乙女のまま───
・ヘンリー七世の子供達
ヘンリー七世は、王妃エリザベス・オブ・ヨークとの間に四男四女をもうけ、そのうち四人(二男二女)が成長した。
①長男 アーサー・テューダー(プリンス・オブ・ウェールズ)
ヘンリー七世とエリザベス・オブ・ヨークの第一王子にして王太子。スペイン王女、キャサリン・オブ・アラゴンを妻に迎えるがたった5か月の新婚生活を過ごしたのみで、早逝。妻のキャサリンと正式な結婚が「成立」したか(男女関係を結んだか)は、後々大問題になり、また、彼の死は、王妃キャサリンの結婚、離婚問題からイングランド国教会成立までの遠因になる…が、流石にそれは彼には思いもよらなかったことであろう。
②長女 マーガレット・テューダー
スコットランド王妃。ジェームズ五世の母、メアリー・ステュアートの祖母。ヘンリー八世の系統がすべて子孫を残さず崩御したため、彼女の血筋を通じて、スコットランド王がイングランド王を兼ねる同君連合体制(王冠連合)が始まった。
③次男 ヘンリー・テューダー
兄の早逝により国王に即位。後のヘンリー八世。皇太子の座と一緒に兄嫁だったキャサリン・オブ・アラゴンを娶ることになる。
④次女 メアリー・テューダー
フランス王妃。実はチャールズ・ブランドンと謂うれっきとした恋人がいたが、「夫(フランス国王ルイ十二世)の死後は好きに結婚させて頂戴」ということを条件にフランスに嫁ぐ。
ルイ十二世は老齢で、結婚後まもなく死去。なんやかんやの末、きっちり有言実行しチャールズ・ブランドンと結婚。
後の九日女王、ジェーン・グレイの祖母。彼女を通じてジェーン達「グレイ姉妹」はイングランド王位継承権を持つ。
若きアン・ブーリンは彼女に仕えてフランスに渡っていたという説もある。
・皇太子アーサーの結婚
・「我が愛する妻」
扨、先に述べたようにヘンリー七世がプリンス・オブ・ウェールズ、アーサー・テューダーの為に厳選した王太子妃はカスティーリャ女王イザベル一世と、アラゴンのフェルナンド二世、所謂「カトリック両王」の末子、カテリーナ・デ・アラゴン、英国名キャサリン・オブ・アラゴンだった。
背景としては、前章で述べたヘンリー七世から王位を奪おうとする全ての者の支援をし、パーキン・ウォーベックを自らの甥であると公認した、マーガレット・オブ・ヨークの存在がある。
イングランド国内の混乱を収めるため、マーガレットと、その婿であるハプスブルク家のマクシミリアンに接近する必要があった。(マクシミリアンの妻、マリー・ド・ブルゴーニュはブルゴーニュ公シャルルの前妻、イザベル・ド・ブルボンの娘であるが、マーガレットはこのマリーの良き母となり、マリーも、マーガレットを母親として慕ったという)。
さて、そのマクシミリアンはスペインとの関係が深くマクシミリアンは自身の子であるマルグリットをアストゥリアス公フアン王子に、フィリップ(フェリペ1世)をカトリック両王の娘フアナ王女に、それぞれスペイン王家(トラスタマラ家)と縁組させていた。スペインと縁続きになるということは、ハプスブルク家とお近づきになるということだったのである。
スペインはスペインで、カトリック両王によるレコンキスタの完成、新大陸の発見など、沸きに沸いていた。そして、スペインのフェルナンド二世はフランス包囲網を敷くべく、イングランドとの縁組を希望していた。
と、謂うわけで、似たような年頃のイングランド王太子アーサーと、スペイン王女カテリーナ(以後、英国名キャサリンで統一する)の縁談が持ち上がるのはごくごく自然の流れであった。
よし、縁組する王子と姫は決まったから、次は条件面でのすり合わせが急務になる。強欲なヘンリー七世は、多額の持参金を要求したり、条件がまとまらないうちに国際情勢が変わり一度は破談になったりしながらも、結局は20万クラウンの分割払いの持参金を持ってキャサリンがお嫁入する、ということで話はまとまる。1497年1月の事だ。
さて、そのキャサリンであるが、女王イサベルの意向で、彼女の四人の娘(イサベル、フアナ、マリア、キャサリン)には、きちんとした教育が授けられている。特に神の言葉としてのラテン語は重要視され、他にも民法、教会法、女性の嗜みとして、音楽、ダンス、絵画に針仕事をはじめとした家事。特に針仕事は、母親のイサベルも「夫フェルナンドのシャツは全部わたくしが縫う」と謂った姿を見て育っているため、キャサリンも夫のシャツを縫ったり刺繍をするのは妻の役目でもあり権利でもあると感じていたし、家事を身に着けたことにより、後の結婚生活で、夫が快適に過ごせるようにと、遠征中でも清潔な下着を身に着けられるように配慮したり、急に夜食に肉が食べたいと言い出しても良いように、自室に用意するといった気配りをキャサリンに身に着けさせた。
