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嫡出の王子がないままに


・新しい時代の到来

新しい時代が始まったという喜びは、馬上試合、仮面劇その他延々と続く祝賀行事として表現された。

馬上試合には、「サー・ロイヤル・ハート」ことヘンリー八世は毎回忠誠を捧げた貴婦人である王妃のリボンを身に着けて登場する。
人の集まる行事では、必ず二人のイニシャル(HとC、或いはK)の組み合わせが用いられたし、ページェント用のお城の模型や王の鎧を飾る愛のリボン結びに用いられた。
黄金の杯の一つには、ヘンリーとキャサリンの姿が縦に交互に並んでぐるりと彫られている。黄金の塩入れには、HとKのイニシャルと赤いバラのエナメルの飾り付き。黄金の水盤もやはり紅白の薔薇にHとKのイニシャルの縁飾り。「王妃から王へ」とある。
即位後の数年間は、イングランド王は目に見える形で晴れがましくもスペイン王女と結ばれ、妃を宮廷の女主人と崇めて騎士道的献身を捧げていることを誇示し続けた。

ヘンリーのお気に入りの遊びは仮面劇、とりわけそこで凝りに凝った仮装をすることだった。若い男女が嬌声を上げて楽しんだものだ。その若い女性の中に、未だ少女の「ベッシー・ブラント」、こと、エリザベス・ブラントがいた。陽気で活発でダンスが大好きなこの少女が、たとえ王様のパートナーとして踊ることがあったとしても、何れ国王の「唯一の男子」を産むことになるとはこのときは誰も想像もしなかっただろう。

身重の王妃はと謂うと、最初は王が躍っているとは気付かない振りをして、タイミングを見て王に気付き、ビックリして見せてから手放しで褒めたたえる。

勿論夜の勤めも欠かさない。
ヘンリーは非常に規則正しく妻の元に通った。結婚の目的は「官能を満足させる」ことではなく、子供を作ることだ。国王には世継ぎが必要。
でも、この二つを同時にやって悪いわけがあろうか?それに、五体満足であるのならば、これは君主の義務だ。ただ、ヘンリーの場合、もともと好きで結婚した上に、キャサリンもまだまだ美しかったから楽しい勤めではあったに違いない
トマス・モアは、戴冠式の際王妃の素晴らしい家柄を讃え「先祖に負けない偉大な王たちの母になるだろう」と予言したものだ。
事実、その通りになると思われた。
キャサリン・オブ・アラゴンの血統は子沢山だったのだ。イサベルの子の内5人は成人したし、姉のフアナ女王には6人の子がいる。一番下のポルトガル王妃マリアは9人の子宝に恵まれる。キャサリンも沢山の子供の母になるだろう。

・王太子の死

事実、1509年6月には最初の子供を身ごもっている。この子は女児で、7ヶ月目の1510年1月の終わりに生まれるが死産だった。

しかし、翌1511年の元旦、ついに男児が生まれる。名前は、もちろん父と祖父にちなんで「ヘンリー」だ。
1月5日に洗礼を受ける。この子の誕生を祝って(何せお世継ぎが生まれたのだ)、盛大な祝賀行事が行われる。
しかし、王室の帳簿から祝賀行事の馬上試合ようの真紅や緋色のヴェルヴェットの支出に続いて、黒布の支払いがヘンリー王子の葬儀用になされている。
貴族たち、王室の礼拝堂合唱団の10人の少年達、そして「180名の貧民」が松明を掲げて、当時は夜に行われていた弔いに参列した。
この子はたった52日しか生きられなかったのだ。
乳幼児の死亡率が高かった時代、王子の死は悲劇だが、珍しいことではなかった。
王妃は大いに嘆き悲しんだが、国王は、英明な君主に相応しくじっと耐え、王の理を説く言葉に王妃の悲しみも和らいだ、記録されている。

・王女メアリー誕生

王のフランス出兵や、サフォーク公チャールズ・ブランドンと、メアリー王女の結婚を挟み、1516年2月18日、王妃はいたって健康な女児を出産。メアリーと名付けられる。…のちの「ブラッディ・メアリー」誕生である。
王女と雖も、其れは失敗ではなく明るい知らせだ。諸外国と渡り合うための道具なら、ヘンリーは王女一抱えだってほしかった。そうでなければ、諸外国と渡り合い、イングランドという国を支えるのが難しかったからだ。
更に、テューダー家の他の女性…ヘンリー八世の姉と妹は、昔は有力な王の妃であったが、今はそれぞれ別の男性(マーガレット王女はジェームズ四世亡き後、アーチボルト・ダグラスという貴族男性と再婚していた)と結婚していて、何の力の足しにもならなかった。

