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ニコライ二世とはどういう人物だったか

1881年3月13日。
この日、ロシア国内を激震が走り抜ける。
そう、時の皇帝、アレクサンドル二世が反体制運動家「人民の意志」メンバーによって爆殺されたのだ。
この時、ニコライ・アレクサンドロヴィチは13歳。子供から大人への階段を上ろうとし始めている人生で最も多感な時期だ。
祖父の悲劇的な最期は、少年ニコライ・アレクサンドロヴィチの心に一つのある信念を植え付ける。
即ち
「改革派に一歩でも譲歩すれば、歯止めが利かなくなりロシアは破滅する」
……早くも、ロシア革命への種が一つ、未来の皇帝の裡に撒かれた瞬間だった……。

死の床にあるアレクサンドル二世
爆殺時アレクサンドル二世が来ていた軍服
大破したアレクサンドル二世の馬車。
「人民の意志」は、組織的テロリズムの草分け的存在であるとも謂われている。
アレクサンドル二世の爆殺に関与したメンバーの内六人は大逆罪により絞首刑を宣告される。その内の一人、ゲーシャ・ゲルフマンは妊娠中の為無期限の強制労働に減刑(その直後出産の合併症により死去、娘もほどなくして死去)されている。この日処刑されたソフィア・ペトロスカヤは、ロシア史上、政治的な裁判により処刑された最初の女性である。

・ニコライ二世について


ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ。ロマノフ王朝第十八代皇帝。
1868年5月18日に、アレクサンドル三世の第一子として生を受ける。母は、デンマーク王女マリア・フョードロヴナ。弟にアレクサンドル(夭折)、ゲオルギー、ミハイル。妹にクセニア、オリガがいる。

マリア・フョードロヴナの肖像。結婚前は「マリー・ゾフィー・フリゼリケ・ダウマー」。愛称「ミニー」姉は「イングランドのエリーザベト」と呼ばれる美貌のアレクサンドラ・オブ・デンマーク。当のエリーザベト(シシィ)も、アレクサンドラのことをかなり意識していたとか…。因みに、アレクサンドラ・オブ・デンマークの夫エドワード七世の愛人が「アリス・ケッペル」。現カミラ王妃の祖先にあたる女性である。


母と子供時代のニコライ二世

母親に似た青い眼差し、中肉中背で、父帝アレクサンドル三世の堂々とした体格、粗野な仕草とは正反対に、色白、細面、そして洗練された立ち居振る舞いと、会話術、礼儀作法を身に着けていた。

若い頃のニコライ二世。誰が如何見ても母親似。そして、マリア皇女やオリガ皇女にもマリア皇后の美貌は受け継がれている。

・皇帝は無能だったのか

ルイ十六世もそうだが、革命で命を落とした君主は殊更に能力が低いというレッテルを張られていた。「無能なツァーリが帝国を滅亡させた」と。さて、では、果たしてニコライ二世は本当に無能だったのか。
事実、ニコライ二世は「凡庸で意志薄弱な人」と謂われることが多い。然し、知性と教養では歴代皇帝の中でも平均以上の優れた素質を持っていた。
ニコライ二世は長男だったので、皇帝となることは既定路線だから、他の兄弟たちとは別格に大切に育てられた。宮廷で個人教育を受け、軍大学法学部で政治学や経済学を学び、国際関係や法律も学んだ。
また、記憶力に優れ、人の名前や顔を覚えるのが得意で、内外の歴史についても豊富な知識を持っていた。
語学では、母国語のロシア語、そして、母の母国語であるデンマーク語、そして英語を話すことが出来た。ドイツ語は其処迄得意ではなかったので、ドイツ人であるアレクサンドラ皇后とのやり取りは専ら英語だったという。軍部隊に短期間だが体験入隊し、「大佐」の階級を持つことを誇りにした。

ただ、教養と帝王学は別だ。父帝が思いがけず早死にしたため、ニコライ二世は26歳で「ツァーリ」になる。皇帝としての責任感、自負は十分だったが、「支配者」としての統治は学んでいなかった。
ただ……彼の素質からすると恐らくは学んで得られる類の能力ではなかったのかもしれない。

