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ヘンリー、君死んじゃった

 昨日はD作に続いて、ヘンリー・キッシンジャーも死亡が発表された。おそらくはもう既にいなくなっていたのに、公表されていなかっただけの話だろう。100歳というキリのいい数字で死去したことは、アメリカの世紀の終わりということを言っているのだろう。ヘンリー・キッシンジャーといえば今のペトロダラー制を作った男であり、彼が死亡したということはペトロダラー制が死亡したということだ。これからますます、近現代史のウソと虚妄を暴露する情報が出てくるのだろう。UAEが原油取引でドルを全廃したという記事が出ていて、真偽がよくわからなかったのだがどうやら本当のようだ。

 世界覇権の大きな移行や、経済システムの変革、社会の激変といったことはもちろんあるにしても、それとは別個に自分自身の生活と人生があるということは常に念頭に置いて置かなければならない。近現代における虚妄の一つが、自分の生活と社会情勢が一直線につながっているという思い込みだ。日々いろいろなニュースや出来事が、メディアやインフルエンサーを通じて配信される。それを追いかけていくことが、世界情勢、社会にキャッチアップしていくことと同じことだという勘違いがやがて生まれる。

 この虚妄を支えるのが実証主義で、「出来事があったのであれば、史料やエビデンスが残る」という考え方だ。マルクス主義的な歴史学で特に酷いが、歴史的な史料に記載されていない事実はなかったものとされる。実証主義的な歴史学の祖と言われるのは18世紀のコントで、それ以前は歴史はヒストリア、古代ギリシア語ではたんに「調査」という意味の言葉で表されていた。「調べたら、こうだった」というだけの話で、証拠があるとか、科学的な実証に基づいてどうこうするということではないわけだ。

 こういう実証主義がなぜ生まれてきたのかを長いこと考えていたのだが、おそらく「出来事があれば、エビデンスが残る」という観念を強固に植え付けることによって、「エビデンスがあるのだから、出来事はあった」という転倒した論理を受け容れさせやすくするため、というのがいまの私の考えである。エビデンスはでっちあげられる。実際にはなかったことであっても、それを表現する資料があれば、本当にあった出来事であるかのように見せかけることができる。いまのSNS上で展開されている情報戦は、まさにその転倒した論理の上に構築されている。

 いまやフォトショップによってネット上の画像の信頼性は皆無だし、動画にしてもすでにそうだ。ARがさらに発達していけば、他人のスマホのカメラにARのハッキングを仕掛けて、実際には存在しない物体がリアルタイムに目の前にあるかのように見せかけることも容易になるだろう。電子化された情報が一切信頼できなくなってインターネットは崩壊する、とは前々から私は時々書いているが、そうなりつつある。ではどうなるかといえば、中世というのは行き過ぎで、まあ日本の昭和、もう少し行くと江戸時代くらいな感じになるのだろう。ネットやデジタルは情報伝達の一つの手段に過ぎない、という黎明期の位置づけに戻り、電子によって毒されていない本来の人間の感覚や知覚を研ぎ澄まして楽しむものだけが高級なものとして残っていく。世界覇権がどうなろうと、自分の生活は自分で自分なりに構築していかなければならない。それはキッシンジャーが死んでも変わらないことだろう。

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