そして、敬虔で信心深い母の影響で、たとえ国の都合で選ばれた相手と雖も「夫は神からの賜り物」であり、自らの結婚相手は「神意である」という考え方も身に着けていた。
フアナも、キャサリンも自らの夫に固執したのはこういった考えが身について居るからという側面もあるだろう。
アーサー王太子とキャサリンは、1499年と1500年に代理結婚式を挙げ、姑になるエリザベス・オブ・ヨークは王太子の花嫁を迎えられることを大層喜び、姑のマーガレット・ボーフォートと共にイングランド王室での生活の手引きを事細かにキャサリンに伝えていた。
曰く「フランス語を学んでください」「ワインを飲む習慣を身に着けてください」
エリザベスは、こう繋げる。「イングランドの水は飲むには値しないのです。飲めたとしてもこの気候ではの向きにならないでしょう」
※当時のイングランドは生水を飲むと恐ろしいことになると考えられていた。ワインを飲まない場合は、ごく弱いビールを飲み、たいていの家には自家製醸造所があったくらいだ。
そして、アーサーとキャサリンもラテン語で文通をしていた。
アーサーの少年らしい手紙が残っているので紹介しよう。
1500年、キャサリン14歳にしてイングランドに出発することが決まる。
その間、スペインでは悲しいことが相次いでいた。まず、兄のフアンが逝去する。そして、カスティーリャの王位継承権が、イサベルの長女、ポルトガルに嫁いでいたイサベル王妃に渡るも、その彼女も翌年の夏、息子ミゲルを産み落として逝去する。享年28歳。ミゲルがアラゴンの賛同を得て、スペインとポルトガルの両王権の相続者となるも2歳にもならないうちに逝去する。
そして、王位継承権はオーストリア大公フィリップ美公に嫁いでいたフアナに渡ることになる……。
・王太子妃の嫁入り
キャサリンは、8月17日に旅立つ予定だったが、ビスケイ湾で嵐が起こり、出航できたのは9月の末。
キャサリンの結婚の不幸な終末を知る人物は口々に言う。
「この嵐は彼女の不幸な未来を暗示していた」と。
イングランドに到着したキャサリンへのイングランド人の熱狂はすさまじく
「姫君の歓迎ぶりは凄いもので、これ以上は救世主ででもない限り望めないでしょう」と、彼女の側近は興奮気味に書いている。
当のキャサリンは、陸地を一歩踏むや否や、「教会へ連れて行ってください」と言う。船酔いと長旅に疲れた体に鞭打ち、着替えもせず、到着の無事を神に感謝するためだ。イサベル女王仕込みの敬虔さ、信心深さが伺えるエピソードだ。
さて、花嫁を迎えて、花婿以上にウキウキなのはヘンリー七世。リッチモンドにて、キャサリンを出迎える予定だったが待ちきれなかったのか変更し、道中で「花嫁」を捕まえようと出発する。「ちょ、父上…!」と、ばかりに、花婿のアーサーも続く。そりゃそうだ、結婚するのは父上ではなくアーサーだ。
しかし、その中には、ヘンリー七世のとある使命があった。と、謂うのも、息子の花嫁をこの目で見て!健康で子供もきちんと産むことが出来て、息子の嫁に相応しいか見定めるめっちゃ大事な使命が、だ。
ヘンリー七世はキャサリンに随行する侍女も美女をそろえてほしいとスペイン側に要求していた。別にヘンリー七世の目を楽しませたい、というだけではない。と、謂うのも外見=内面と信じられていた時代だ。美しい外見には美しい内面が宿る。息子の嫁の侍女は、内面も美しい女性でなければ相成らぬ!
異国からの花嫁を迎えるとなると、必ず一抹の不安が付いて回るものだ。大使が長所をあれこれ調べても「これで安心だね」とはならない。我が目で確かめなければ…!
しかし、双方の喜びがはた、と止むような冷や汗ものの騒ぎがここで起きる。
「やんごとなきカスティーリャの姫君の姿を見定めようとはとんでもない!花嫁はヴェールを被ったまま最後の式典で結婚の祝福が厳かになされるまでは、夫にも舅にも顔を見せることは致しません(おこ。)」
と、時の国王、ボズワースの勝者、自力でイングランドの王冠を勝ち取った男に謂い放った女傑がいたのだ。彼女の名は、ドンナ・エルビラ・マヌエル。キャサリンの女官リストによると「第一女官及び寝室付き第一女官」だ。
それに対して、国王は言い返す。
「キャサリンは余の義理の娘。故にイングランド人臣下である。故に、カスティーリャの珍奇な因襲など全く関係ない(おこ。)」
……バチバチバチバチ……!!!