次に、ニコライ二世の政治的主義を見ていこう。
・ロシア主義
アレクサンドル三世は、父であるアレクサンドル二世が農奴解放など自由主義的な統治をした挙句左翼のテロに斃れた結末を身近に見ていた。だからこそ、「民衆の要求には一歩も譲歩してはいけない。一歩譲歩すればすべてを失うことになる」と謂う信念を持つようになった。ニコライ二世もその父の保守的世界観を引き継いで「急激な変革はロシアを破滅させる」と考えるようになる。
ニコライ二世はロシアの文化を愛し、皇帝になってからは宮廷で自らロシアの農民が着る赤いルバシカ(ロシアの民族衣装)を好んで着用していた。

ルバシカ

ニコライがロシアの文化を愛しロシア的なものを愛していたことは先に述べた通りだ。
そして、ロマノフ王朝の歴代皇帝の中でピョートル大帝がもっとも傑出した開明的な皇帝と見做されているが、実はニコライ二世はピョートル大帝の事を嫌いだった。
曰く「私は多くの者がピョートル大帝の業績を賛美しているのを知っている。しかし、私は他のどの皇帝よりも彼が嫌いだ。彼は西ヨーロッパの文明の心を惹かれ、純粋なロシアの伝統を踏みにじった。外国の物をロシアに其の儘移植することできない」と。

ニコライ二世は、侍従武官長のダニロヴィチ将軍に教えを受けていた。彼は自らの感情を表情に出さず、自己を完全に抑制することが出来る人だった。加えて、ニコライ二世の父が余りに厳格だったために、父の前では父の逆鱗に触れるのを恐れて自分の考えや言葉を表情に出さない内気で引っ込み思案な性格に育っていた。其れに、この教師の教えなので、彼の自制心は完璧なまでに強固になって行った。
彼は、誰に対しても丁寧で優しい言葉をかけて決して声を荒げて叱責するということはなかった。どんなに不快なことを聞かされても厭な顔一つしなかった。重臣が国家の重大事を切り出しても驚いたり動揺したりの感情を一切顔に出さなかった。国政にしても他の問題にしても、自らの意見を進んで述べることも滅多になかった。だからこそ、意志薄弱、自らの意見を持たない、という評価が定着することになったと謂える。
同年代の人の評価を見てみよう
首相ウイッテ「ニコライ二世は知性はあるが、意志が弱く引っ込み思案で本心と言葉が異なり狡猾だ」
コンスタンチン・コンスタノヴィチ大公「彼は性格が弱く、引っ込み思案で決断力に欠ける。其れで居て頑固で移り気だった。彼の考えは話相手の説得力次第だった。彼の決断はいつも最後に話をしたものの影響を受けていた」
…散々ですな。では最後に、絶対に子供の味方をするはずのこの人…!
マリア・フョードロヴナ「ニコライは意志も性格も弱い。彼に万一のことがあれば弟のミハイルが後を継ぐ(アレクセイ皇太子出生以前のことなので)ことになるけれど…、わたくしは母親だからわかるのですが、ミハイルはもっと意志も性格も弱いのです」
意志が弱い説は本物のようだ。

ただ、意志が弱い=愚鈍であるというわけではない。臣下の話す内容を理解しなかったり感情が希薄なわけではなく、自尊心が強く自意識過剰だったので、他人の目を意識すると気が重くなる節があった。
自分の考えが臣下に知られることさえ嫌い、大臣らの報告を聞きながら、恐ろしく鋭敏に嘘を嗅ぎ分け、どんな事実を己から隠したがっているか察知できたと謂われている。
だからこそ、彼は臣下の噓の報告を嘘とわかっていてもその場では最後までしっかり聞き、優しい言葉をかけて下がらせる。その臣下は皇帝を騙しおおせた!やったぜ!と、安堵して退席する。
直ぐに皇帝は、その直属の上司を呼び出し、自分の考えと相容れないと先程の家臣の解任を申し渡す。侮れない。家臣たちは自分が上奏する報告について皇帝がどう評価しているか、一切知ることが出来ず表情からも読み取ることが出来ず途方に暮れた。
何故。
ニコライ二世は「皇帝は一切の国事の採決者であってその結果に最終的な責任を負うのも皇帝ただ一人」「臣下の上奏は聞き置くだけで、自分の評価を常に伝える必要はない」と考えていたのだ。

