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ニコライ二世と家族たち

・皇后アレクサンドラ

1872年、6月6日、ヘッセン大公ルートヴィヒ四世と、イングランドのヴィクトリア女王の次女アリス・モード・メアリーの四女として生まれる。出生名はヴィクトリエ・アリックス。早くに母アリスを亡くしたため、6歳から12歳まではヴィクトリア女王の元で養育され、彼女自身はドイツ人と謂うよりはイギリス人に気質は近い。

16歳の少年は12歳の少女と出逢い、高価なブローチを贈るが、少女ははにかむばかりだったという。

二人の出会いはニコライの叔父セルゲイ大公とアレクサンドラの姉エリザヴェータ(エラ)が結婚した時だ。セルゲイは1905年2月に左翼テロリストによって殺害され、エラも革命時に殺害されている。
話をアレクサンドラ皇后に戻そう。
ニコライはしばしば日記で「アリックスと結婚するのが夢だ」「アリックスと出来れば結婚したい」と彼女に対する思いを綴っているが、両親、そして、母の姉(アレクサンドラ・オブ・デンマーク)、そして、アリックスの姉(エラ)も結婚には反対だった。
アリックスは「皇后に相応しい器の女性ではない」と謂うのが凡その意見だった。皇帝夫妻もアリックスの少女時代から見知っており「非社交的で、ヒステリックな癇癪を起すことがしばしばありこだわりが強く精神不安定な少女」だとネガティヴな印象しか持っていなかった。
姉のエラも「アリックスに皇后の重責は背負えません」と謂っていた。
父アレクサンドル三世はフランスの王女を皇太子妃として迎えたいと思っていた。然し、ニコライは「アリックスと結婚できないのならば、皇帝にならない」「一生独身でいる」と謂い出し始めてしまう。初めての反抗。
最終的には、アレクサンドル三世が重い病気を患い、漸く結婚に反対をしなくなる。アレクサンドルは二人の結婚と同じ年1894年10月20日に崩御する。
ウォッカが好きで、ドクターストップがかかっても尚、(見つかったらマリア皇后に怒られるので)ブーツの中に瓶を隠しちびちび飲っていたのがトドメになったという……。
ニコライとアレクサンドラは終生愛し合い所謂おしどり夫婦だった。
この時期の二人の交換日記はもう、見てて恥ずかしくなるくらいだ。読んでごめんね…って本気で思った。
ただ、夫とは仲睦まじい夫婦であったものの、皇后は孤独だった。
ロシア宮廷やロシア上流階級の中ではずっと孤立していた。先ず、育って来た文化が違う。アレクサンドラ皇后はイギリス流の潔癖な道徳観とドイツ流の合理主義と勤勉さを何よりも尊ぶ躾を受けて育ち、西欧式の教育を身に着けていた。ロシアの上流階級の婦人たちとは全く異質だったのだ。
ロシア式の宮廷社会は、享楽的で空疎な嘆かわしい生活に耽溺しているだけに見えたので、先ず派手な舞踏会を中止させてしまった。
しかし、この舞踏会は年ごろの娘を社交界にデビューさせて婿探しをする貴重な場所だったので、多くの貴婦人たちの憤激を呼び皇后を巡る空気が険悪になる。また、編み物などの手芸を振女子のたしなみとして皇女達にも幼いころから馴染ませていた。手芸教会を創ったり貧者救済の慈善事業として婦人たちに手作りの編み物などの手芸品を一年に三点づつ提供するように呼び掛けたり、戦傷者たちの診療施設で皇后自ら看護師として年長の皇女達と共に働いたりもしている。
こうした行動も上流社会の夫人からは煙たがられた。
デンマークから嫁ぎ、ロシアの生活に馴染み、習慣に馴染み溶け込み「皇后として完璧に役割を果たした」と謂われている義母、マリア・フョードロヴナとは相容れず不仲だった。
マリア皇后は上流階級の尊敬を集めダンスが好きで宮廷の大舞踏会を主宰して上流階級の尊敬を集めていた。恐らく、マリア皇后の生来の社交好き、華やかな性格がプラスに働いていたのだろう。
アレクサンドラは家庭においては良妻賢母で子煩悩。子供達も宮殿の奥で養育したため、他の子供達と(例えば他の上流階級の子女たち)とも触れ合う機会がなかった。
温かい家庭はあったけれど、皇后は孤独だった。更に、末っ子にして皇太子のアレクセイの不治の病……。
孤独で悩める皇后と謂うパーツは揃った。皇太子の病、そして、現れる心の支え、皇太子の苦痛を和らげる手。
─────ラスプーチン。こうして、また一つ、ロマノフ家滅亡への種がまかれる────。

