本当の愛は、祈りから生まれる。「祈ることしかできない」という表現は適切ではない。祈ることさえできれば、充分に愛を全うしている。 祈りの結果は神様の御心を知る手段に過ぎず、 祈りの目的は祈りそのものである。 それを信仰と呼ばずして、何を信仰と呼ぶ。 何故今に至るまで気づかなかったのか。 どれほど愚鈍であれば気が済むのか。 バテシェバとの初子が、病気に打たれた時は泣き伏し断食したダビデ。しかし、その子が死んだ時にはケロッと立ち上がった。(第二サムエル記12章) この箇所がずっ
情報の民主化は個人の分断を招いた。その表面的な結果として、人間関係は情報の取得が主たる目的であったこと、即ち処世術に過ぎなかったことが露見した。極力人と関わらないほうが楽に生きられるには違いない。そして、得てして水は低きに流れていく。 かといって、盲目的に権威者に従うことにも危険性が付き纏う。右も左も、行き着く先は破滅である。絶対的な救世主なくして、どうして人間は救われるだろうか。 社会は、横並びに手を繋ぐことを要求する。飛ぼうとする鳥の足を手で捕らえて離そうとしない。 「
「先生の言葉に重みを感じられないのは何故なんだろうって、最近ずっと考えていたんです。」 学生は緊張した面持ちで、カッターシャツをピチピチに着こなした小太りの男に意見を投じた。 「たしかに、それは一理あるかもしれませんねー。」 「…それは肯定ですか、否定ですか?」 「どちらでもありません。私は可能性を示唆しただけです。」 「いつもそうやって自分の立場を表明しない。だから、先生の言葉には重みがないんです。」 「たしかに、それはそうかもしれません。でも、こんな私でもここ
「あなた、最近の若者をどう思う?」 女はビールを飲みながら、向かいに座っている男に、ただぼんやりと質問を投げかけた。 「まぁ、気の毒だね。この国、もっと言えばこの世界の未来展望に希望があると思えないからね。昔はまだ良かった。多くの人が無知で居られたから。現代は、知らなくていいことまで教えてくれる親切な人が増えすぎてしまったんだね。 余分な情報ってのは、希望という太陽の有り難みをしみじみと感じる冬の部屋の中に吹き込むすきま風みたいなもんだ。その隙間が日に日に大きくなって、今
「信仰の旅に行ってくる。」 妻にそう言い残して、その日曜日は、聖書を片手に未開の地へ足を踏み入れた。 僕がイエス様に出会ったのは、25歳の誕生日。出会い方が特殊だったこともあり、当初から教会へ行く機会を持たないまま、早6年が過ぎた。なんとか信仰を保ち続けられたのは、出会った方々の祈りと、神様が共に居続けてくれたからに他ならない。 そんな危うい信仰生活を送る中、ようやく教会の扉が開かれる。そのきっかけになったのは、妻がイエス様と出会ったことである。 結婚した時、妻はイエス様
高慢とは、なんと恐ろしい罪だろう。 脳内で、自らを天に引き上げ、他人を地に貶しめる。 神に近づいたつもりで澄ましていて、しかし苦労して築き上げたその塔は、やがては跡形も無く崩れ去る宿命にある。 少しばかり知性に恵まれているからといって、それが神にとって何の益になろうか。 見た目が優れていようとも、経済に満たされていようとも、天賦の才を発揮していようとも、それが利他心によって活用されない限り、益になるどころか、自らの魂を傷つけてしまう。あらゆる不祥事は、おおよそこの罪に基づく
実体を持つ愛の言葉は人の心を耕す。 祈りとは、言葉以外の何物でもないが、生きておられる神様の前に捧げられた時、実体を帯びて世に愛をもたらす。 はたして、私の言葉は実体を持っているだろうか。 私が、知恵ではなく理屈を習得しているのみであれば、農家が、作物でなく雑草を育成しているに等しい。なんと愚かなことだろう。 主を畏れることは知識のはじめ、と聖書に度々書いてある。 叡智は人の心を耕し、へりくだらせるが、高ぶる知識は強い農薬のように土壌を殺し、人の心を固くする。 その違いは、
私が神の愛を知ることができたのは、「私を救うため」というよりも、「その私が次の人に神の愛を伝えるため」だったのではないか。 だとすれば、その業を怠るなら、わが救いには半分の価値しかない。 しかし、それは生半可な事業ではない。アンパンマンのごとく、自己の魂の一部を他者に分け与えるに等しい。命を賭するほどの覚悟と忍耐を要するが、その価値は有り余るほどに有る。 流れる清らかな川は、多くの生命体を養い、清浄な空気と美しい景観をもたらす。 滞留した池には、ドブガエルやドジョウが泥の中