ニコライ二世の政治観に最も大きな影響を与えたのは父帝アレクサンドル三世の教育係も務めたパベダノスツェフ教授だった。ロシア正教などの教会を監督する最高ポストである宗務院長も務めた人物でゴリゴリの「超保守派」
曰く「議会制民主主義はまやかしだ。歴史上の偉大な事業は常に帝王や、一部の優れた人々によって実現された。普通選挙は民衆に迎合する政治しかもたらさず、必ず低俗化する」
そう、父帝のロシア主義、パベダノスツェフ教授の絶対専制主義援護の教育が重なり、ニコライ二世の揺ぎ無い政治観が形成されたのだ。
「専制君主制をあくまで堅持しないといけない。其れと相容れない議会制民主主義の導入を絶対に阻まなければいけない」と。

・公務


次に、ニコライ二世の公務について紹介しよう。
ニコライ二世は内向的な性格だったから会議、式典、祝賀行事に参加はするもののこういった社交的行事は嫌いだった。自ら美辞麗句の言を弄するのも其れを聴くのも嫌いだった。
ニコライ二世は早朝から宮殿の中の広い執務室の御出勤。執務机に向かい決済すべき山ほどの文書に全て自ら目を通し、必要な指示や決済を書類の隅に細かく書き込んだ。例えば、大蔵大臣ウイッテの農業改善策についての上奏書。30通あり、何れも高度な内容のものであるのに、ニコライ二世は其の全部に目を通し、余白の所に「よろしい」「反対だ」「考え直せ」という具体的な指示を与えている。秘書すらつけず、私信の封書のあて名書きまで自分自身で行った。いやいや。こんなことよりもっと重要な国事に時間を割くべきでしょ…!と謂われもしたがこれは頑ななまでに守られた。
そして、昼食とお茶の時間を挟んで午後八時ごろまではこのように執務をして過ごした。重臣達の上奏を聞いたり会議を主宰したりする以外は、黙々と政務を熟した。意外と地味…!!
そして、夜八時になると勤務時間が終わって、仕事から解放されたかのように執務を終えて家族のいる場所に帰るのだ。
因みに、夜の八時以降に重臣が部屋にいる場合、直接帰れとは言わず、「貴公は疲れたであろう」と婉曲に謂うか、窓際に立って空を見上げたと謂う。それを合図に家臣は皇帝の御前から引き下がったという。つまり、「時計を見ろ、空気読め!!」

・日本遊学と大津事件、竜の刺青


最後に、ニコライ二世が皇太子時代、日本に視察旅行に来た時のエピソードをいくつか紹介しよう。長崎→鹿児島→京都と周り各地で大歓迎を受けたという。(以下『』は、ニコライ二世の日記より引用)
『東京駐在の公使シェーヴィチや公使館員、領事、日露各艦の艦長、シベリア鉄道の建設責任者らに接見した。晩に将校集会室に現地駐在の海軍少尉ら八人が集まった。彼等はみんなロシア人村の稲佐に住みそれぞれ日本娘と結婚している。正直な所、私の彼等の例に倣いたい。
しかし、こんなことを考えるなんて何と恥ずかしい事か。復活祭直前のキリスト受難週間が始まっているというのに』

長崎入港二日前の上海での日記
『四月二十五日土曜日
午後五時、長崎に向け出港した。私の心はずっと以前から長崎にある。予定より二日前に長崎に到着できるのが嬉しい。其処での停泊は素晴らしいという話だ。将校集会室で日本について長時間話し合った。
中国よ、その黄色い川と黄色い人々よ、さようなら。清々しい曇天よ、さようなら。すべての者が中国を去るのを歓んでいた』
日本への期待が大きい反面、中国に対する印象があまりよくなかったことが率直に描かれている。
『四月二十六日日曜日
午前中、小波の為に船が少しばかり揺れた。祈祷は何時ものように午前九時半に始まり、その後フリゲート艦(アゾフ号)の上下のデッキを視察した。其れから日本旅行の準備のために「お菊さん(ピエル・ロティ著)を読み始めた。昼食後下に降りてドミノを楽しみ、日本産のクルミを割った』
日本旅行の知識の為に、長崎に居住したこともあるフランス海軍士官作家の本を読む。これを読むと外国人は長崎が好きになるらしい。

長崎到着後、ロシア正教のキリスト復活祭の日、本来ならば公式の行事は一切避けねばならなかったのだが、其処は若い青年、戒律を破ってしばしば市中を見物して回ったり、商人たちを艦に呼び入れたりしている。