・OTMA───4人の皇女───

ニコライ二世とアレクサンドラ皇后の間には4人の美しい娘達がいた。4人はとても仲が良く、互いの頭文字を取って出生順に並べた「OTMA」を姉妹の結束の証としてしばしば用いていた。
時に、此処に末っ子アレクセイを加えて「OTMAA」としたこともあった。

OTMA
右からオリガ、タチアナ、マリア、アナスタシア


OTMAA
右からタチアナ、アナスタシア、アレクセイ、マリア、オリガ

OTMAA 右からマリア、タチアナ、アナスタシア、オリガ。前で座っている男の子がアレクセイ。
4人の結束を示すシンボル

・O「オリガ・ニコラエヴナ」

1895年11月15日生まれ。
綺麗な明るい色の髪と明るい青の瞳、すらりと背が高い女性だった。ロシア人らしい善良そうな眼差しの優しい顔立ち。美貌の面では、妹のタチアナ、マリア程ではないと謂われていたが、彼女に出逢った人はオリガを美しかったと回想している。
優しく情け深いがやや粗暴でぶっきらぼう、そして頑固。読書が好きで、勉強も得意。家事は嫌い。すぐ下の妹タチアナと仲が良く、二人揃って「ビッグペア」と呼ばれた。
末っ子のアレクセイの面倒もよく見たという。
ニコライ二世を深く慕い、ニコライ二世の日記にも「長女のオリガと観劇に行った」と、ちょくちょく登場する。

すまし顔


正装。案外お見合い写真だったのかなと想像が広がる一枚。


読書好き、勉強も好き。難しいロシアの文法もきちんと理解し説明できたという。




アレクセイと。この後池に突き落とされたらしい。どぼーん!

恐らく彼女だけは、皇帝一家の中ではあのイパチェフ館の悲劇に巻き込まれずに済んだかもしれない唯一の人だ。
ニコライ二世は第一次世界大戦前に、ルーマニアの王子カロルか、イギリス王太子エドワード(後のエドワード八世)との縁談を纏める心算で居たが、「わたくしはロシア人だからロシアに残りたい」と、外国の王子の元に嫁ぐつもりはなく結局、家族と運命を共にすることになった。
第一次世界大戦勃発後数年間は、看護師の資格を取り、母と妹のタチアナとともに看護師として働いた。多量の出血を伴う大手術にも怯むことなく看護助手の役を務めたという。

・T「タチアナ・ニコラエヴナ」

1897年5月29日生まれ
細身で長身、貴族的な整った顔立ちをしていた。四人の皇女の中で一番美しいと評判だった。
しっかり者で、母と一番仲が良く、母と姉妹達の意思疎通役になっていた。
控えめで信心深く、手先が器用で家事や刺繡が得意。
雪合戦をしていた際、アナスタシアが投げた石入りの(危ない!)雪玉が顔面に直撃したことがあるらしい。その時アナスタシアはびっくりしてギャン泣き。

正装
すまし顔。
数少ない笑顔の写真!
ヴォスネセンスキー・ユサール連隊の正装姿(皇帝からタチアナに与えられた連隊)彼女はこの連隊の名誉大佐だった。彼女は大変この連隊を愛していたという。
母と


弟&愛犬のフレンチブルドッグと


セルビア国王の息子との縁談があったらしい

・M「マリア・ニコラエヴナ」

1899年6月26日生まれ
子供の頃は丈夫で明るい性格。母親に似た大きな青い目をしていてそれは「マリーのソーサー」と呼ばれていた。
子供の頃は上の姉二人と較べてぽっちゃりまるまっちかったので、母のアレクサンドラは大いに悩んだという。
他の姉妹達と較べると骨太っぽいから、そのせいでぽっちゃり見えただけ…の気もしないではない。
美しく成長したマリアは、「ロマノフ家の美貌」を一番引き継いでいると誉れ高かった。

むっちり。


すらり!


