石見の銀に関連する覚え書き
最近はメインストリームでも金銀に関する肯定的なニュースがちょくちょく出始めている。
たとえば以下のCNBCの記事。
2024年の銀の生産量見通しは10億オンスで、2億オンスほどが赤字つまり需要超過となっている。
またロイターでは、「なぜエジプトで銀は新たな金なのか」というタイトルの動画が投稿されている。
エジプトでは婚約の贈り物として金の人気が高かったが、最近では銀の人気も高まっているという。
株はファーストリテイリングの柳井氏が2023年7月に引き続いて大量に売っていることが報じられている。アメリカではザッカーバーグやベゾスが保有株を売っていたし、そろそろ終焉も近いということなのだろう。
日本における金山や銀山開発の歴史を調べようと思っていて、その前段としてざっと日本史の通説を復習するのに山川の本を読んでいるが、ちらっと石見銀山のホームページを眺めてみたら「おいしいドイツパンを買ってみたり・・・」という記述があった。ドイツの銀といえばフッガー家くらいしか思い浮かばないが、ここもきちんと調べてみればいろいろ面白い話が出てくるだろうと思う。
私の手元にも石見の銀小判があるが、いかにも手彫りの感じが溢れている。徳川葵が二つ上下に配されている。
藤原不比等が貨幣経済普及を目指して始めた和同開珎は初期と後期で材料と意匠が異なっており、初期のものが古和同開珎、後期のものが新和同開珎と呼ばれている。最初期の和同開珎は銀と銅の合金製だが、後期の新和同開珎はすべて銅製になっている。じつは和銅年間よりも早く西暦683年ごろには富本銭が用いられており、これは銀製だったらしい。これよりもさらに遡って用いられていたものに無文銀銭があったが、これは貨幣と呼べるのかどうかについては争いがあるものの、富本銭の用いられていた683(天武12)年には「銀銭を使うのをやめて銅銭を使うこと」という命令が出されていることから、銀貨が流通していたことは事実らしい。
和銅元(708)年から天徳2(958)年にかけて鋳造された12種類の貨幣を皇朝十二銭と呼ぶ。このうち古和同開珎のみが銀製で、あとは銅製である。時代が下って織豊政権のころの天正通宝や永楽通宝はまた銀製に戻る。
石見銀山は大永6(1526)年、博多の豪商神谷寿貞が日本海を北上している最中に発見、当時の西国を治めていた大内義興に報告され、神谷が開発・経営を依頼された。その後石見の小領主・小笠原氏に奪われるが、小笠原氏も尼子晴久に屈し、尼子氏の所有になる。尼子晴久は山吹城を建造して石見銀山の防衛を図った。今度はこれを吉川元春が弘治2(1556)年攻め落とし、毛利氏が銀山を手中に収めた。いちど尼子氏に奪還されるものの、最終的には毛利元就が尼子氏を滅ぼし取り戻した。秀吉が天下を取ったのちも、毛利氏は石見銀山の管理にあたったが、朝鮮出兵の費用はほとんどがこの石見銀でまかなわれたという。江戸時代には大久保長安が開発を担った。
この大久保長安は家康の六男・忠輝と伊達政宗の娘・五郎八姫の婚姻を取り持った関係から政宗とも関係が深い。政宗がスペインに慶長遣欧使節を送ることができたのも、当時メキシコの銀山開発を通じて効率的な銀の精錬技術を持っていたスペインを利用したいという家康の思惑があったかららしい。このあたりについてもいろいろと調べていきたい。
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