イリヤの夜

 イリヤの夜がまたすぐそこまで訪れようとしている。
 今夜こそは、この白く細い足首では逃げ切れないような気がしている。いや、そうではない。きっとそうではない。分かっているんだ。追われているそれに掴まってしまうことが恐ろしいのではない。きっとまたこの夜も乗り越えられてしまうだろうというこの白白とした見通しが、夏空へまっすぐ延びた砂ぼこりの舞う農道のように、侵し入った者に飛びかかる盲目の蝙蝠の群れのように、今日も僕を苛んでやまない。

 雨雲がどれだけ夜光を吸い込み、したたかな意趣返しをしようとも、鎧戸を下ろした部屋の中は、清潔なはずの洗濯物の雨林として耐えがたく湿っている。その中に、僕はこれからその柔らかなベッドに身を横たえんとする。疲れは僕を眠りへと引き込んでくれる。寝つけないのは僕が働き足りないからだ。ねえ、しかし、これはあくまで引き裂かれた夜の笞刑だ。きつく巻いた肩はか弱きものを抱く慈愛の姿にさえ似ている。それが再帰詞でしかないことを知っているだけに、いよいよそれは逃げ場を失っている。

 だから僕は仕事をしない、疲れていない身体を湯につける。足の裏や肩や、こわばった身体を他でもない自分の手で揉む。するとそれだけ掌がくたびれる。それを誰かの手に譲り渡すことはできないようだ。針葉樹林の香りだという青い湯に顔を沈める。少しの間僕は息が出来ない。小さな湯舟ではどこにも漕ぎ出すことはできない。

 貰った梅を漬けよう。一キロばかりの、それは青い青い梅の実だ。明日にはまた一日分黄色く煤けてしまう、足のはやい爽やかな毒の実だ。大きな瓶と、氷砂糖と、必要なものは買い揃えてあった。僕は働いて金を取っている(それがいったいどうしたというのだろう?)。布巾は清潔でなければならない。それは正しいことだった。ヘタや皮やあるいは瓶の底にへばりついたほんの少しの黴は、カリエスのように、あるいは毎年この時季になると鈍く痛むこの胸のように、ゆっくりと着実にその美しさを蝕んでゆく。だから僕は伸びかけた、落ちかかる髪を耳にかける。その指さえ汚れているから、何度も何度も水を落とす。僕は、僕はそのあらゆる悪意から、はびこる悪意からこのレーテーの水を守ってやりたい。
 それぐらいは、この僕にもできるだろうか。その香りは、一度鎖してしまえばふたたびは会えない、また会う時はお互いに腐臭を通わせ合うほかない、それは墓の前で交わす、滑稽な百合の花の約束だ。

 ねえ、この狡猾さぐらいは、この小さな手に収めんとする一抱えの美しさだけは、どうかしばらく、しばらくは手放さずにいられないだろうか。百の月を漬けたその琥珀色の約束は、少なくともそれまで僕の手を引いて行ってくれはしないだろうか。その不遜をさえ笑って済ませるほどの勁さが、ほんのいっとき僕から僕を引き剥がしてはくれないだろうか。

 僕は早くこの僕からはなれ、その遠くはなれたところから文を書いていきたい。

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