皇太子殿下、人力車で長崎見物中

『午後二時、ゲオルギウス(同行のギリシャ皇子)、ヴォルコフ(侍従武官)と一緒に長崎市に向かった。人力車であちこちの焦点を訪問し、自分の為に相当量の品物を買った。まず、鼈甲屋へ行く。此処の店主は既にアゾフ業を訪れ、私に小物と魅惑的な作りの鼈甲製の水雷艇をプレゼントしてくれていた。彼の店で幾つかの品物を買った。長崎市の家屋とが色は素晴らしく気持ちの良い印象を与えてくれる。いたるところ掃除が行き届きこざっぱりしていて、彼等の家の中に入るのが楽しい。
日本人は男も女も親切で愛想が良く、中国人と正反対だ。特に驚いたのはロシア語を話す人が多い事だった。午後五時にフリゲート艦に帰った』
因みにこの日ニコライは七軒の商店を訪れている。鼈甲細工、金作陣太刀などを買っている。因みにそのうちの一軒には名刺代わりに彼の肖像画を置いて行き、ロシア語で「善人江崎栄蔵殿 皇太子ニコライ」と謂う直筆の署名が残っている。

さて、この日の日記の後半……!!!
皇太子ニコライ、入れ墨を入れる……!!!
『昼食の後に、右腕のドラゴンの入れ墨をする決意をした。そのために晩の九時から朝の四時までちょうど七時間かかった。この種の気晴らしは一度経験すれば十分だ。もう一度やりたいという誘惑を撃退できる。ドラゴンは見事に彫られており、腕は全く痛まなかった』

Σ(゚д゚lll)マジか…!!!

マジだった。よく見ると腕に竜の入れ墨がある。

さて、ニコライは4月30日まで、市内で買い物を楽しんだ。資料によると、買い物の合計額は「千百五十四円八十三銭」だった。現在に換算すれば一千万円以上!!!流石一国の皇太子、太っ腹!!!
品物の好みはかなり家庭的で、僅かな刀剣類を除くとほとんどが日用品と家具類だったと謂われている。

他にも
『上陸したいのはやまやまだったが、終日フリゲート艦にとどまっていた』と、受難週刊最後の金曜日から復活祭の日曜日までは上陸を控えたエピソードや
『パパとママがいないのが、酷く寂しかった。全く新しい環境だったのだ』
という、ちょっとしたホームシックっぽい症状も日記には綴られていたり
『花火が打ち上げられ始めた。もっともよかったのは日本人がロシア語で書いたプログラムであった』
と、日本人の心遣いが嬉しかったような記述もある。
後、日本食に関するエピソードと座布団に関する率直な意見
『貴族の少年がお辞儀をしながら給仕をしてくれた。すべては驚くほど清潔で食欲をそそられたが、昼食は美味しくなかった。座布団に座るのは恐ろしく不便で、膝が痛かった』


因みに、芸者遊びもしたらしい。
「ニコライは芸妓菊奴をお召しになり静かにベッドに就かれた…」
と、郷土史家の記述もあるが、真偽は明らかではない。

お気に入りになった長崎を離れるのは少々寂しかったようだ
『私は日本のこの清潔な街を去るのが哀しかった。此処での八日間は穏やかで愉快だった』

そして、神戸に行き、上陸。京都に逗留中、大津見物に出かけて、あの襲撃事件に遭うのだ。「大津事件」

五月十一日
「日本で巡査が皇太子を襲い、サーベルで頭部に二か所傷つけた」とロシアに報告が入る。。皇帝と皇后の受けたショックは大変なもので、特にマリア皇后は驚きのあまり気絶したと伝えられている。
皇太子ニコライ本人よりも、ロシア、日本の外交筋が真っ青になった様子が伺える。(当たり前と謂えば当たり前だが…)
この件についてはニコライ二世がかなり詳細に彼の視点からの日記を書いているので、其れを引用して、彼の視点でこの事件を追って行きたいと思う。

