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すべては天の意思に

 世の中が変わる!というと、たいていのアホな人間はある日を境にがらりと変わるというようなことを思い描くのだが、実際の変化は漸進的で、気づいたらすっかり変わっていたというのが実際である。

 それでも日々いろいろなところに変化の萌芽・先行指標・代理指標はあるもので、周囲の状況のみならず、自分自身の考え方や着目する視点が変わった、気分が変わったというようなことでさえ、大きな変化やその予兆となっている。それは客観的な事実ではなく、数値として表れてくるものでもなく、誰かが自分はこう思うとはっきり明言するものでもない。だからある変化をこうして察知したからといって、その理屈を他に転用して次の変化を予知しようなどということはできないし、それを他人に説明することもできない。自分でなにかしらの努力をしたり、ある方法論に従ったからといってそれができるようになるわけでもない。本当にある日突然気づくとか、悟るといった体験を通してしか、こういうことは感覚としてわかるようにはならない。

 わかる奴はわかるし、わからない奴は死んでもわからない。世の中のあらゆるものごとについて、本来そうであったはずだ。近代の科学や啓蒙主義の普及によってはじめて、世界は単一のロジックが貫徹している箱庭みたいなもので、そのなかには必ず通用する普遍的なテーゼが存在するという考え方を、みんななんとなく前提とするようになった。

 木田元はこうしたモノの見方を総称して「哲学」と言っている。つまり、存在するものすべての総体を一つの対象として考える、全体としての世界が思索の対象となるという考え方そのもので、世の中に存在するもの全ての集合をまず用意して考えようということだ。これは古代ギリシアにおいて発生した特異なモノの見方であって、フッサールやハイデガーなどの現象学とそれ以前の「哲学」を峻別するためにこういう説明がなされている(『反哲学入門』)。

 その哲学的なモノの考え方の延長に、社会主義と共産主義が生まれてくる。なぜなら市場全体、市場参加者全体というものを想定して、そこでの需給関係を完全に言語的に把握できるという前提からのみ、計画経済は成立するからだ。そしてそれは不可能である。人間はありうる取引・需給の総体を事前に知ることはできない。劣化した政府では、国民全員に一意の番号を割り振るということすら満足にできない(笑)。

 このことを逆からみると、そのような管理や総体としての市場を見る存在がなくてももともと人間や社会、市場はうまく機能するようにできているのであって、かえって人間の浅知恵によって物事の自然な発展や展開を阻害しているのだと言える。老荘思想はこういう立場で、「大道廃れて仁義あり」、つまり大きな自然に沿ったわざとらしくないやり方が廃れて、仁だの義だの信だの礼だの、儒学のように口やかましい連中が蔓延るようになったのだ、ということだ。最近の企業活動はまさしくそうだ。

 そういう人智に依らずとも、なんとなくうまくいくのはなぜかといえば、それは天の配剤であるという他ないもので、人間理性や言語によって把握することができないものである。これが古の賢人の考え方そのものであって、昭和ぐらいまでは現代人もそういうふうになんとなく思っていたはずだ。

 「アメリカはジャイアンみたいな国だ」というのは、非常にわかりやすく納得がいく説明だ。しかし、アメリカはジャイアンそのものではない。あくまでも比喩に過ぎない。だが非常にわかりやすく強力な説明であるがゆえに、みなが納得してしまう。科学的な知識も、これと同じようなものだろう、という考え方は昔からある。つまり観測される事象とデータの内容を非常によく説明する仮説ではあるが、現象そのものではない、ということだ。実際にはほかの要因が働いていて、その要因はそもそも人間の認識を超越したものかもしれない。そうなるとそもそも人間理性を超越しているので、文字通り天を持ち出してきて収めるしかない。神でもよかろう。しかし今度はオレが天や神の意志を代弁しているというような奴が出てくるわけだ。それに騙されて、隷属するのが好きな人たちも結構な数がいる。

 しかしまあ、全体として世界が科学主義・合理主義・啓蒙主義からそうではない方向にふたたび向かっている感じはある。フラットアースなどが流行ったりするのがそれで、これも蔓延りすぎた近代的な価値観・モノの考え方から脱却するための一種のショック療法的なものなのだろう。


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