冷たく透き通るような空気は、夜空をより鮮明に写す。素晴らしい秩序、美しいデザイン。 目を上げ、天を見続けよ。暴虐と欺瞞に満ちた地に、落とされてはいけない。 知恵を得よ、叡知に満たされよ。 それは真理の入口、聖別の隔たり。 愚かな者であり続けるな。知性を尽くして、あなたの主である神を愛し続けよ。 自然の秩序の運行を知りながら、その創造者は知らないと云う。 創造者を知りながら、愛は知らないと云う。 肉に生きれば重力に抗えない。 魂のみが法則から自由である。 人生に意味
そろそろ自分が主人公だと思っていた舞台の幕を閉じる時が来たらしい。嗚呼、何も実らぬつまらぬ劇だったが、結果的にそれは喜劇だった。それで十分なのか知らん。 いつの時代も主人公は若者であって然るべき。引退者はそれをサポートする脇役に徹しなければならない。それができて初めて老衰の価値がある。自分が主人公だと思っている内は、どんなに歳を重ねていようとも、その人は大人に満たないのかもしれない。 他の例に漏れず、キリスト教会に若者が少ない。福音は冥土の土産でもあるが、一義的には「生き
キリスト者は一度死ぬ必要がある。肉、自我、罪。これらの要素は不可分であるがゆえに、いずれかを焼き尽くそうと思えば、他の要素も焼き尽くさなくてはいけない。また、いずれかを焼き尽くせば、他の要素も消滅する。 賀川豊彦の光を浴びる。彼の聖さの前に、僕は全く無価値なものに思える。彼は若かりし時に、社会的、肉体的な死を垣間見、そして、救われた肉体を貧民窟に投げ捨てた。 そこで神が働いたとしか思えない偉業が巻き起こる。大正時代にミリオンセラーを記録した自伝的小説「死線を越えて」が生み出
残暑の厳しい9月も中旬。空は未だに夏の顔。 異常気象が常態化すれば、それは正常ではないか。物事を正しく見ようとしなければ、成長はなく、生きる意味も損なわれてしまう気がする。そのための方法としては、マスメディアは極めて不適切で、とりわけ現代のテレビは、思考搾取装置である。 己の頭で内発的に思考している人間は、どれくらいいるのだろうか。疑問が浮かんでもすぐに検索して答えにたどり着ける利便性は、人間の尊厳を奪ってしまう。テレビに張り付いている人間の尊厳はどこにあるのだろう。
人は、発光体ではありません。 「恵みという光」に照らされているだけの存在である事実を忘れたときに、背後から忍び寄る「高慢という闇」。 それは、アダムとイブから受け継がれ続けている「原罪」の根源的な原因であり、サタンの反逆の原因でもあります。 自分が光っているからといって、自分が発光体だと勘違いしてしまうと、神に背を向けて敵対することになってしまうので、常日頃から自戒の祈りを持ち続けられますように。 では、発光できない生物、人間がすべきことは何か。 一つは、愛という光を浴
この言葉は、聖書を読んでいるときに、ふと思い浮かんだ言葉なのですが、熟思していなかったので、この場を借りて考えてみようと思います。 ところで、どんなに聖書の言葉を吸収したつもりでも、純粋無垢な信仰には勝てないと感じることがあります。皆さんも経験がおありかと思いますが、信仰のピークは初期ではないかと。 遠い目で、自分にもそんな時期があったな、と感慨に浸るマウントおじさんになりたくない。。 しかし思えば、その初期の状態は、愛ではなく恋なのです。つまり、熱しやすく冷めやすい。で
一般的に、クリスチャンとはキリスト教徒の俗称だが、信仰の定義の曖昧さにおいて他の宗教に追随を許さないが、赦し赦されるための御言葉、それが福音である。 しかし、改めて、 イエスキリストが今も生きていることを信じているか? あなたは救われていて、天の国に属しているか? あなたの中に聖霊が宿っていて、神を愛し、隣人を愛せているか? と問われると、僕は不安になってしまう。 イエスキリストと出会って早7年が過ぎようとしているが、成長しているどころか、むしろ信仰が後退してしまったので
皆さんご承知の通り、世の中はバケモノに溢れています。そして、かくいう僕もその一人。しかし、最近になって、ごみ屋敷のような精神がゆっくり分解されている気がする。 どうして、人間は生きながらにして腐敗していってしまうのだろうか。どんな分野であれ、最終的には悪がのさばるという法則。どう考えても、人間のベースは悪である。 朱に交われば赤くなる。目に見える存在に、完璧な白は存在し得ない。だから、赤ければ赤いほど良いとして、いいものだろうか。 大きい敵に勝つには相手よりも大きくなれば