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定住・農耕という軛

 人類社会を見る視点として私が依拠しているのは、「人間は遊動生活に適するように進化してきたにもかかわらず、定住を強いられており、そのためにさまざまな不具合が生じている」という大きな仮説である。これはもともとは7〜8年前に國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』という本で知った視点で、様々な現代社会の問題をよく説明できる仮説として優れたものだと思っている。同著は「退屈とは狩猟採集を生業としていた頃に発達させた脳や身体の能力を持て余している状態のことである」ということを様々な例証を挙げながら考察している。

 現代社会でも、たとえばスーパーマーケットやデパートは、商品を「狩猟する」ことを擬似的に体験させる場所として成立している。必要なものはネットですぐ届くようになった最近の世の中でも、スーパーやデパートは依然として存在している(儲かっているかどうかはまた別問題だが)。また実際に町中を歩き回ってポケモンを探して捕まえる「ポケモンGO」は、まさに狩猟採集の疑似体験で、世界中でヒットしたほかひきこもっていた人も外出するようになったという事例さえあるらしい(定住の極地がひきこもりといえる)。それくらい、出かけていって獲物を捕るということに喜びを感じるのが人類なのである。

 この「定住は人類に無理を強いている」史観の最新の事例が、ジェームズ・C・スコットによる『反穀物の人類史 国家誕生のディープ・ヒストリー』だ。この本では家畜や栽培される植物のように人間も「飼い慣らし(domestication)」されることによって国家が誕生した、とする。

 有史以来、というか文字による記録そのものが、国家というものの誕生と密接に結びついている。なぜなら記録とは穀物の収穫高の測量であり、分配の基準であり、翌年度にあり得べき収穫高の予測であるからだ。これまで語られてきた歴史や道徳は、すべて「定住こそが偉大である」、「遊牧・遊動的な生活を送るものは下等な人類である」というテーゼが土台になっていた。なぜならば、放っておくとどこかに行ってしまう人間を一カ所に留めおき、生産活動に従事させ、そこからの上がりの上前をはねるということが国家権力の営為の本質であり、有史以来の人類史はすべてその定住VS遊動という二項対立の相克として捉え直すことも可能だからである。マルクスの階級闘争史観ならぬ、定住強制史観とでも呼ぶべきもので、あらたに人類史を考え直すべきときに来ているのだろう。

 同著で特に面白かった内容として、「なぜ豆類やイモ類ではなく、小麦が国家の基盤をなす作物として採用されたのか」に関する考察がある。それによれば、小麦は地上で成熟するので、徴税官がやってきて生産高を測定しやすい。また収穫期がはっきりしているため、徴税の業務に沿っている。一方の豆類やイモ類は、イモは地中で成熟するため納税者が成熟したイモを隠してしまいやすく、豆類は年中収穫できるため、課税の基準となる収穫高をいつの時点に定めればよいのかがはっきりしない。小麦は「徴税業務に適しているから」選ばれた穀物だというのだ。古代中国でも江戸時代の日本でも、商人は地位が低いとされたのも、農民に比べて課税が難しいからだ。

 もちろんだから我々も定住をやめてしまおう、ということではない。定住社会にどっぷり浸かっており、それをやめることなどもはやできないのは明白だ。しかし、本来的に無理なことを強制されているのだ、ということを自覚することで、たとえば散歩するようにしてみたり、定期的に引っ越しをするようにしたり、現代社会でも快活に日々を送るための工夫のヒントが見えてくるだろう。

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