にっこり。


絵を描くのが得意で左利きだったという。勉強は嫌い。


すぐ下の妹アナスタシアと最も仲が良かったが、元気な妹に圧倒されがちで、妹が仕掛けた悪戯の被害者に謝りに行くなど火消し要員だったという。
結婚に憧れ、子沢山の母親になり、幸せな家庭生活を送ることを夢見ていたという。
従兄弟のルイス・マウントバッテンは生涯マリアの面影を追い続け、枕元にマリアの写真を飾っていたという。

革命の際はまだ少女だった彼女は、家族と苦難を共にして、大人の女性に成長した。ニコライ二世夫妻がトボリスクからエカテリンブルグに送られる際は、病気がちなオリガ、寝込んでいるアレクセイの世話をしなければいけないタチアナ、まだ幼いアナスタシアに代わり「私が行くわ」と名乗り出た。
他の4人が到着した際は、マリアはアレクセイに自分のベッドを貸して自分は床に寝たと伝えられている。
穏やかだが芯がしっかりしていてとても優しい少女だった。

・A 「アナスタシア・ニコラエヴナ」

1901年6月18日生まれ
小さい頃は美人になるだろうと謂われていたが「そうはならなかった」とは側近談。4人目も女の子か!と、生まれた時、ニコライ二世は落胆を隠すために1時間も散歩したとかちょっぴり切ないエピソードもある彼女は、悪戯大好きな活発なお転婆娘。特技は物真似で、真面目な顔をしていると思えば変顔をしてみたりととにかく彼女がいれば皆笑顔になると謂われるほど快活な少女だった。
因みに、彼女もマリア皇女と同じように「太りすぎ…」とアレクサンドラ皇后を悩ませている。

超いたずらっ子。人を楽しませることが好き。澄ましてるけど、頭の中は悪戯で一杯の顔。
勉強は嫌い。フランス語の発音は抜群。趣味は写真と木登り。一時に登り始めると、ニコライ二世に叱られるまで降りてこなかったとか。

最初は姉達と同じように澄ました顔をしていても頭の中では悪戯の計画が渦巻いており数分後に必ず実行に移すだとか、粗暴だとか、手に負えない子供だとか滅茶苦茶お転婆だったらしい。遊び友達を蹴ったり引掻いたりと謂うこともやらかしたとか。

偽物の歯をつけての変顔。姫…


アレクセイと。仲良し
仲良し


大きくなっても仲良し

アレクセイととても仲が良く、アレクセイの気持ちを一番理解し、アレクセイに悪戯を仕掛け、病弱な弟を楽しませることに長けていたという。


もしかしたら、彼女は子供なりに周囲にあまり期待されていない(年下の女の子だから)ことを(大人たちは口にしていないけれども)察知し、敢えて道化を演じていたのかもしれないと思う。
そして、子供ながらにアレクセイの立場を理解し、彼を支えてあげたいという気持ちを持っていたからこそ、彼女なりにアレクセイに寄り添い、傍に居てあげなければという気持ちを強く持っていたのだろう…と謂う想像。


父のニコライ二世譲りで写真が好きで、カメラを肌身離さず持っていた。其れも、安価な簡易カメラだったらしい。彼女が撮った写真を集めた「ロマノフ朝最後の皇女 アナスタシアのアルバム―その生活の記録」という本もある。図書館では子供向けの本の中にあるかな。興味ある方は是非。この写真は、おそらく世界で最初、自分の姿を映した所謂自撮り。そう、アナスタシアは世界初の自撮り少女だったのだ!現代に生きていたらインスタやTiktokとかやってたのかな。

