会なので(衰弱して死ぬことは逆に難しくなっている)サバイバル術の一つに過ぎない。

尖っているのはいいことだ。
だが、深い愛で、誰が何やってようが、それでいいし、むしろ何やってるの?というオープンな態度は常に必要だろう。だが、別に毎日出来なくてもいい。アンラッキーな日は突然やってきたり続いてみたり、ラッキーな日も然り。生活というのはそういうものだ。
誰かがあなたに何か語りかけてきたときに、客観的に自分を振り返ることのできる勇気は必要だ。それは天気のせいでも気圧のせいでもあるのだから。





この米国人たちの思想に共感する。
制作は冒険のようなものだ。
何も頭でっかちになる必要は全くない。酔拳と形容するのは甚だナンセンスだと感じるがゾーンに入るというのはいい表現で、そういうことだと思う。

サンプリングミュージックのいいところは、誰にも出来そうで出来ないところ。

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