『慈悲深い偉大な神が助命して呉れなかったなら、この日の終わりには生きていられなかったであろう。素晴らしい一日だった。
朝、目が覚めると午前八時半に人力車で京都から"大津"(以下””内はニコライ二世が横線を引いている箇所)に向かい、一時間十五分後に到着した。人力車夫の疲れを知らぬ忍耐強さに感心した。途中のある村に歩兵連隊が配置されていたが、其れは私達が日本で見た最初の軍隊であった。
到着後、直ちに寺を参観し、茶碗で苦い茶を飲んだ。それから山を下りて桟橋に向かった。琵琶湖から山の中を開削した運河沿いに進んだ。これは本当にエジプト的工事だ。桟橋で汽船に乗って”唐崎村”に向かった。其処の岬には千年物の松の大木と、その近くに小さな神社があった。此処の漁民たちは私たちの前ですくったなかりのいろいろな魚、鮭や鱒、鯉や緋鯉などを献上してくれた。其処から大津に向かい、小太りの知事のいる県庁に到着した。
純西洋式家屋の県庁内ではバザーが開かれていて、其処で私たちはみな、破産するほどいろいろな小物を買った。ゲオリギオスは竹の杖を買ったが、其れが一時間後に私のために大いに役立った。昼食後直ぐ帰る準備をした。ゲオルギオスと私は晩まで京都で休養できるので嬉しかった。
人力車で同じ道を通って帰途につき、道の両側に群衆が並んでいた狭い道路を左折した』

此処からが、その事件の詳細だ。
『その時、私は右の顳顬に強い衝撃を感じた。振り返ると、胸の悪くなるような醜い顔をした巡査が両手でサーベルを握って再び切り付けて来た。とっさに「貴様、何をするのか」と怒鳴りながら人力車から舗装道路に飛び降りた。変質者は私を追いかけた。誰もこの男を阻止しようとしないので、私は出血している傷口を手で押さえながら一目散に逃げだした。
群衆の中に隠れたかったが不可能だった。日本人自身が混乱状態に陥り四散していたからである。走りながらもう一度振り返ると、私を追いかけている巡査の後から、ゲオルギオスが追跡しているのに気付いた。
六十歩ほど走ってから小路の角に停まり、後を振り返ると有難いことに全てが終わっていた。命の恩人ゲオルギオスが竹の杖の一撃で変質者を倒していた。私がその場所に近付いて行くと、私たちの人力車夫と数人の警官が変質者の両足を引っ張っており、その内の一人はサーベルで変質者の頸筋に切り付けていた。
全ての人が茫然自失していた。私には、何故このようにゲオルギオスと私とあの狂信者だけが街頭に取り残され、群衆の誰一人として私を助けるために駆け付け、巡査を阻止しなかったのか理解できなかった。随行員の誰一人として助けに来ることが出来なかったわけは判る。何故なら人力車で長い行列を作って行進していたからである。有栖川宮殿下さえも三番目であったので何も見えなかった。
私は、彼ら全てを安心させるために、わざと、出来るだけ長い間立ったままで居た。侍医のラムバクが最初の手当てをしてくれた。包帯をして止血したのだ。其れから人力車に乗った。すべての人が私を取り囲み、前と同じ足取りで元の県庁に向かった。
有栖川宮殿下とその他日本人の呆然とした顔を見るのはつらかった。街頭の民衆は私を感動させた。申し訳ないという印に跪いて合掌していたのだ。県庁で本式の手当てをして貰ってから京都からの列車の到着を待つ間、ソファに横になっていた。何よりも私は愛するパパとママを心配させないようにこの事件についてどういう電文を書いたらいいか思い悩んだ。
午後四時に、歩兵部隊の厳重な警戒の中を列車で出発した。列車内と京都での馬車の中で酷く頭が痛かった。其れは傷のせいではなく包帯をきつく締めすぎたためであった。宿に帰ると侍医が直ちに頭部の傷口を塞ぎにかかり、二か所ある傷口を縫い合わせた。八時半に全てが終わり、気分爽快であった。
慎ましい夕食(病人食)の後に、小さい櫓から吊るした氷嚢で幹部を冷やして寝た。神のお恵みのお陰で、今日一日万事具合よく済んだ』

可也詳細な記憶で、そして自らが襲われた被害者だというのに冷静を保ち、最後まで冷静さを失わず、時には周囲への気配り、同情、感謝まで述べており、これがニコライという人間の本質ではないか、とも思える。

『五月十二日火曜日
九時間半もよく眠った。気分は爽快。部屋着のまま据わっていてほとんど動かなかった。日本間が非常に気に入った。障子や戸を開けておくと空気がどっと入ってくるからだ。
日本中のあちこちから、既に訪問したところからも、未だ訪問していないところからも、昨日の悲しむべき事件について私に見舞い状を送り届けて来た。一日中神社や学校、団体や商店からの見舞いの品物が庭から届けられてきた。見舞いの電報も数知れない。夜十時には天皇ご自身が二人の親王を連れて東京から到着された』