トボリスクやイパチェフ館の辛い日々でも、心配や辛い気持ちを押し殺して、喜劇を演じたり、楽しい思い出を姉達にうんざりされながらも何度も話したりと、明るく過ごそうとしていた。然し、其れとは裏腹に家庭教師や友人に、死を意識している詩を綴ったり「さようなら」「私達を忘れないで」と謂う手紙を書いたりしている。
遺骨発掘の際、「大公女とみられる遺体の衣装の袖から小さな犬の死骸が転げ落ちたそうです」と謂う証言がある。
アナスタシアは地下室に集められた際、愛犬のジミー(キャバリア・キング・チャールズ・スパニエル)を抱いていたという。あの地下室での惨劇。彼女は小さな犬を抱きしめて庇いながら亡くなったのだろうか。とんでもないお転婆娘と思われた少女は、残されたエピソードからとても感受性豊かで、優しい少女だったことを想わせる。

・マリア皇太后

デンマーク王女時代

ニコライ二世の娘達の美貌はこの人のお陰…!!異論は認めません
文献とか漁ってると、強情でアナスタシア(笑)こと、アンナ・アンダーソンに最期まで会おうとしなかったとか、アレクサンドラ皇后に辛く当たったとか皇后そっちのけで社交に精を出していたとか、割と意地の悪い女性だったように取り上げられているので、果たしてそうだろうかと思い彼女も取り上げることにした。

でも、割と気が強そう(笑)
いや、強い母ちゃんだったけど


皇后時代。

1847年11月26日、デンマーク王フレデリク九世と、王妃ルイーセの次女として生まれる。
出生名はマリー・ソフィー・フリゼリケ・ダウマー。通常は「ダウマー」と呼ばれていたが、家族内では「ミニー」と呼ばれていた。
姉に、イングランド王妃アレクサンドラ・オブ・デンマークがいる
ロシア皇太子の花嫁選びの際、白羽の矢が立ち、最初は皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチと婚約するもニコライは婚約一年後に早世。ニコライの遺志を受けて、弟のアレクサンドル(後のアレクサンドル三世)と結婚する。
婚約者を喪った時のダウマーは取り乱し、憔悴し、一時は健康状態すら危ぶまれるほどだった。けれども、ダウマーはこの時にロシアに添い遂げると決心しており、時の皇帝アレクサンドル二世からも慰めの手紙を受け、ロシアの新しい家族と強い絆で結ばれていた。
アレクサンドルとの結婚後、ロシア正教に改宗し、「マリア・フョードロヴナ」と名前を改めた彼女はロシア語の習得を自らの最優先事項と心得、ロシア文化、ロシアの国民性について懸命に学び、余暇は慈善事業に費やしていた。


アレクサンドル三世との間には四男二女の子宝に恵まれる。(そのうち次男は夭折)
1881年、アレクサンドル二世が爆殺され、皇后に即位。
マリアは、皇太子妃時代、皇后時代を通じて政治的な発言、政治的な行動をすることは殆どなかった。ただ、祖国デンマークに侵攻したドイツに対しては嫌悪感を持っていたようだ。
美しく、社交好き、ロシアの民族性もきちんと把握し明るく楽天的な性格の皇后は民衆からも上流階級の皆様からも人気があった。
娘のオリガは「宮廷生活は全てが豪奢に営まれ、母はそこで自分の役柄をミス一つなく完璧にこなしていました」と回想し、同時代の宮廷人も「クレムリンで威儀を正して玉座に鎮座してきた、あるいは冬宮の大広間を静々と歩いてきた歴代のツァリーツァたちの中でも、マリア・フョードロヴナこそはおそらく最も素晴らしい皇后であろう」と彼女を絶賛している。
そして、社交大好きの皇后は、舞踏会やパーティを開くのが大好きで、夫のアレクサンドル三世も参加するのを好んだが、会を終わらせたくなるとそっと音楽家を一人づつ返し、其れに気付いた皇后が閉会を宣言するのが常であった。

夫アレクサンドル三世と。美女と野獣…。

マリアは、ウラジーミル大公一家以外のロマノフ家の人間と良好な関係を築き、時に怒りっぽい皇帝との仲裁役も頼まれていた。このことは娘のオリガによると「母は義理の親族たちを極めて如才なく手なずけることに成功したが、そのために並々ならぬ努力を払った」とのことだ。

