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なぜ人は物語を創るのか

 DACで小説を書いている黒崎きつねです。

 物語は、人間が生きるために絶対必要なものか。実質的に言えば、必要ないのだろう。衣食住や金銭などと比べたら、の話だが。人間は体という器のためにたくさんのメンテナンスをする。肌や髪や歯、視力や肩の痛みなどに対し、洗ったり、薬を塗ったり、メガネなどの補助器具を使う。

 一方、心はどうだろう。感情に流され、過去に縛られ、目に見えないものを溜め込んでいく自分の心に対し、明確なメンテナンスができるのか。趣味や一般的なリフレッシュ方法などは、あくまで一時的なものであり、蓄積したもの自体は消えていない。水が水蒸気に変わっただけだ。なくなったように見えて、確かにそこにある。

 創作という行為は、自分の中にある消化しきれない感情や事実を、物語という器に移すことだとオレは思う。創作の始まりは妄想や願望や思い付きだが、その根底には満たされない何か、消せない何かが潜んでいる。

 許せないことや目を逸らしても居座り続ける過去、殺しても殺しても消えてくれないものを、自分という器から物語という器へ注ぎ込む。それは物語の色となり、味となるのだ。無論、完全に自分の中から消えるわけではない。だが、減らして幾分か質量を軽くすることはできる。「消す」というより、「自分から離して半分にして保存する」感覚だ。
そうすることで、自分の体験や思想を客観的に見ることができる。その経験が無駄でなかったことを証明することも可能だ。

 ただの嫌な記憶にしないで、余すことなく使ってやろう。オレはいつもそう思っている。ムカついたことも、悲しんだことも、喜んだことでさえ、全て創作の素材になり得る。

 体だけ健康であっても、人間は生きていけない。息をしていても、生きているという実感が湧かなくなる。死を望むようになる。体がどれだけ動いても、心がついてこなければ意味がない。心のメンテナンスのために、物語は必要だ。電化製品が存在しなかった時代でさえ、お金という概念が存在しなかった時代でさえ、宗教という心のメンテナンスは存在した。

 創作は、与える方も受け取る方も救われるという機能がある。全ての作品が自分を救うとは断言しないが、同じ傷を負った作者に共感し、溜まっていた泥水を清水に変換する。
 人間が突き動かされ、前に進めるのは、自分ではない誰かが語った言葉や物語があるからだろう。小説や漫画、アニメ、音楽、ゲーム、時に芸能人や家族、友人、普段関わる他人の何気ない一言がそのきっかけとなり得るのだ。
 お金や食べ物は、生きるために必要な「義務」である。物語は「義務」ではない。自分が望んで手にした「希望」だ。
 さあ、変換しよう。自身の絶望を希望へと。

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