この凶変に際して、日本が「赤誠を上げてお見舞い」し、空前絶後の謝意表明となった。
明治天皇も大変に衝撃を受けられ、直ちに医師団を京都に急派させ、天皇自らが京都に行幸する決意をされた。更に親電はニコライだけではなく、アレクサンドル三世へ、そして皇后はマリア皇后へ親電を贈り悲嘆の意を表せられるなど、積極的な皇室外交が展開された。こういう時こそ天皇おひとりのお力を頼り奉る以外問題解決の方法はないと、切羽詰まった政府の判断があった。

そしてその裏では「万一ロシアの軍艦から兵を上陸させ、京都から、吾が国土を一時占領するようなことがあれば、謝罪は何処迄も謝罪せねばならぬが、それとこれとは別問題で国権上黙視するわけにはいかぬからこれを追い払うだけの事をしなければならぬ」と謂う話し合いもあったという。

一方、当のニコライ二世はと謂うと
『五月十三日水曜日
元気よく陽気に起床し、新しい部屋着である着物を着て散歩をした。日本の物はすべて四月二十九日(露歴で大津事件の日)以前と同じように私の気に入っており、日本人の一人である狂信者が嫌な事件を起こしたからと謂って、善良な日本人に対して少しも腹を立てていない。かつてと同じように、日本人のあらゆる素晴らしい品物、清潔好き、秩序正しさは私の気に入っている。また、道を行き来する娘達に遠くから見蕩れていたことは認めなければならない』

『午前十一時に、天皇陛下にお目に掛かった。天皇は非常に興奮しておられ、元帥服を着ていたが、御心労のあまりひどく醜く見えるほどやつれていた』

因みに、天皇に逢った際皇太子ニコライは天皇の優渥に感謝しこのように伝えたと謂われている。
「日本に来てから、長崎、鹿児島、神戸、大阪、京都などいたるところで予想以上の丁重な歓待を受け、日本国民の厚誼に感謝していましたが、図らずも一昨日凶漢の為に軽傷を受けました。然し陛下をはじめ日本国民一般の厚誼に対し、感謝の意を持っていることは不祥事以前と何ら異なることはありません。遠路はるばるご慰問を賜り感謝にたえません。上京の件は、今本国からの命令を待っているところで、上京することになったらよろしくお願い致します」と。

この事件で、ニコライ二世が日本に悪印象を抱き、日露戦争の原因の一つになったという説もあるが、日記の文面からは、ニコライ二世が日本に対して悪印象を抱いたということはないと伺える。
また、日本がこの大問題を無事に解決できた背景にはロシアの友好的な態度と、日本の迅速な処置や謝罪に、ロシアの皇帝、皇后が寛容な態度を示していたことが有ることは疑いもない、が、本国でこの事件を痛く憂慮したマリア皇后を配慮し、父アレクサンドル三世が予定を繰り上げて帰国するようにと、ニコライ二世に命じている。
ニコライ二世は、この事件の事を毎年日記につけている。
「今日は神のご加護とゲオルギオスのお陰で助命された大津事件の日だ。神に感謝するために教会に御祈りに行った」
戦中戦後、日露関係の良い時も割と気も同じ調子だ。加害者への恨みつらみも日本人を軽蔑するようなことも決して書いていない。

また、事件でニコライ二世を負傷させた巡査は無期懲役に処されている。
抑々、ニコライ二世は亡くなっておらず、外国の皇族であるニコライ二世は対象は日本の皇族のみである旧刑法の大逆罪は適用されず、幾等ロシア皇太子であるとは雖も、民間人として扱うほかなく、最高刑は謀殺未遂罪の「無期懲役」までであった。
死刑に処すべきだという政府の圧力を、時の大審院院長小島惟謙は突っぱね、「法治国家としては法は順守しなければならない」。「刑法に外国の皇族に対する規定はない」とする立場を堅持した。
この事件は、日本においても三権分立の意識が高まる契機となる重要な事件だったのである。

因みにこの大津事件でニコライを手当てした布から抽出されたDNAで、ニコライ二世本人やこの子供達のDNA鑑定が行われ(但し、この布から抽出されたDNAでは血液型程度しかわからなかったらしいが。)、ニコライ二世の頭蓋骨には、この時切り付けられた跡が残っていたという。


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