海にはなりたくない

海になるとしたらすべての海岸や船着場や交易港が自分の端になる。広がりすぎた自分が拡散してなくなる感覚があって気持ち悪い。

「個の概念をなくして世界が1つのでかいカキフライになればいい」と初めて聞いたときも「人類は将来、個ではないでかい藻になるんだと思う」と聞いたときもおおよそ同意していたはずなのに、いざその中に身を置くことを思うと気持ち悪く感じてしまう。混沌なのに方向が決まっていて、その大きな流れに自分が埋没していってしまうような居心地の悪さ。絶対精神に対する実存主義ってこういう風に生まれたのかもしれない、と思うけどたぶん違う。

他にもなりたくないものがいくつもある。最近は銅像になりたくない。大仏にもなりたくない。大きければ大きいほど。

ポケモンにもなりたくない。もし自分がポケモンだったら、ポケモンである以上モンスターボールにしまわれて持ち運ばれる可能性がある。謎の赤い光線がよくわからなくて怖いから浴びたくない。ボールの中はどうなってるんだろう。時間はボールの外よりも速く過ぎるのかな。持ちやすくされるのも屈辱的だ。

ボールに入る覚悟ができないということは、ポケモンになってしまったときに自分の状況を受け入れられないということで、バトルどころじゃないだろうな。ずっと手とかを見ちゃうと思う。
「もういい、もどれ」って言われながらよくわからない赤い光線浴びることを想像するとポケモンになることがなおさら怖い。

なりたいものもちゃんとある。今は富士山になりたい。裾野っていいなと思っている。裾野が欲しい。大きいけれど範囲がおおよそ決まっていて、遠くからも見える。どーんとただあるだけのものになれたらどれだけいいだろう。どんな山でもなれたらきっとうれしいだろうけど、富士山になれた日にはたまらないだろうな。

あとはコジコジみたいな全方位へのデタッチメントが同時に全方位へのアタッチメントになっていて、大きくてシンプルなのにわかりにくい関係になりたい。

大きくなりすぎた自己の拡散と、モノ扱いされることへの怖さ。
ただあることと、本質になることへの憧れ!

思いつき・思い出・日記