ティターニア
佐々がピアノを鳴らすと、「ド、レ、ミ」と透き通った声が響いた。
ずいぶん前だが、佐々は彼女と地獄へ行く覚悟を決めた。小柄で、儚げな印象を覚える顔立ちだ。大雨の中、駅で立ちすくむ彼女に名刺を差し出せたのは偶然ではないと信じ込んでいる。
佐々が運営しているピアノ教室の生徒は少女一人。音大を出たものの、とうとうピアニストにはなれなかった。周囲をうろつくだけの亡者だ。
「次は【翼】を使いながら」
少女は着ていたワンピースをためらいなく脱いだ。下着姿の背中には、恐竜を思わす翼が存在している。
灰色の翼はゆるやかに天井まで伸び上がる。大きさ、骨格は古の鳥だ。濡れそぼったポンチョの下に翼が透けた時、佐々は己を破廉恥だと感じた。
モーツァルトから練習に入った。全長五メートル近いグロテスクな翼を生やした少女は、ゆっくりと喉から声――そして音を紡ぐ。オペレッタ、ロンド、落語。翼の賜物だろうか? 少女はあらゆる声を出せる。男性やテレビ、動画の声も然り。翼はゆっくりと震える。
何もかたちになっていないのに、音は古代の布のように美しい。
「あなたに仕えます――」と少女が歌い終わり、佐々は拍手した。
「疲れた?」
「ちょっと。でも、痛い、ないから」と少女は答える。以前、三時間ぶっ続けで歌い続けた後、翼に血が滲んだ。あんなことは二度としたくない。
部屋に電話がかかってくる。
「応募テープ、拝聴しました。ぜひお会いしたいと。ところで……履歴書の空白は?」
「外国にいまして」と佐々は、笑顔で少女を見た。少女は目線に合わせてしゃがむ。
佐々は電話を切り、少女を優しくなでた。くすぐったそうに喉を鳴らす。
「ティターニア。行くよ」
佐々は己の本心に気づいている。自分は外道である。だが、地獄の底に妖精が迷い込んできた。相手が人間でないならば、せめて亡者である佐々が導いてやるべきではないか?
少女は微笑んだ。
【続く】
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