結局、キャサリンのイングランドでの未来を考えて、此処で揉めるのは相成らぬ。カスティーリャの過去は葬り去りイングランドの慣習に従うことになった。
つまり、ヴェールは上げられ…、見よ!花嫁は恭しく腰をかがめてイングランド国王への服従のポーズをお取りになる…!
そして、花嫁のかんばせを見た瞬間… ヘンリー七世大喜び!!!!!
陰謀も偽装もなかった!ほっとした!うれしい!!
国王は花嫁を
「美貌のみならず、淑やかで高貴な立ち居振る舞いに大いに感銘を受けた!!」
余は満足じゃとばかりに褒める。
事実、キャサリンは芳紀16歳。若い少女特有の美しさとみずみずしさで見るもの全てを魅了したことだろう。
美しく豊かで赤みがかる金髪。整った目鼻立ち、形の良いうりざね顔。そして、何より美しいのはその肌の色だ。ピンク色の頬と色白の素肌。そして、スペイン王家仕込みの優美な身のこなし。
王太子はおとなしく新婦の手を取る。そして、数週間後義理の両親にこうお手紙を書く。
「花嫁の花のような顔を見たときには、生涯最高の喜びを感じました」と。
事実、キャサリン・オブ・アラゴンは美しい少女だったようだ。
イングランド人特有の排他主義丸出しで、スペインの花嫁随行員をこう揶揄したトマス・モアが謂う。
「珍妙な…エチオピアのピグミーたちがぞろぞろと地獄の悪鬼よろしくはい出て来た…(フフン)」
しかし、花嫁については
「非の打ちどころのない最高の美少女である」
と。
ただ、キャサリンの外見で唯一「うーん…」と思われるところがあるとしたら、それは小柄…悪く謂えば「チビ」というところだろう。
ただし、割合とふっくらした方だった。当時は、若い頃はぽっちゃりしているのはむしろ好ましい。子供をたくさん産むことが出来ると考えられていた。
一方で、アーサー王子の方は…と謂うと、その小柄なキャサリンよりもさらに背が低かったと謂われている。
そして、花嫁と同じくらい色が白かった…が、健康そうな色白ではなく、病的に青白い…という印象を与えた。
祖父のエドワード四世、ブロンドの巨漢と美しい妃、エリザベス・ウッドヴィルの遺伝子のお陰で、アーサーの弟妹達はヨーロッパの王子、王女たちの内でも屈指の美貌とすらりとした体躯を誇っていた。……王太子以外は。
事実、弟のヘンリー王子は「プリンス・チャーミング」「ヨーロッパ一の美男子」と謂われるほどの美貌を誇るほどに成長する。…まあ、年取ったらああなるわけだが…。
さて、若い二人の出会いの舞台は整った。
次は、結婚の儀式をもってこの若い二人のカップルの婚姻を完成させよう!
・王太子の結婚は成就したか
1501年 11月14日
セント・ポール大聖堂で、王太子と王太子妃の結婚式が厳かに執り行われる。新郎新婦と同じ名前、即ち、アーサー王伝説と聖カタリナを模した演目が披露されたらしい。
「かくのごとくであるから、気高き王太子妃よ
素晴らしい夫君と手をたずさえ励まれよ。
さすれば、我らとともに彼の地は永遠に栄えん」
そして、結婚式後、「初夜の儀式」にのっとって若い夫婦は一晩そこで休むことになる。
王太子妃は、イングランド、スペイン双方の侍従たちに伴われ型通り夫の横に連れて行かれる。この後お付きたちは一室に引き下がりカップルは初夜の細かい儀式にのっとってその夜を過ごすのだ。
この若い夫婦に、男女の関係があったのか?それは、30年後、イングランド宮廷のみならずローマ教皇庁をも巻き込んでの大問題になる。
事実、そこでこの若い夫婦が「結ばれた」のか。王太子は「そのこと」について何も書き残していない。ゴシップは取り上げる価値もない。
キャサリンの主張は、1502年以来変わらない。「二人は完全な夫婦ではありませんでした」
さて、もう一人、この二人が完全な夫婦だったかどうか?直接知りうる立場にあった者がいる。
この人である。
どーーーーーーーーーーーーーーーーーん!!!!
