『モンテーニュ逍遙』第9章
第九章 《両脚を座位よりは少し高く》 ──モンテーニュ城館のいまむかし──
(pp.269-296)
かつて広まった「〈エッセー〉進化説」は、複雑微妙なモンテーニュの思想を正しく理解するうえで妨げになる。
モンテーニュはどのような環境のもとで『随想録』を書いたか。モンテーニュの城館、書斎〈リブレーリー〉をめぐって。
書斎の天井に記した格言の数々を眺めるモンテーニュの姿。
(本章より)
ミシェル自らの記述に準拠する限り、彼のリブレーリーは、ラ・ボエシ遺愛の蔵書を含めて優に一千冊の書籍によってその壁のほとんどすべてを覆い尽くされてはいたけれども、それは大学の研究室とはちがって、それよりはずっと安楽な、いかにも悠々たる自由人の魂の休息所たるにふさわしい、ただの読書室であった。(p.271)
モンテーニュには、その隠棲の当初何を書くべきかについて逡巡模索の一時期があったかのように言われるが、私はそうは思わない。(...) 彼の胸中にはもっと早くから言いたいこと書きたいことが鬱積しており、むしろそのために、断然彼は引退にふみ切ることができたのではあるまいか。(p.273)
今モンテーニュの塔の三階の三つの窓から四方を眺めると、見渡す限り煙るような緑であってほとんどさえぎるものもない。モンテーニュはこうした自然の只中で、近隣の友人貴族や幼な友達であった農夫や肉親の誰彼と共に暮らしたのである。彼自ら言うところによれば、彼の随想はこの屋敷のそとで書かれたものは一つもなかったのであるから、この郷土とこの屋敷と、そこでのさまざまな交遊と、特に塔の三階リブレーリーにおける日常、その天井に記された格言に関するさまざまな資料こそ、従来明らかにされたいわゆる〈書籍的源泉〉以上に、モンテーニュの思想の直接的現実的な源泉であったと見てよいだろう。(p.282)
モンテーニュは中年の頃、彼の口授のもとに筆記の役をつとめる書生をひとりもっていたらしい。第二巻第三十七章の冒頭のみならず、それを思わせる記述があちこちに見られる。これも『随想録』という書物が哲学者や批評家の論者ではなく、詩人ないし随筆家の芸術作品・感想録であったことを教える。(p.285)
ひまな時モンテーニュは書斎の椅子にほとんど仰臥するような格好で横たわり、天井を仰ぎ見ながらそこに限りなき冥想の泉を汲んだのではないか。(p.292)
関根秀雄著『新版 モンテーニュ逍遙』(国書刊行会)
関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』(国書刊行会)