だから、今娘が生まれたのは大変結構なことであり、次は男児だ、という楽観的な気持ちもあった。
ヘンリーは、ヨーロッパ王室の政略結婚ゲームの切り札を手に入れたのだ。

今はまだ、この娘がやがて、イングランドの玉座に座ることになるとは、誰も思いもよらぬことだった。

「急いで乙女に弟を送ってやれ。その子がイングランドの正しき世継ぎ」

メアリー誕生の一か月ほど前、1516年1月23日、アラゴン王フェルナンド二世が崩御───。
後継者として、フアナの子供、カルロス、カール五世が立つことになる。

・理想的王妃


キャサリン・オブ・アラゴン

さて、王妃も30を過ぎれば、各国の大使が彼女の容貌について美辞麗句を以て褒めたたえることはなくなってくる。
「美人ではないが、決して醜くはない」
という、無味乾燥な表現でもって報告されていた。
プライベートでは座って針仕事をすることが多いためか、体質か、元々ふくよかな法であったが今ではすっかり太って小柄な30過ぎの中年女になった。
ヘンリーはと謂うと、6つも年下。相変わらず魅力的なスポーツマンで「若くてハンサムな国王と、年取った不格好な妻」と称されている。
皆さん口さがないですなあ…。
尤も、王妃に美貌は求められていない。容貌の言及は美貌の場合で、ヘンリーの妹、メアリー王女のような美しい金髪の愛くるしい顔立ちをした女性だった場合だ。王妃ではないが、後のメアリー・ステュアートや王妃マルゴことマルグリット・ド・ヴァロワもその美貌を言及されている。
そうでなければ、別に特段何か書かれることもなかったのだ。
王妃に期待されるのは、縁故関係と多額の持参金を齎すこと。そして、結婚以後は王の伴侶の役割を厳かに実行すればよかった。
その点では、王妃キャサリンはそれらを単にこなしただけでなく、どんな苦境にあっても、穏やかな微笑みを絶やさず冒し難い気品を漂わせていた。
王妃の周りに醸し出される高雅な雰囲気、身のこなしの優雅さ、知性と親交の深さは宮中の称賛を浴びていた。
キャサリン・オブ・アラゴンは、王家の生まれで聡明かつ経験で慈悲深い。
16世紀における理想的な王妃像を体現していたのだ。
……世継ぎたる王子を産んでいないこと以外は。

・王妃の流産と愛人の男児出産

1518年、2月の終わりごろ、再び王妃は再び妊娠する。
同じ頃、ヘンリーの「ライバル」フランス王妃が、フランソワ一世に世継ぎを授けている。───王太子フランソワ。アンリ二世の兄である。
生まれたばかりの王太子と、2歳になっていたメアリー王女をヘンリーは婚約させる。
この婚約の時には、キャサリンはまたすぐに元気な男児を産むと信じられていたから、メアリーがイングランドの玉座に座ることになる可能性は考慮されていなかった。

然し、11月18日、またも悲劇が王妃を襲う。
王子だと思われていたお腹の子は、実は王女であり、生きて産声を上げることはなかったのだ────。
しかも、この直前。
王と一緒に踊っていた可愛らしいエリザベス・ブラントが王の子を身ごもった。
彼女はとても明るく快活で、男性にとってはとても魅力的な類の女性だったようだ。
彼女が王の子供を身ごもった経緯には、特に激しいロマンスなどは何もなく、王妃が身ごもっている間の禁欲期間中の慰めとして特権を行使した結果…と謂えないこともない。
そして、元気で快活なエリザベス───ベッシー・ブラントが産み落としたのは元気な男の子だった!
この子は、「ヘンリー」と名付けられ、名字は王の庶子であることを示す「フィッツロイ(王の子)」を与えられ、王子として大切に育てられた。
当時、貴族も王族も庶子を我が子だと養うのは当然の義務だと考えられていた。
そして、ヘンリーは娘、メアリー王女のこともとても可愛がっていた。父親譲りの顔色と、母の少女時代そのままの整った顔立ちをしたとても魅力的な子供だった。

・メアリー王女

その、メアリー王女の立場であるが、1520年代を境に、徐々に徐々に王妃が健康な男児を出産する望みが薄れていくにつれ彼女の立場も王位継承に絡めて考えていかなければならなくなった。
40歳を過ぎて子供を産んだ、エドワード四世妃エリザベスの例もあるし、キャサリンも王が「共寝」を続けてくれている限りは、まだ希望は捨てていなかった。
けれど、周りは違った。王妃が首尾よく子供を授かったとしても、子供が「生きて生まれてきて」「男児である」という保証はどこにもないのだ。
「王子」は産まれてくるのだろうか?
ヘンリー八世の正嫡の男子後継者がいないのは、厳然たる事実だった。
そして、王は危険を冒すことに無頓着で、相変わらず狩りや騎馬試合に興じていた。王に万が一のことがあったら誰が玉座に座る?メアリー王女はまだ幼いし女性だという二重のハンディキャップを抱えている。
王が寿命を全うした場合にしても、そう。世継ぎには誰がなる?
イングランドは男子継承を定めたサリカ法こそなかったが、女性君主を頂いたことはないし、当時として女性は男性より一段劣っているという考えは根深かったから、女性君主そのものに甚だ懐疑的な時代でもあった。
故に、世継ぎ問題の解決として、1520年代の時点ではメアリー王女とその未来の婿殿が想定されていた。
つまり、1520年代の間はヘンリーも長年の夫婦の絆の中で世継ぎ問題を解決しようとしていたのであり、最早若い頃の恋愛感情はなかったとしても、彼にとってキャサリンはまだ大切な伴侶であり、しかも強大な皇帝の叔母という立場であった。

メアリー王女と、スペインの皇帝との縁談(後に破談になり、破談になったことに対する王の怒りはキャサリンに向けられる)であっても、メアリーが父の跡を継ぐ可能性について考慮されている。
曰く「仮にイングランド王に男の跡継ぎがないまま亡くなられ(メアリー王女が)イングランド女王になったとしたら皇帝陛下は持参金について一切権利を有さない」「イングランドに男の跡継ぎが生まれたら、メアリー王女は王位を継ぐことが出来ない」という約定が婚約の際に示されている。

それでも、ヘンリーはメアリー王女を「プリンセス・オブ・ウェールズ(女王太子)」として遇するようになった。但し、正式な称号は与えられていなかったし、法的根拠も付与されていなかった。

このまま、順風満帆に行けば、メアリーがどんな形であれ父親の跡を継ぐだろう、キャサリンも王妃のままゆっくりと老いてやがてはヘンリーと並んで埋葬されるのだろう…と思われていた。
1526年春に、王が恋に落ちるまでは────。
王の心をとらえたのは、黒い髪に黒い瞳をした乙女。
名を「アン・ブーリン」と謂う─────……。



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