そう、彼であれば、彼との初夜の晩、キャサリンが処女か否か、わかったはずなのだ。まあ、この人…、最初は「妻は処女だったんだ💕」ってうきうきして語っていたが…、30年後、結婚した時「妻は処女じゃありませんでした…」と、ぬけぬけと否認しようと企てていたんだが…。
但し、ヘンリー八世が後年この点で噓を吐いたとキャサリンを責めることは決してなかったことのみ伝えておきたい。
キャサリンが後にカンペッジョ枢機卿に告白したところによると、二人がベッドを共にしたのは「七回」で、その間アーサーは彼女を「知る」機会は一度もなかったとのことだ。
これは、王族の結婚という観点で見れば決して珍しいことではない。
王族の婚姻の取り決めは、国の利害によって為されるのは日常茶飯事であり、当事者たちがまだ子供か、やっと大人になりかけたくらいの年齢ということも多かった。
故に、床入りのタイミングに関しては、むしろ細心の配慮が払われたものなのだ。結婚していても、数年を経てからやっと然るべきタイミングが来たと判断される場合もあった。
大使たちが肉体の成熟具合を報告し、父王、母王妃は子供たちにアドバイスを送る。マリー・アントワネットだって、母マリア・テレジアから逐一とこ入りについての注意事項を長々と手紙でアドバイスを受けたものだ。
現代の感覚であれば、夫婦の事など、プライバシーの最も奥に秘められるべきものだ、こんな風に公にするなんて!と、思われそうなものだが、当時の王族の結婚────それも、王位継承権者、王者の閨は国事行為。
王位に連なるものは、きちんとした「後継者」を産まなければならない。子孫を残すことは、国にとって最重要行為なのだ。
話を元に戻そう。
女子の場合は、幼いのに無理矢理に孕まされ後々深刻な事態を招くこともあった。
ヘンリー七世の母、マーガレット・ボーフォートは13歳でヘンリー七世を産んだので、体が損なわれ、以後4回結婚したがヘンリー七世以外の子供を産むことはなかった。
スコットランド王ジェームズ四世とアーサーの妹、マーガレット王女の場合は縁談が始まった1498年、ジェームズが25歳なのに対して花嫁はまだたった9歳。王女の母だけでなく、祖母であるマーガレット・ボーフォートも、王女が床入りできる年齢になる迄婚礼は待ってほしいと懇願している。
「王妃たちが恐れたのは、スコットランド人の王が待ちきれずに王女を傷つけ、その健康を害してしまうのではないかということだった」
屋っと結婚した1503年には王女は14歳になっていた。
注意を払われるのは花嫁だけではない。花婿も同じことだ。
健康に自信のない者にはこの行為は過剰な負担になると考えられていた。
では、アーサーとキャサリンの場合は如何だろうか。
イングランドの両親、ヘンリー七世とエリザベス・オブ・ヨークは急ぐことはないと考えていたようだ。
そして、スペインの両親、フェルナンド二世とイサベル一世も同じく、「床入りが遅くなったとしても喜びこそすれ、不満に思うことはない」と書簡にて明言している。
アーサーも「まだ若い」のだ。
目論見としては、キャサリンはロンドンで暮らし、姑の教えを受ける。その間アーサーの方は一人前に成長することを第一に考えて妻に心を囚われすぎないようウェールズ辺境のラダロウ城に暫くは滞在する。そして、キャサリンはイングランドのしきたりや英語を覚えてから適切な夫婦関係を結べばよい…と、考えられていた、が、その通りに事は運ばずに王太子はラダロウに向かう。12月の事だ。
この間も、キャサリンの持参金やら、万が一寡婦になった場合の取り決めやらでスペインとイングランドで遣り合っていたわけだが(これが、近い将来キャサリンを大いに苦しめることになる。)
そして、若い二人は想像もしていなかっただろう。
これが、夫婦として過ごすことが出来る最期の時間であることに。
その年のウェールズは、春が来ても寒さが去らず、雨ばかり降ってそのため様々な病気が多発していた。
1502年の3月の終わり、病身の王太子アーサーが体調を崩し始める。結核にかかったとも考えられるが、近隣では疫病が起こりそのほかにも「発汗性の病」とそのころ呼ばれていた流行病が猛威を振るっていた。
この病気は当時大変恐れられた。症状が不可解なのだ。
患者の中には完治した者もいたが犠牲者は「三時間で、早い者は二時間で亡くなる。元気に昼食を食べていたと思ったら晩飯の時には死んでいた」と年代記は伝えている。
アーサーはこの病に罹ったのだろう。キャサリンも一緒に倒れている。
キャサリンがまだ病の床にあった4月2日。
王太子アーサー逝去。まだ、15歳と半年だった。
「最愛の奥方」を寡婦として残して。キャサリン・オブ・アラゴンは16歳と3か月で王太子未亡人となった。
───…結婚したが───乙女のまま
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