こんな、マリアだからこそ、義理の娘であるアレクサンドラ皇后の事を恐らくは理解できなかったのだろう。
自らは、ロシア語を学び、ロシアの民族性を学び、ロシア宮廷に溶け込もうとしていたのに、と。そしてそれこそが、外国から嫁ぎ皇后になる者の責務だと言うのに。そして、恐らくはお嫁に来た彼女に親身になって助言もしたに相違ない。
けれども、アレクサンドラ皇后は、義母の助言を恐らくは疎ましく思い彼女は彼女で、こんな堕落し、享楽的なロシア文化に浸っているマリアこそ間違っており、マリアを見習おうとは決してしなかったそうだ。
事実、マリアの娘、オリガは後年「両者は互いを理解し合おうとしたが失敗した。2人は性格、生活上の作法、装いなど、全てが完全に異質だった」と回想している。マリアはダンスが好きで社交も好き、人を惹き付ける人柄だったのに対し、アレクサンドラは非常に内気だったので、ロシア国民に近付こうとしなかった。
更に、マリアとしては皇后アレクサンドラがロシア国民の好意を得ることが出来ないこと(恐らく得る努力すらも見受けられないことも含めて)結婚して10年近くも女児ばかり産んで中々男児を儲けられなかったことも不満に思っていた。そして、息子に割とべったり気味な母親が持つ嫁に対しての嫉視もそこには存在した。事実、マリア皇女かアナスタシア皇女の出生時には「皇后がまた女の子を産んだ!」と、不満に思うような日記を残している。

マリアは、根っから明るく、そして、心が強い女性だったのだろう。
アレクサンドル三世がなくなった日の日記。

アレクサンドル三世の死


「私は完全に打ちのめされ絶望した、それでもサーシャ(アレクサンドル三世の愛称)の顔に浮かぶ幸福な笑顔と平穏さを見ているうちに、自然と力が湧いてきた」
そして、マリアには常に、彼女を支え応援してくれる姉、アレクサンドラ・オブ・デンマーク(エドワード七世王妃)が居た。
そしてニコライ二世が新皇帝になった後は、皇后時代までは政治の表舞台に出なかったが、しばしば、助言を与え、ニコライ二世も「母の意見を聞いてくる」と、彼女に助言を求めていた。
更に、大事な決断には「母后殿下のご意見は如何でしょうか」と、家臣たちに促されるほど、マリア皇太后は政治的影響力を持っていた。
これも、娘のオリガによると「母は以前国政への関与にほとんど興味を示しませんでしたが…今や自分の使命だと感じるようになりました。母は魅力的な人柄でしたし、その行動力には目を見張るものがありました。彼女は帝国政府の教育政策に精通していました。また、秘書を政治的な業務に縛り付けてへとへとにさせましたが、自分自身が身を削ることはありませんでした。委員会に出席して退屈しても、その素振りを隠す才能を持っていました。彼女の振る舞い、就中、彼女の指揮能力には皆がひれ伏しました」

さて、その後のマリアの動きを見よう。
アレクセイが生まれた後、ニコライ二世の政治的助言者は母マリアから妻アレクサンドラに変わっていた。
マリアは、皇帝夫妻に近付くラスプーチンを嫌い「危険な山師」と呼んでいた。そして、皇帝夫妻にラスプーチンを退ける様に忠告をするも、沈黙する皇帝に対し、皇后は「其れは出来ません」と返答する。
マリアは、其処で皇后こそが国を左右していると見做し(そもそも、ニコライは人の意見に左右されやすい性格だと見做していたこともあり)
「私の愚かな嫁は王朝と自分自身を破滅へと導いていることに気付いていない。彼女は本気であんな山師の聖性とやらを信じ込み、私たちは迫りくる破局に対して無力です」
と、自らの無力を嘆いたこともある。

それでも、再三再四、ラスプーチンを遠ざける様、皇帝に、皇后に彼女は進言している。
特に、ラスプーチンの影響下にあるアレクサンドラが国事介入を頻繁に繰り返すことを危険視し、皇后の姉、エリザヴェータ(エラ)や、皇后の従妹ヴィクトリアも共にラスプーチンを遠ざけ、帝室メンバーとの和解を進言するが、其れも皇后はにべもなく断っている。他の帝室男性陣も次々と進言するが、一向に効果はなかった。
一度は、息子の廃位を引き換えに君主制を護持するクーデター計画に参加しもしたが、これはこのことを察知したアレクサンドラ皇后が皇帝との事前の取り決めに従い、皇帝は母に宮廷を去るように命じた。
マリアは、首都ペトログラードを離れ、キエフ(世界情勢に鑑み「キーウ」と表記すべきかもしれないがあくまでロシアの歴史である為「キエフ」と表記する。)のマリインスキー宮殿に移る。
マリアは二度と、ロシアの首都に戻ることはなかった。

