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インフレ時代の考え方

 昨日函館では雪が降った。今日は暴風雨となっていて、函館新道では相次いで事故が起こっているらしい。

 しかし自分自身も運転している実体験からいえば、道に雪が積もっていてもアホみたいに加速したり、こちらが路面の凍結を予想して法定速度程度で走っているとピッタリ後ろにくっつけてきたりするバカどもがはびこっている現状から、立て続けに事故が起こっていたとしても宜なるかなといった感想しかない。特に高齢のドライバーは、車間距離とか制動距離といった概念を教習に通ってからとても長い時間が経過したために忘却してしまっているものが多い。雪が降り、雨が降り、しばらく晴れてまた気温が下がると路面が凍結するという初歩的な物理学さえ忘れてしまっているようである。若いドライバーは教習所に通っていないので、そもそも知識がないのだろう。

 私ももらい事故をしては良い迷惑なので、ドライブレコーダーの作動をきちんと確認して、極力交通量の多い時間帯は運転しないようにしている。無駄に急ぐ運転をするのは、時間によって給料の決まる賃労働に従事しているからに他ならない。数秒、場合によっては数ミリ秒を節約するために加速したり急ハンドルをして事故り、数日、数ヶ月を無駄にするというのはどう考えても間尺に合わない計算なのだが、読み書き算盤をおろそかにしてきたこの国の愚民化政策の輝かしい成果として、平衡感覚を欠いたバカが大量に生み出された。こんなリスクとリターンの非対称性など、統計学の初歩の初歩さえ学ばなくてもわかりそうなものである。

 さて今回の記事のタイトルは「インフレ時代の考え方」ということで、今日ツイッターを眺めていると次のようなツイートが流れてきた。

 これは今年の1月12日から14日にかけて幕張メッセで行われた東京オートサロンというイベントで、R33 GT-R 400Rが5億円で出品されていたところ、石油王(かどうかは知らないが、金持ち)が買ったということらしい。なんとも夢のある話であって、これまでのデフレ時代からの考え方を変える題材としてちょうど良いだろうということでnote記事でも紹介することにした。

 そもそも「モノには定価がある」という考え方は絶対的ではない。いまのように商品に定額の値札を貼って売る、という売り方は、あまり新しいものではない。日本商業史を辿ると、定価売りを始めたのは三井越後屋だと言われている。それまでの呉服屋は、大名や富豪など、金持ち相手に信用掛け売りで、値段も相手の顔を見ながらいい塩梅に決めていた。それを三井はやめて、反物の長さあたりの定価をつけ、掛け売りをせずニコニコ現金払いで決済するという方式を始めた。これによって、売り手は手早く現金収入が得られるのでキャッシュフローが安定し、買い手も提示された値段で安心して購入することができるようになった。

 しかし、この弊害として現代のように「モノにはなんでも定価がある」というような誤った観念が広まってしまうことになった。経済学ではさらに適正価格とか公正価格とか、輪をかけてデタラメな概念がまかり通っており、人々の思想を社会主義に染め上げるのに一役買っている。価格とは、買い手と売り手が売買するに当たって合意すればそれがすべてであって、「適正な」とか「公正な」価格など存在しないと考えるべきなのである。自分が買いたいと思った値段で買い、自分が売りたいと思う値段で売れば、それで立派な商行為として成立するものだ。999人に罵倒されても、1人その値段で買う奴がいれば売買としては成り立つわけで、そういう良い買い手一人を見つける、ということが重要になってくるし、そこでは近代的な、大衆を相手にしたマス・マーケティングとも異なる力学が働くことになる。

 「高値づかみした買い手は損じゃないか!」という批判がありそうだが、モノというのは高く買えば買うほど別の力学が働くようになってくる。上述のスカイラインの例でいえば、あのR33を5億で買った買い手には「R33を5億で買った男」という評判が着く。これをソースティン・ヴェブレンは「顕示的消費」と呼んだが、人類社会では無駄金を遣うことがステータスを表す記号となる。ヴェブレンは、たとえば貴族は実際に家事や仕事を遂行するのに十分なよりも多く召し使いを雇うが、その業務の需要を超過して雇われている召使いは、「主人の暇を代行するために雇われている」という。つまり、「俺はこんな余剰人員を抱えるだけの金持ちなんだぞ」ということを表現するために召し使いを雇うのである。日本の大企業でも、何をするのかよくわからない部下を多数連れてくる取引先がツイッターで揶揄の対象となったりするが、あれも一種の顕示的消費行動だ。金持ちになればなるほど、そういう示威行為にカネを遣いたくなる。バブル崩壊から30年以上、右肩下がりの衰退縮小経済に生きてきた日本人にはイメージしづらいが、本来カネというのは無駄に遣ってなんぼなのである。我々庶民は富裕層が無駄に遣ったカネのおこぼれで生きているようなものであるので、大金持ちが無駄金を使ってくれないと困るのである。無駄をなくせなくせと叫び続けた30年間はそのまま失われてしまったではないか。

 幸いなことに日本もデフレからインフレに転じて、宵越しの金を持っても仕方のない時代に突入しつつある。カネは持っていてもインフレで腐っていくので、わらしべ長者よろしくいろいろなモノと交換していかなければならないのである。バカな運転をするとマイナスの不確実性に殺されるが、賢く売る努力をすればクルマが5億で売れたりするのである。そういうプラスの不確実性に身を置くのがこれからの時代の生き方であろう。


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