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健全な懐疑精神を持って生きる

 「何事も疑ってかかれ」というようなテーゼを目にすると、文字通りなんでもかんでも疑ってかかり、「実はあいつは偽物かもしれない」とか「私は両親の実の子ではないのかもしれない」とか疑ってみたり、世間で言われていることや通念に対してシステマティックに(どうでもいいような)疑念を抱くような人がいる。要は疑問の持ち方にセンスのない人たちというのがいて、そういう人たちは何の疑問も持たずに奴隷と化している大半の羊たちよりもタチが悪かったりする。

 そういうアホな疑問を抱く精神と健全でまっとうな懐疑精神とをどうやって区別するべきなのかということを最近考えていたのだが、哲学的にまっとうな懐疑精神というのは形而上学的な原理に対する志向性をなにかしら持っているものである。

 例えば私は学生時代、なぜ毎朝同じ時間に学校に行かなければならないのかが謎だった。しかも定められた時間割に沿って、その時間はそのことを勉強しなければならないようになっている。日によって別に学校には行かずに散歩したいときとか、朝から英語をやっていて調子がいいので数学はやめにして英語を勉強し続けるとかいうことのほうが自然なあり方だろうと思っていた。

 その懐疑に対する調査と推論とを重ねることによって、こと近代において、学校というものは基本的に兵隊を育成するものであって、上官の指示に従順に行動したり予め計画されたものに従って行動すること、それらを支えるその他の原理を内面化させるための機構だということが判明する。そのような原理というか制度の設計思想がわかれば、会社の制度もそうで、労働法の設計思想も同じものに基づいているということがわかる。遅刻さえしなければ、業務など適当にこなしていてよい。仕事で成果が上がらないことよりも定時に出勤していないことの方を問題視するのが労働法の判例である。学校も成績や知的な誠実性などよりもきちんと出席しているか、時間を守っているかどうかで人を評価することのほうが多く、それはつまり会社、とくに工場での労働に従事する労働者を作るためのものであるということが見えてくる。

 そういうことが見えてくるためには、社会に貫徹する原理が日常の中でそれと気づかないような姿で具体的に現れているのだという仮説をそもそも持っていなければならない。そういう大きな形而上学的な仮説を持っているかどうかというのは経験上人によりけりという感じがするが、持っていない人はあんまりセンスのいい疑問を抱けない。つまり哲学的なものの見方をしない人たちであって、それだと体制のウソを見抜けない。幼少期から受験秀才を作るような教育はこの哲学的な懐疑精神を殺すためにあるようなもので、なんとなれば受験対策は幼い頭脳に世の中のあらゆる問題には出来合いの答えが用意されているという観念を植え付けるからである。

 哲学とか思想というと、浮世離れした空理空論だというのが一般的な認識だろうが、ここ数年の世界的なイベントで明らかになったことは哲学的な懐疑精神を持たない人間は死を賜るということだろう(それにすら気づいていない人がほとんどだが)。

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