そして、間もなく皇帝夫妻は帝室メンバーの誰とも連絡を取らない様になってしまう。
ラスプーチン暗殺後、帝室メンバーはマリアに対し、皇后から皇帝の助言者の地位を取り戻すように進言した。マリアは首を横に振るが、皇后の影響力を国事の一切から排除することには同意した。曰く
「アレクサンドラ・フョードロヴナは追放しなければなりませんね。やり方は分かりませんが絶対に追い出さねば。皇后は精神に異常を来したことにすればいいでしょう。そうすれば修道院に監禁できますし、ともかく表舞台から消すことができます」
完全に、皇后を見限っていた。

結局、ニコライ二世は廃位され、イパチェフ館で銃殺される。
マリアがその知らせを聞いたのはクリミアの離宮でのことだ。
マリアがニコライの生活を案じての日記
「誰も彼らを救出できない…神を除いては!おお主よ、どうか私の可哀そうな、不運なニッキー(ニコライの愛称)をお守りください、彼が大いなる試練に立ち向かうことができるよう、お助けください!」
そしてマリアは、少なくとも表向きは、「一家はロシアをすでに出国していると確信している、ボリシェヴィキが真実を隠そうと躍起になっている」と謂う想いを崩御するまでずっと守り続けていた。
長男一家が惨殺されたという事実を認めることが、彼女には到底耐え難かったのだろう。
ただ、彼女の娘のオリガは
「母は晩年の数年間、精神の奥深くでは皇帝一家が命を落としたという真実を鋼の心で受け入れていたと確信しています」
と述懐している。

彼女の最晩年、亡命ロシア人の政治組織・全ロシア君主主義者評議会はマリアにロシア帝権の代理執行者の地位に就くよう提案したが、マリアは「誰もニッキーが亡くなるところを見ていないのよ」と、この申し出を辞退した。

彼女は、アナスタシア皇女を名乗るアンナ・アンダーソンから何度も面会を請われているが、其れも全て固辞している。
彼女が、アンナ・アンダーソンに逢わなかった理由は彼女の胸の中にしかない。
ただ、彼女の「誰もニッキーが亡くなるところを見ていないのよ」と謂う言葉が、彼女の気持ちを、アンナ・アンダーソンに逢わなかった理由を示してくれているように思えてならない。
そして、オリガの「母は晩年の数年間、精神の奥深くでは皇帝一家が命を落としたという真実を鋼の心で受け入れていたと確信しています」と謂う述懐。
一見、矛盾している言葉の様にも感じるが、マリアは、息子と孫達が亡くなったことは心の奥深くで受け容れながらも、ニコライ二世の母であり、彼の子供たちの祖母である彼女が「一家の惨殺現場から命からがら逃げることに成功した」と説明しているアンナ・アンダーソンに逢ってしまっては、其れこそ、ニッキーとその家族(アナスタシア以外)の死を認めることになりはしないか、と、思ったのではなかろうか。
「誰がニッキーの生存を信じていてあげるのか」「誰が、(生き残ったと主張している)アナスタシア以外の子供達の生存を信じてあげるのか」「誰が、ニッキーとその家族達が生きて帰ってくるのを待っていてあげるのか」という気持ちがあったのではないか、と感じられる。
だから、心の中では息子たちの死を受け容れた、或いは息子たちがこの世に居ない可能性を受け容れながらも、公には「誰もニッキーが亡くなるところを見ていないのよ」と謂う立場を堅持し続けていたのではないか、と。
其処には、ロマノフ王朝の皇太后ではなく、只管息子の無事を願い続ける一人の老いた母親の姿が浮かび上がる。

1928年、マリア皇太后 崩御。80歳。

彼女は2006年に、デンマークからロシアへと改葬され、アレクサンドル三世の隣で眠っている。

マリア皇后と夫、子供達。





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